ー聖霊降臨節第20主日礼拝ー
時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
稲山聖修牧師
聖書:『マタイによる福音書』21章18~32節
讃美歌:312(1.2), 234A(1.3), 543.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
【説教要旨】
最近ではカーナビゲーションはおろか、スマートフォンさえあれば、目的地への道のりを人工衛星との関わりで人工知能が行き先まで導いてくれます。地図を事前に調べてから訪ねるよりも、はるかに便利になりました。もちろん、その分わたしたちが頭を使わなくなっているのには注意しなくてはなりません。それでは「全ての道はローマに通ず」と言われるほど占領下に道路が整備されたローマ帝国の場合は、果たしていかがなものだったでしょうか。
確かに「全ての道はローマに通ず」との言葉はそのものとしては偽りではなかったことでしょう。しかしローマから離れるほど石造りの堅牢な道は少なくなり、狭い路地に入ればいつの間にかその路地すらも見えなくなってしまう。またはうっかり道を間違えた旅人は深い森に入り込むや、地図のない道をあてどもなくさまようほかなかったでしょう。転じて新約聖書に描かれる世界には「カイザリア」という町が一箇所ならず登場してまいります。カイザリアには治安維持のために駐留するローマ帝国の軍隊の宿舎が設営されて事実上の基地となり、時に総督も宿をとりました。
土木建築に優れた手腕を発揮し、物流を進めたローマ帝国の働きは、結果として地域共同体の自給体制を破壊し、ローマ帝国に流通する貨幣を用いなければ暮らしていけないしくみを造りあげてまいります。道行く貧しい旅人に加え、それまでの暮らしの基盤を失い住まいを失った人々が求めたのは何だったというのでしょうか。
端的にいえばそれは食糧です。飢えに苛まれれば鈍するという単なる暮らしの問題には留まらず、栄養状態のよい状態の場合には罹患しない病にも冒されます。衛生面の問題だけでなく、追い詰められた人々はローマ帝国に抗議し、絶望的な反乱活動に及びます。それはローマ帝国の支配からの独立運動にもつながりかねません。イエス・キリストの時代が決して穏やかな時代ではなかったことは、『使徒言行録』で、後の使徒パウロの師匠にあたるユダヤ教の律法学者ガマリエルが証言する通りです。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。以前にもテウダが、自分が何か偉い者のように言って立ち上がり、その数400人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた」。「住民登録の時」とは、マリアとヨセフがベツレヘムを目指して旅を続けていたその時と重なります。
そのような諍いを宥めるかのように街道筋に植えられていったのがいちじくでした。その広い葉は強い日差しに体力を奪われた旅人や家を失った人が安らぎを得る木陰を作り、その実は応急措置として栄養価のある実を提供します。少なくともローマ帝国は、このいちじくの木を象徴的に用いて、貧しさに苦しむ人々を忘れてはいないとメッセージを発信しようとしたのです。
本日の箇所で人の子イエスは「空腹を覚えられた」とあります。自らを貧困層に重ねるのです。そしていちじくの木を見て近寄りますが葉のほかには何もありませんでした。「今から後いつまでも、お前には実がならないように」。ローマ帝国の貧困救済の象徴を根底から否定してしまいます。しかしそれは単なる否定や抗議には留まりません。戸惑う弟子への答えには「あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起きたことができるばかりではなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛びこめ』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」。これは単に信じる者は救われるというような安直な言葉ではなくて、食うに事欠く人々と同じところに身を置いたイエス・キリストが、人々が本当のところ何を求めているのかを語る中で用いられています。わたしたちはこの「いちじくの物語」がローマ帝国の物語ではなく、福音書の物語として編まれているところを心に刻みましょう。「天地創造の物語」では、人はいちじくの葉でもって自らの最も弱いところを隠し、守るために用いました。『新約聖書』では社会の最底辺で生きる人々を守るために用います。その実は食うや食わずの人々に手をさしのべる教会の働きをも示しています。教会はどのような時と場所にあっても「交わり」、則ち、人とのつながりを神への祈りに重ねる役割を担っています。イエス・キリストを通して授けられた信仰の実りとしてのいちじくは世の混乱を養いとして必ず実ります。それを分かちあい、楽しむ時を待ちつつ、キリストに示された道を今・この時代にあってともに歩んでまいりましょう。対面式礼拝再開の喜びを味わいながら。