2021年9月1日水曜日

2021年9月5日(日) 説教(在宅礼拝用です。当日の礼拝配信についてもお知らせしています。)

緊急事態宣言が大阪府下に発令されています。
教会員のみなさまにおかれましては、在宅礼拝をお願いします。
(ページの下に、礼拝配信のリンクを掲載しています。)
 

説教:「呼び声に従う決断」 稲山聖修牧師

聖書:『マタイによる福音書』 18章10~20節
讃美歌:294 399 542

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】

 『新約聖書』が描く世界で羊たちはどのように飼われていたか。今日のように品種改良されていない家畜は、牧童の言葉に必ずしも従順ではなかったかも知れません。けれどもいざというときには、つきっきりで世話をする羊飼いの声を聞き分け集まってくるということは充分あり得ることでした。それだけではありません。『新約聖書』の世界では今で言うところのアラビア数字はまだ発明されておりません。また実質的にはデスクワークとはほど遠いところで汗を流す羊飼いたちに数を数えるという習慣があったかどうか。もちろんそれは指折り数えてという意味ではあったかもしれませんが、緻密な計算の術を学ぶ機会があったかどうかは分かりません。そのような中で百匹の羊と関わっていたと申します。すなわち、羊一匹いっぴきの個体差を見抜いて名をつけ、そしてその名を呼ぶことで、羊を飼育していたというのです。この境地までに達しますともはや飼育するという枠を超えて「ともに暮らす」としか表現できません。一匹いっぴきの顔つきや表情、毛艶や年齢や声の調子を見極めて健康状態を確かめながら養い続けます。牧童すなわち羊飼いには一匹も九九匹も変わらない、名のある存在です。ですから迷い出た一匹がいれば他の九九匹と同じように探し求めますが、見つけ出せばやはり他の九九匹の羊と同じような喜びに包まれます。小さな者の一匹でもいなくなってしまうのを羊飼いが喜ばないのと同じように神は一人でも滅びるのをお喜びにならないという譬え話です。この譬え話を土台にして次のメッセージを主イエス・キリストは語ります。

「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」。兄弟に対する罪。これは一体何のことだというのでしょうか。具体的に福音書は語りませんが、わたしたちが『旧約聖書』の物語で思い浮かぶのは兄カインと弟アベルの争いです。これは『創世記』4章に記されます。兄カインの献げ物を神は顧みず、神は弟アベルの献げものを受け入れました。その結果カインはアベルに対して怒りを激しく燃やしついには殺害に及んでしまいます。『聖書』の物語全体で「罪」という言葉が初めて用いられますのはこの箇所。ですから『聖書』で言うところの罪とは仏教でいうところの業(ごう)や因果として直ちに翻訳はできません。それは現行罪、つまりまずは実際に犯した過ちとなります。そしてそのような過ちを犯した者には第一には当事者だけのところで忠告しなさいと語ります。どちらにも恥を欠かせないためです。それでも駄目なら二名から三名、それでも駄目なら教会と忠告が行われ、それでも駄目ならば「異邦人か徴税人と同様に扱え」というのです。

 さてこの声に疑問を覚えた方はおられないでしょうか。「異邦人か徴税人と同様に扱え」。確かに異邦人も徴税人も古代ユダヤ教ではその社会から排除されていた人々ではありましたが、その扱いがそのまま初代教会に持ち込まれるとは、結局のところ異邦人への救い、徴税人への救いの物語は意味を失ってしまうのではないだろうか、台無しにしてしまうのではないかとドキドキします。しかし職業としての徴税人の役割が『福音書』では論じられはしませんし、異邦人の説明が辞書のように記されているのでもありません。いずれもイエス・キリストと出会ったのは異邦人という、ユダヤ人ではない「人々」、徴税人という職業を生業とする「人物」であり「人格」です。異邦人にも人物像固有の掘りさげがあり、徴税人にもなまえがあります。イエス・キリストと出会うのは肩書きや職業ではなく人物なのです。この点をを踏まえますと19節以降の文が実に豊かな広がりをもつにいたります。「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人また三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。教会に芽生えてしまった胸痛む事柄も、心を一つにして祈るなら神はその痛みを癒やしてくださいます。コロナ禍の中でどうしてよいのか見極めがたいところに置かれるのであれば、どのように小さな交わりであったとしても、主なる神は必ず教会にいのちの力を吹き込んでくださいます。そしてどのような羊も置き去りにしない力を、交わりの特性を通して備えてくださるのです。

 本日から新しい月を迎えます。暦はすでに秋を数えます。しかしその一方で緊急事態宣言解除の見込みは相変わらず不透明ではあります。ただし、わたしたちはその不安を主なる神に委ねて、幸いにも日々の働きに向き合うことができます。主イエスはわたしたちの名を呼んでくださる。その原点から、2021年の残り三分の一を始めましょう。