教会員のみなさまにおかれましては、在宅礼拝をお願いします。
(ページの下に、礼拝配信のリンクを掲載しています。)
※なお、10月3日(日)から対面式礼拝を再開します。
ー聖霊降臨節第19主日礼拝ー説教:「人と較べずに生きていきなさい」
稲山聖修牧師
聖書:『マタイによる福音書』20章1〜16節
讃美歌:517,Ⅱ189, 544
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
【説教要旨】
筋萎縮性側索硬化症。運動神経が次第に衰えていく難病・ALSの患者さんが舌を動かせなくなったとき、意思疎通のために用いるツールに視線入力装置があります。日本の場合、平仮名が五十音順に並んだ透明のパネルを見つめると、その視線をコンピューターのカメラが感知し文字認識する機材です。
しかしすでに1950年代にアナログ式でこの方法を用いて隣人との関わりを困難の中で見出し「瞬きの詩人」と呼ばれた人がいます。それは水野源三さんです。信州の佐久に暮らしていた幼い頃の遊び場といえば千曲川の畔でした。しかし9歳の頃、この地域を集団赤痢が襲い、源三さんは高熱で脳性麻痺を起こし目と耳の機能だけが残りました。献身的に支えた母の備えた聖書を読みキリスト者となり、18歳で洗礼を授かります。忘れられないのは1970年代に水野さんを特集した映像作品でした。女優の長岡輝子さんが水野さんのお宅を訪ねてお話をするという内容だったのですが、実はその懇談は伏線となっており、本来の訪問者は小学校二年生の男の子と妹さん、そしてご両親でした。男の子は虫かごをもってきて「カブトムシとったことがありますか」と言いながら無邪気に遊んでいるのですが、本来の目的は、ぜんそくの治療で服用していた吸入剤に含まれるステロイドと視力低下の副作用の因果関係がはっきりしていなかった当時、片眼を事実上失明、もう一方の眼も視力が低下していく経緯の中で、少年は正座をして水野さんに問うことにありました。「ぼくはどうすればよいですか」。おそらく事前にご両親が事情を伝えていたことなのでしょう。水野さんはしばらく考えた後に「人と較べずに生きていきなさい」と文字盤を通して笑顔で語りかけ、男の子は真剣に頷き、水野さんはウインクをするように微笑みかけるという場面。忘れられない場面です。
「人と較べずに生きていきなさい」。モーセの十戒の最後の誡めで「妬んではならない」と記される内容を分かりやすく、かつ柔和に表現しています。わたしたちは学校教育から始まって絶えず自分と他人を較べて生きるレールを強いられます。入試や偏差値がそうでしょうし、その結果として進路が定められ、就職後の道もまた比較の中に暮らします。そこで深く傷ついてしまえば他者との関わりを拒絶して閉じこもるか、突如として起きる犯罪の温床にすらなり得ます。どのような基準であるにせよ、他者との比較があってそして自己評価を定める中に日本社会の病理があるように思います。親を選べないことが「親ガチャ」と呼ばれる中、死因の第一となるのが自死という現実があります。
しかし聖書は全く異なる尺度をわたしたちに提示します。そのひとつが本日の「ぶどう園の労働者」の譬えです。ある家の主人がぶどう園の労働者を雇うために自ら夜明けに出かけ、一日1デナリオンの約束で人を求めます。日雇いの話です。そして9時頃でかけると何もせず広場にいる人々にも声をかけます。12時頃と午後3時頃出かけて同じようにし、夕方5時頃「だれも雇ってくれる人がいない」と意欲はあるものの無職のまま途方に暮れている人々に声をかけます。そして未明から働いた人にも、午後5時から雇用された人にも同じように1デナリオンを手間賃として支払います。手当のことですから当然日雇い労働者からは不満が出ます。しかし主人はこれは時給ではなく日当なのだ、この最後の者にもあなたと同じように支払いたい、わたしの気前の良さを妬むのか、という結びとなります。
わたしたちがこの箇所から聴きとる事柄はあまりにも大きいのですが、ぶどう園での労働はまことに過酷な仕事です。日差しが強く乾燥していなければよいぶどうは実りませんし、たわわに実ったぶどうを傷つけずに収穫するのには手間が掛かります。ぶどうは葉もまたロールキャベツのように肉をつつむため野菜として重宝されますから決して雑には扱えません。実に手間の掛かる労働ではありますが、未明から働いた者にも、夕暮れに雇用された者にも同じ1デナリオン。「誰も雇ってくれないのです」と嘆く者をも、主人は自ら声をかけ、ブローカーを通さず呼び集めます。
イエス・キリストのこの譬えには、効率主義を求めた結果、優生思想にたどり着いたわたしたちの社会のある人々に強烈な一撃を加えます。この箇所で言うところの1デナリオンとは、生活を保障する賃金に留まらず思い悩みも含めて「お前は今日一日よくやったのだ」という神の愛による絶対的ないのちの祝福があります。身体が思うように動かなくなったとしても、イエス・キリストは「お前には用はない」とは絶対に言いません。深い生きづらさを抱えて過ごすわたしがいたとしても、微笑みながら主イエスはその人を「人と較べないで」と抱きしめてくださるのです。
ー聖霊降臨節第19主日礼拝ー説教:「人と較べずに生きていきなさい」
稲山聖修牧師
聖書:『マタイによる福音書』20章1〜16節
讃美歌:517,Ⅱ189, 544
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。
筋萎縮性側索硬化症。運動神経が次第に衰えていく難病・ALSの患者さんが舌を動かせなくなったとき、意思疎通のために用いるツールに視線入力装置があります。日本の場合、平仮名が五十音順に並んだ透明のパネルを見つめると、その視線をコンピューターのカメラが感知し文字認識する機材です。
しかしすでに1950年代にアナログ式でこの方法を用いて隣人との関わりを困難の中で見出し「瞬きの詩人」と呼ばれた人がいます。それは水野源三さんです。信州の佐久に暮らしていた幼い頃の遊び場といえば千曲川の畔でした。しかし9歳の頃、この地域を集団赤痢が襲い、源三さんは高熱で脳性麻痺を起こし目と耳の機能だけが残りました。献身的に支えた母の備えた聖書を読みキリスト者となり、18歳で洗礼を授かります。忘れられないのは1970年代に水野さんを特集した映像作品でした。女優の長岡輝子さんが水野さんのお宅を訪ねてお話をするという内容だったのですが、実はその懇談は伏線となっており、本来の訪問者は小学校二年生の男の子と妹さん、そしてご両親でした。男の子は虫かごをもってきて「カブトムシとったことがありますか」と言いながら無邪気に遊んでいるのですが、本来の目的は、ぜんそくの治療で服用していた吸入剤に含まれるステロイドと視力低下の副作用の因果関係がはっきりしていなかった当時、片眼を事実上失明、もう一方の眼も視力が低下していく経緯の中で、少年は正座をして水野さんに問うことにありました。「ぼくはどうすればよいですか」。おそらく事前にご両親が事情を伝えていたことなのでしょう。水野さんはしばらく考えた後に「人と較べずに生きていきなさい」と文字盤を通して笑顔で語りかけ、男の子は真剣に頷き、水野さんはウインクをするように微笑みかけるという場面。忘れられない場面です。
「人と較べずに生きていきなさい」。モーセの十戒の最後の誡めで「妬んではならない」と記される内容を分かりやすく、かつ柔和に表現しています。わたしたちは学校教育から始まって絶えず自分と他人を較べて生きるレールを強いられます。入試や偏差値がそうでしょうし、その結果として進路が定められ、就職後の道もまた比較の中に暮らします。そこで深く傷ついてしまえば他者との関わりを拒絶して閉じこもるか、突如として起きる犯罪の温床にすらなり得ます。どのような基準であるにせよ、他者との比較があってそして自己評価を定める中に日本社会の病理があるように思います。親を選べないことが「親ガチャ」と呼ばれる中、死因の第一となるのが自死という現実があります。
しかし聖書は全く異なる尺度をわたしたちに提示します。そのひとつが本日の「ぶどう園の労働者」の譬えです。ある家の主人がぶどう園の労働者を雇うために自ら夜明けに出かけ、一日1デナリオンの約束で人を求めます。日雇いの話です。そして9時頃でかけると何もせず広場にいる人々にも声をかけます。12時頃と午後3時頃出かけて同じようにし、夕方5時頃「だれも雇ってくれる人がいない」と意欲はあるものの無職のまま途方に暮れている人々に声をかけます。そして未明から働いた人にも、午後5時から雇用された人にも同じように1デナリオンを手間賃として支払います。手当のことですから当然日雇い労働者からは不満が出ます。しかし主人はこれは時給ではなく日当なのだ、この最後の者にもあなたと同じように支払いたい、わたしの気前の良さを妬むのか、という結びとなります。
わたしたちがこの箇所から聴きとる事柄はあまりにも大きいのですが、ぶどう園での労働はまことに過酷な仕事です。日差しが強く乾燥していなければよいぶどうは実りませんし、たわわに実ったぶどうを傷つけずに収穫するのには手間が掛かります。ぶどうは葉もまたロールキャベツのように肉をつつむため野菜として重宝されますから決して雑には扱えません。実に手間の掛かる労働ではありますが、未明から働いた者にも、夕暮れに雇用された者にも同じ1デナリオン。「誰も雇ってくれないのです」と嘆く者をも、主人は自ら声をかけ、ブローカーを通さず呼び集めます。
イエス・キリストのこの譬えには、効率主義を求めた結果、優生思想にたどり着いたわたしたちの社会のある人々に強烈な一撃を加えます。この箇所で言うところの1デナリオンとは、生活を保障する賃金に留まらず思い悩みも含めて「お前は今日一日よくやったのだ」という神の愛による絶対的ないのちの祝福があります。身体が思うように動かなくなったとしても、イエス・キリストは「お前には用はない」とは絶対に言いません。深い生きづらさを抱えて過ごすわたしがいたとしても、微笑みながら主イエスはその人を「人と較べないで」と抱きしめてくださるのです。