2021年9月15日水曜日

2021年9月19日(日) 説教(在宅礼拝用です。当日の礼拝配信についてもお知らせしています。)

緊急事態宣言が大阪府下に発令されています。

教会員のみなさまにおかれましては、在宅礼拝をお願いします。

(ページの下に、礼拝配信のリンクを掲載しています。)

 -聖霊降臨節第18主日礼拝-

説教:「いつくしみ深き」
稲山聖修牧師

聖書:『マルコによる福音書』10章17〜22節(新約聖書81頁)
讃美歌 :121. 312. 542.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】

 アフガニスタンのカブール空港に自衛隊機が到着したものの、現地人の関係者は全て置き去りにされて飛行機は飛び立ちました。その報せとともに思い出したのが旧外務省職員リトアニア・カウナス日本領事館領事代理の杉原千畝氏の「いのちのビザ」でした。杉原氏は当時の外交官の職務として旧ソ連やドイツ周辺国の情報収集にあたり、ソ連の動向を日本政府に連絡する諜報活動にも従事しました。しかし独ソ戦が始まり領事館にユダヤ人の難民が押しかけるようになると「夜、宵の始めに起きて叫べ。主の前にあなたの心を水のように注ぎ出せ。町のかどで、飢えて息も絶えようとする幼な子の命のために、主に向かって両手をあげよ」(口語訳『哀歌』2章19節)、そして「神は愛だからです」(新共同訳『ヨハネの手紙Ⅰ』4章8節)を思い浮かべた伴侶の幸子さんの励ましもあり、ユダヤ人難民に2139枚以上のビザを発給しました。しかし三国同盟を危うくするとの日本政府の叱責を受け、ドイツの秘密警察の監視を受けながら、何とか外交官としての職務を遂行、1947年に帰国するも外務省から退職通告書を受け退官、戦後は辛酸を舐めた人物でした。アフガニスタンといえば中村哲医師を思い出しますが、お二人に共通するのは中村哲医師の場合「困っている人を放っておくことはできません」、杉原千畝氏は「大したことをしたわけではない。当然の事をしただけです」というまことにシンプルな動機です。中村医師はバプテストの教会、杉原千畝氏はロシア正教会に連なるキリスト者でした。

 こうした言葉を踏まえながら本日の聖書を味わいますと言いようのないやるせなさを感じます。「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。』イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』というのか。神おひとりのほかに、善い者は誰もいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたはみな知っているはずだ」。すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめて慈しんで言われた。『あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい』。その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」。礼拝を赦されているわたしたちは、コロナ禍にあり苦境に立たされていても辛うじて暮らしを持ちこたえています。さらに話を広げれば、人によれば万一、病床使用率が逼迫する中で新型感染症に罹患したとしても入院加療が可能です。他方でコロナ関連の変死事案として警察が公表した方々は少なくとも122名にのぼります。開発途上国にあっては酸素さえ届かないという状況が慢性化しています。困っている人は今の世には数え切れないほどおられます。中村医師や杉原千畝氏の言葉は痛いほど分かるのです。けれどもわたしたちはこの金持ちの男性のようにイエス・キリストに従い得ない者として嘆くほかないのでしょうか。職場から戻り一息つこうとするとき、隣家から家族の間でのただならぬ物音を聞いてしまうとするならば、わたしたちは途方にくれるほかないというのでしょうか。

 しかし、仮にそうだとしても、わたしたちは本日の聖書の箇所で主イエスが「帰りなさい」と男性にひと言も語っていないところに注目すべきです。憤ってはいないところにも目を向けましょう。むしろ「慈しんで」との言葉でもって男性を見つめているその顔を仰ぎたいのです。悲しみながら立ち去ったその人との関わりをイエス・キリストは決して否定しません。それどころか「慈しみ」すなわち「神の愛」によって自らと堅く絆を結んでおられます。「永遠の命を受け継ぐ」とは、キリストの愛を前にして死をも恐れない道筋を備えられることでもありますが、あなたはその道から決して遠くないと、本日の聖書の箇所でイエス・キリストは嘆き悲しむ人に語りかけています。

 わたしたちは神さまから異なる賜物を与えられています。それはその人の個性やコンプレックスに留まらず、どこに暮らしているのか、どのような生き方を積み重ねてきたのか、他人に語れないデリケートな事柄をも含みます。また神さまは、他人と較べながら神の愛の証しを立てなさい、キリストに従いなさいとは申しません。「困っている人を放っておくことはできません」、「大したことをしたわけではない。当然の事をしただけです」。そのように言える場所はわたしたちにも備えられています。自分探しから隣人の尊さに目覚めたとき、神の愛、即ち永遠の命を喜ぶのです。