2021年9月8日水曜日

2021年9月12日(日) 説教(在宅礼拝用です。当日の礼拝配信についてもお知らせしています。)

緊急事態宣言が大阪府下に発令されています。

教会員のみなさまにおかれましては、在宅礼拝をお願いします。
(ページの下に、礼拝配信のリンクを掲載しています。)
 
 

説教:「<倍返し>からの解放」 
稲山聖修牧師

聖書:『マタイによる福音書』18章21〜35節
讃美歌:316.  461. 540

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。
※先ほど、教会のインターネット回線が繋がらなくなり、ライブ配信が出来なくなりましたが、途中からは配信出来るようになりました。
申し訳ありませんが、ご了承くださいますようお願い致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】

「やられたらやり返す。倍返しだ」との決め台詞がブームとなった番組のキャッチフレーズを今になって思い出しますと、『聖書』を知る人であれば「人間は変わらないなあ」と溜息をつくのではないでしょうか。要するに『旧約聖書』が成立する前から、その舞台でやりとりされていた「同害復讐法」の焼き直しでしかありませんし、現在なおも超大国が戦争を始める際に口実とする常套句である「報復原理」の蒸し返しに過ぎません。くすぶる様々な不満を「倍返し」で発散する。今の混沌とした時代には仕方がないのかもしれません。しかし「倍返し」に夢中な大人の背中をこどもたちは観ていたのは事実です。けれどもわたしたちは「別の生き方」を知っています。

 別の生き方。その別の生き方が本日の福音書の箇所には記されます。弟子のペトロが主イエスに問うには「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか」。ペトロのこの問いには、人の子イエスが説いた赦しの教えへの驚きが刻まれています。返す言葉には「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」。それは数としてそのように赦せというのではなく、徹底的に赦しなさいとのメッセージです。しかしまだこの教えはペトロの腑に落ちません。その態度を観てでしょうか、主イエスは次の譬えを語ります。10,000タラントンもの借金をした家来が王の前に引き出されてきます。返済ができないので王は伴侶と子、持ち物全てを売り払って借金を返すよう命じます。10,000タラントンとは概ね6,000億円ほどになります。その声に慄いた家来は「全部返しますから」と土下座をしてしきりに納期の延長を願います。その姿を憐れに感じた王はあろうことか借金を棒引きにするのです。ところがその帰り、借金を放免された家来は知人と出会います。この知り合いは100デナリオン、概ね100万円を家来から借り入れていました。しきりに返済を迫る家来に知人はやはり土下座をして赦しを乞います。しかし家来は返済を強要し、この知人を力づくで牢屋に入れてしまうのです。恐らく苦役を伴う刑罰を与えられるのでしょう。様子を見ていた仲間は心を深く痛めます。そして王に報告したところ怒りを招いて家来は知人と同じように牢屋に投げ込まれます。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全て帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんだように、お前も仲間を憐れむべきではないか」。こう言わずにはおれなかった王の悲しみはいかばかりだったでしょうか。そして6,000億円もの借入金を棒引きにしてもらいながら100万円の貸出金を免じることができなかった家来に誰が重なるというのでしょうか。この家来には伴侶もこどもも財産もありました。実に情けない姿ではあるのですが、よく考えてみれば家来は本来、当然味わうべき辛酸を舐めているだけの話です。ではあの必死の土下座は嘘だったのか。知人への貸出金を免じられなかった度量の狭い家来。この家来は今や牢屋に閉じ込められ、青空も陽の光も自由に仰ぐことはできません。しかしこの姿が「やられたらやり返せ、倍返しだ」との言葉の行着く先、報復原理の行着く先だとするならば、わたしたちはどのような生き方を選べばよいというのでしょうか。

 マハトマ・ガンジーという人は、「非暴力不服従」というあり方で民同士の争い激しかったインドをまとめ、その独立を大英帝国から克ちとりました。そしてその生き方はキング牧師の公民権運動へとつながり、今なお暴力のあふれる街で「倍返し」の土台に立たない意志表示の力を失ってはいません。他方でわたしたちはひょっとしたらイエス・キリストの譬えでいうところの暗い牢屋に閉じ込められてはいないでしょうか。報復原理は人の器を狭くし、自由を奪い、せっかく芽生えた可能性を台無しにします。そこには相手を尊ぶあり方は見いだせません。もちろん暴力から逃れるためのあらゆる手段を放棄してはいけません。しかしながら、そうできなかった自分を責める必要もありません。わたしたちは家来の借金を棒引きにした王の振るまいを深く心に刻めばよいのです。王は自由です。それは天に宝を積むことであり、「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積む」という、パウロが「悪に屈せず、善をもって悪に勝つ」という、混沌とした世の土俵には決して立たない、万軍の主に守られたあり方でもあります。緊急事態宣言が幾度も延長され、人の心荒む世です。それでもわたしたちはイエス・キリストを通して神から赦された者としての歩みを見失わずに、絶えず喜びをもって歩みを重ねたいと願います。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことについて感謝しなさい」。素直に喜べないから、素直には祈れないから、素直に感謝できないから、ともにわたしたちはイエス・キリストに全幅の信頼をおきましょう。