-降誕節前第9主日礼拝-
時間:10時30分~場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
説教=「破れを伴う家族だからこそ」
稲山聖修牧師
聖書=マルコによる福音書10章2~12節
讃美=333(1,3), 332(1,3), 461(1,4), 543.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
【説教要旨】
わたしたちは、神さまの招きを受けて、日曜日ごとに主を讃える聖日礼拝を献げています。コロナ禍であろうとさまざまな工夫を凝らしてともに祈りを重ねています。けれども同時にわたしたちがこころすべきことは、教会で互いに育まれている交わりの中にあっても、わたしたちはお互いを全て知っているわけではないということです。家に帰れば家族に向ける顔があり、職場へと行けば、職場に収まる顔がある。施設を用いていたとしても、訪ねる者がいれば、独りたたずむ時とは異なる表情となります。いずれにいたしましても、わたしたちはたとえ親子・夫婦であったとしても、鼻で息をする者、すなわち人の世の目からすれば全てを知り尽くすなどあり得ません。これは老若を問わず言えることであり、だからこそ使徒パウロは「わたしたちは日々新たにされている」と語るのかもしれません。
しかしそれにしても、本日の聖書の箇所でイエスを試そうと目論む一部のファリサイ派の律法学者が発した問いとはどのようなものだったでしょうか。主イエスは群衆が集まってきたので、再びいつものように教えていたと書き手は記します。ファリサイ派の人々は近寄るなり「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と問います。「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問われると『申命記』24章1~4節「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見出し、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。その女が家を出て行き、別の人の妻となり、次の夫も彼女を嫌って離縁状を書き、それを手に渡して家を去らせるか、あるいは彼女をめとって妻とした次の夫が死んだならば、彼女は汚されているのだから、彼女を去らせた最初の夫は、彼女を再び妻にすることはできない。これは主の御前にいとうべきことである。あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を罪で汚してはならない」を引用して応じます。なぜこの箇所でファリサイ派の人々がかような問い質しをしたのかは分かりませんが、質問の内容もその仕方も実に稚拙です。当時の人々や私たちの暮らしは何かのマニュアルに従って他律的に営まれているわけではなく、だからこそ法律の世界でも判例に則して法を解釈し議論を進めます。そこには想像を超える数のケースがあるのですが、ファリサイ派はそのような個別のケースについては言及しません。
これに対して主イエスは次のように答えます。「あなたがたの心が頑ななので、このような掟をモーセは書いた。しかし天地創造の始めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。弟子たちには「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる」。もとより離婚という事態は決して誰も望んではいません。もちろん古代社会ならではの事情もあることでしょう。しかしわたしたちの誰もが当事者になり得ることであり、主の大きな御心のうちにそのような道を拓かれた方々も世にはおられます。主イエスがファリサイ派に対してより重要だと語る事柄は、家族の最も基本となる関係とは血の繋がりだけとは離れたところにあるのだというところです。祖先崇拝の倣いの強かった時代や地域におきましては、これは画期的な発想です。そして弟子たちに語る教えとファリサイ派と考えとの異なる特徴は、離婚をめぐっては男性も女性も対等の立場で対等の傷みを担うということです。女性の生き方だけが、男性目線で問われているのではありません。これもまた男女のあり方を問う上で画期的です。女性ばかりが非難のやり玉に挙げられるというのではないのです。それではこどもたちはどうなるのだとの声があるかもしれません。そのような問いがわたしたちには芽生えてくるのですが、実は今日の箇所の直後に、主イエスが「こどもを祝福する」箇所が描かれるのであります。ファリサイ派の理解を超えた父と母とこどもたちとの関わりが描かれます。血縁があろうとなかろうとそこにはこどもたちがいます。主イエスはこどもたちを祝福されました。破れを抱えた家族をつつむ神の愛とは赦しです。
わたしたちが本日覚えるのは長寿感謝の日礼拝です。齢80を重ねた方がこの祝福の列に加わります。そのご長寿をお祝いするとともに、わたしたちには存じあげないところにある様々な労苦や喜びの中に、神さまの働きがあればこその祝福です。ときに自らのご家族に様々な破れを見ながら、そして傷みながらもそのただ中で、イエス・キリストとの出会いを重ねてこられた方々です。世に生を授かる場所も時もわたしたちは選べません。だからこそ神さまに備えられた伸び代は限りなく広がっています。齢を重ねた方々に、さらなる祝福をと願わずにはおれません。