2025年7月11日金曜日

2025年 7月13日(日) 礼拝 説教

    ―聖霊降臨節 第6主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「心、神の愛の力にあふれて」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』6 章24~34 節
(新約10頁)

讃美=21-342(183),461,Ⅱ-171.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 汗水流して働く代りに、様々な投資信託のコマーシャルが次から次へと起きては消えてまいります。50歳を超えて気づいたのは「老後」という言葉が巷にいかに多いかというところです。コマーシャルでは年金を投資に回した結果不労所得が増えたという話ばかり。若者も額に汗する仕事ではなく投資で儲ける暮らしがスマートであると言わんばかりです。確かにお金は大切です。労働対価としても費用対効果としても見逃すわけはまいりません。それは社会を血液のようにめぐっていき、ある人の消費を喚起します。そしてそれはある人の所得となります。『新約聖書』の舞台もまた貨幣経済が主流をなす時代。そのような中で人の子イエスは「あなたがたは神と富とに仕えることはできない」と語り、その後には表向き実に牧歌的な「野の花・空の鳥」の教えを語ります。単純化しますと「世にあるすべての富を捨てて自然に帰ろう」という意味として受けとめがちではあります。しかしこの教えはわたしたちが考えるほどそれほど安直ではありません(近代文学の白樺派はその典型かもしれません)。6章24節にある「富」とは富や財産が偶像化された神「マモーン」を意味します。『旧約聖書』では「金の子牛」や「バアルの神」といった仕方で人々の目を眩ませてきたその神と、『旧約聖書』以来いのちを愛してやまなかった主なる神を人の子イエスは対置するのです。

 ただ悲しいかな、人は貧しくなるほど、いや、時にはどれほど富裕層に属していようともこの「マモーン」に心を奪われてしまいます。決して世の全てが富を尺度であるわけではないにも拘わらず、あたかもその数字が全てであるかのような錯覚に陥ってしまうのです。マモーンに憑依されたあまり、目に見えぬいのちの豊かさに気をとられ、そのときその瞬間でしか味わえない神の恵みに無頓着になってしまいます。

 ボンヘッファーという牧師がいました。この人は世がこぞってマモーンに惑わされ、弱い者が蝋燭の光になびく虫のように権力にすり寄るその時代に、富を「究極以前のもの」と見定めました。それは人間にとって実に大切ではありますが、それによって人命が損なわれたり戦争を始める口実になったりしてはいけないというのです。富が富本来の価値を授かるのは、究極的なお方である神に仕えてこそだ、とはっきり断言します。それによって富はマモーンとしての力を失う代わりに、富のもつ本来の役割を再発見されるというのです。その証しとして人の子イエスは実に麗しい「野の花・空の鳥」の物語を語ります。「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」。わたしたちは目の前に金貨を積まれたところで、その金貨がただちに食べ物になるなどとは考えられません。また食糧難の世には「たけのこ生活」といって上等な着物を農村で食べ物に換えてもらうという事態すら生まれました。「栄華を誇ったソロモンでさえ、この花の一輪ほどにも着かざってはいなかった」とあります。ダビデの息子のソロモン王は確かに統一王国を繁栄に導きましたが、それでも美しさは野の花一輪にも及ばないと語ります。日照りの中、暴風雨の中、散ってしまいそうな花びらが、やがて陽の光とともに、滴にきらめく様子をわたしたちは知っています。そこには底知れぬ感動があります。

 今わたしたちの周りでは参議院選に向けて街宣車が走り回っています。あるマイクでは給付金、あるマイクでは減税を叫ぶ声が聞こえます。しかしその背後には、生活保護や医療費をめぐる外国人差別があたかも当たり前であるかのように叫ばれ、暮らしの不安を抱える人々は石を投げつけるかのような言葉をまき散らしています。

 わたしたちはこのような実に危うそうに見える社会にあって、そのような憎しみに駆られそうな人々がイエス・キリストに示された神の恵みに注がれるよう、身も心も神の愛に満ちあふれてまいりたいと願います。イエス・キリストは「人々の噂に惑わされないようにしなさい」と世の終わりに何が起こるか気が気でない弟子たちを冷静に諫めました。「あなたがたは鳥よりも価値のあるものではないか」と人の子イエスが語るのは、いのちの序列を論じているのではなくて、女性であれ男性であれ、様々な多様性をもつ人々であれ、民であれ、こどもであれおとなであれ、特性をもつ人であれすべての人は老若を問わず神の似姿として創造されており、だからこそ主の御前に生きとし生けるものへの連帯責任を無条件に授かるがゆえに尊いとの証しです。マモーンへの囚われは他者への比較と見下し、またはその逆転現象としての妬みや不平しかもたらしませんが、主なる神へと眼差しを向けたとき、人の作った社会の中に暮らしながらも、その社会の枠組みを大きく超えるいのちの広がりに気づかされるのです。わたしたちはイエス・キリストに根を下ろしています。豊かな花と実りを授かりましょう。