2025年6月27日金曜日

2025年 6月29日(日) 礼拝 説教

  ―聖霊降臨節第4主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「掘り起こされた塩、闇を照らすともしび」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』5章13~16節
(新約6頁)

讃美=21-505(353),21-504(285),21-26.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 食塩と申しますと、(株)日本たばこ産業塩事業センターの規定では「食塩」とは塩化ナトリウムが99パーセント以上の商品を指します。ただしこれは精製の結果生じた物質を基準にして定めた数値。1997年以降、塩の販売が自由化に踏み切ってから様々な塩が販売されています。抗がん剤や透析で腎臓を患っている方には勿論厳禁ですが、他方では「塩分控え目」の調味料には添加物が含まれます。これも決して安全な食品とは言えません。天日製塩や釜焚製塩は海水を素朴な仕方で乾燥したり煮詰めたりしますので天候に左右され生産量も安定しません。だからこそ、塩=塩化ナトリウムではなく、様々な天然ミネラルも含んでの結晶こそがはじめて「塩」だと言えます。

 さて『新約聖書』の舞台では塩はどのような用途で用いられ、この塩を真っ先に手にしたのは誰でしょうか。初期の共和制ローマの中産階級や無産市民の場合、手当てとして塩があてがわれていました。貴重品でもあり、持ち運びが可能でしたのでそのように用いられていたと申します。『新約聖書』成立の時代には貨幣が流通しますが、それでも現金のない場合には塩も併せて用いられたと申します。ヨルダン川が流れ込むところには「死海」があり、そこには天然塩の塊がいたるところにありましたから、天然資源の採掘場として死海周辺はローマ帝国には貴重な場所だと言えます。逆に言えば、土地の人々は鉱山奴隷の犠牲のもと天然資源を収奪されていました。

 それでは地域の人々はどのようにして塩を手に入れたというのでしょうか。もちろんそのような事情ですから金銀の代わりにというよりは鶴嘴や鍬をもって地面から懸命に掘り出したことでしょう。木陰は涼しい土地ですが陽射しは強く身体の水分は汗としてすぐに失われてしまいます。猛暑の中身体を動かした方であればシャツに汗が含む塩分が白く残る様を御覧になったかと申します。ですから肉体労働に従事する人々にはとりわけ健康を維持するためには水だけでなく岩塩に含まれるミネラルが不可欠だったに違いありません。畑を耕しながら舐める塩の味は散漫な注意力を引き締めてくれますし、ぼんやりとした気持ちに活を入れてくれます。

 また防腐効果についても人々は経験則から学んでいたに違いありません。あらゆる保存食に必要とされたのは塩分、そしてその塩気です。山羊や羊などの家畜も健康を保つためか好んで塩を舐めようとします。どうして人の子イエスは、塩になぞらえて神のわざを伝えようとしたかと言えば、粗製な塩しか入手できない暮らしを前提とした人々がいればこそであったのではないでしょうか。神の愛のわざは人々の交わりのなかに反映されます。そのような反映がなければ、例えば『ヤコブの手紙』が指摘するように、教会の交わりの中にこの世の尺度が安易に持ち込まれ、教会ならではの味つけが失われてしまう事態を招きます。『マタイによる福音書』が成立した背景の教会の危機でもありました。わたしたちの教会では?と各々問いかけられている思いがいたします。

 さらに「ともしび」と申しますといかにも煌々と闇夜を照らすかのイメージがありますが、福音書の世界で用いられる「ともしび」の場合、今でいう蝋燭のような灯りは用いられません。皿に入れた植物油に布の切れ端を浸してつけるような辛うじて暗がりを照らすぼんやりとした灯りに過ぎませんでした。しかしだからこそ部屋の中の燭台において、その光が暗がりのなかで何とか最大の光量となるように人々は工夫したことでしょう。隙間風が吹けばすぐ消えてしまいそうになる灯り。しかしそのような灯りがあるお陰で、わたしたちは不安や恐れから解放されてまいります。さらに『マタイによる福音書』は6章22節で語ります。「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身は明るい」。「ともしび」には、照明器具としての役割だけでなく、神の力に活かされているわたしたちの喜びが重ねられます。「濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」。わたしたち現代人はあまりにも人工的な濃い味、宇宙空間からも見える富める国の輪郭を照らすほどの強い光に縛られて、そのありがたみが分からなくなっているようです。

 イエス・キリストが語りかけたのは、その時代には決して裕福な暮らしを過ごしてはいない人々でした。そのような人々にこそイエス・キリストは「わたしを見つめていなさい」と語りかけたのだと強く思います。

 外見上どのように見えたとしても、あるいは自らの可能性を決めつけたとしても、主なる神はわたしたちの頑なさを砕いてくださいます。そしてわたしたちにある「よき塩」を掘り出し、また「ともしび」が消えないよう絶えず手をかざしてくださいます。イエス・キリストとわたしたちの絆とはそれほどまでに堅いのです。