2019年8月11日日曜日

2019年8月11日(日) 説教

ルカによる福音書9章57~62節
「そびえる壁を超えるために」
稲山聖修牧師

 キリストに従う。一口で表現しても、実はさまざまな道が備えられている。「一行が進んでいくと」と今朝の箇所では記される。ある者は「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と口にする。その言葉はキリストに思いを寄せた言葉のようではあるが、同時にそれはイエス・キリストに激しく自己承認を迫ってもいる。そんな欲求がキリストとの関わりでの壁であることに、この人は気づかない。だからキリストは「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕するところもない」とその申し出を遮ったのではなかろうか。キリストに従うことは、時にはこの世の居場所を失うこともあり得る。そしてその遮りの後に、別の人に対して「わたしに従いなさい」とキリストは語る。その人は先ほどのキリストの言葉に恐れをなしたのか、「主よ、まず父を葬りに行かせてください」と答える。これまでキリストの後についてきた人物が突然父親の弔いを口にする。本当に実父が死線を彷徨っていたのであればこの場でのキリストとの問答は不可能。だからこの言葉の虚実は分からない。その虚実にキリストは関心を寄せず「死んでいる者たちに自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と伝える。この箇所で注意したいのは、葬りを口にしたのは一人であるのに、キリストは複数で「死んでいる者たち」「自分たちの死者」と複数形で語りかけるところ。「父を葬りに行かせてください」との申し出が、実はキリストに従う恐れという壁を言い表す。ただしその壁は「神の国を言い広めなさい」という言葉の中で、口実としての弔いに勝る役目を与えられる。なぜならば、言い広められるところの神の国とは、神の愛が混沌とした世に勝利する出来事であり、死に対するいのちの勝利であり、死者の復活を視野に置く、終末論的展望を示しているからだ。その中で「死んでいる者たち」も「自分たちの死者」も復活の出来事の射程に入るのだ。
 そして最後にキリストの招きに対する言葉とは「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」とある。キリストはにべもなく「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と語る。キリストに従うとき、家族はそれほど悪し様に言われなくてはならないのかとの疑問があるとすれば、それは誤解だ。「いとまごい」とは詰まるところ赦しを乞うという話。キリストに従おうとする決断の留保である。けれどもキリストは問いかける。「家族は別問題。あなたはどうするのか」。確かに厳しい問いである。イエス・キリストとの間に立ちはだかる数々の壁を前にして、わたしたちはどうすればよいのだろうか。
 その問いかけに対して響く言葉があるとするならば、わたしたちは『マタイによる福音書』7章13~14節を想起したい。すなわち「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない」。「命に通じる門にいたる細い道」。実はこの細い道こそが、わたしたち各々が困難な局面に際して、何をよるべにして判断をすべきかと問われたとしても、わたしたちの歩む道として堅固に備えられている。「命に通じる門にいたる細い道」。その道に気づくのは他人に判断を阿ねったり、メディアの報せを鵜呑みにしたり、世間体に身を委ねったりしていては不可能に近い。とは言えキリストとの間にそびえる壁は、単に壊したり、よじ登ろうとしたりする道筋だけが克服の選択肢でもなさそうだ。「急がば回れ」よろしく迂回するという道もあれば、そびえる壁の地下を掘り進むという道もある。その全ての道が「命に通じる門にいたる細い道」として祝福されている。
「命に通じる門にいたる細い道」を見出すためには、誰よりもイエス・キリストに従うことなしには不可能だ。けれどもそれはわたしたちを自由にする真理を秘めた道でもあり、憎悪や争いから生じる分断の垣根を取り払う大きな力を秘めている道でもある。北米とメキシコの国境にそびえる壁には不思議にも細い隙間がある。この隙間にはピンクに塗られたシーソーが作られ、国境を越えて遊ぶこどもたちの歓声が響く。シーソーは遊ぶ二人が交互に上下になる遊具であり、その上下関係は決して固定されていない。こどもたちの笑い声は愚かな大人に神の平和を告知する。人や国の間に壁を作りたがる力もあれば、人と人と出会いや交わりをより広げようとする動きもある。わたしたちもキリストとの間をバリアフリーにし、混沌とした世にあっていのちの喜びを広めたい。