2018年9月16日日曜日

2018年9月16日(日) 説教「先立って道を整えるイエス・キリスト」 稲山聖修牧師

2018年9月16日 長寿感謝の日礼拝
「先立って道を整えるイエス・キリスト」
マルコによる福音書14章12節~16節

稲山聖修牧師
  イエス・キリストが何かを備えよと弟子に語る時。それは某かの仕方でイエス・キリストの受難の歩みを暗示する。都エルサレムに入城される場合には「誰も乗ったことのないこどものロバ」を備えるようにと弟子に命じる。メシアはローマ帝国を力で打ち負かすような王の姿を身に纏うのではないという無言のメッセージ。苦役を担うこどものロバがむしろメシアにはふさわしい。小さなロバもまた弟子たちの知らないところで備えられた。弟子にそのわけは隠されたままで。
 今朝の箇所ではいわゆる「主の晩餐」の整えが記される。弟子には、まさか主イエスから「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」と聞くとは予想だにしなかった。晩餐を囲む過越の祭がエジプト脱出の祝いであることは弟子の群れも知っている。しかしその席で代わるがわる「まさかわたしではないでしょう」と言い始めることになるとは。弟子の交わりは、主イエスを囲む過越の祝いの席で疑心暗鬼に襲われ、バラバラにされるという痛ましい事態を迎える。「まさかわたしではないでしょう」、逆にいえば「誰かが主イエスを裏切ろうとしている」という告発のもと、信頼が猜疑の念に呑まれるという、無残な場面への前奏曲が静かに響く。
しかし、である。この交わりの解体という、現代人のあり方にも重なる事態に、もしイエス・キリストの道備えが隠されているならば、わたしたちは何とするのか。一般には隠されているが、わたしたちには備えがあるとの物語が始まる。「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、『過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意をいたしましょうか』と言った。そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。『都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。<先生が、弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか、と言っています>。すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい』。弟子たちが都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した」。確かに弟子にはまさか互いに「別の者が主イエスを裏切ろうとしている」言い争うとは夢にも思わなかった。これにはわたしたちも、深い悲しみに満ちた破れとして嘆かずにはおれない。人は齢を重ねるほどに、このような悲しみもまた日常の事柄だと受けとめずにはおれない。けれどもその道もまた、キリストの道備えによるものであったと理解するのならば、実はイエス・キリストには、弟子の裏切りは想定内であったばかりか、裏切りを凌ぐいのちの光をもって、新しい信頼関係を再び構築してくださるという確信を授かる。イエス・キリストの十字架の出来事によって、弟子は万能感や誇らしげな思いを砕かれ、その浅はかさから解放される。弟子の絆の解体という悲しみを吹き飛ばす十字架での出来事、そしてバラバラになった弟子を再び集める、葬りを貫いた復活の出来事。パウロが『ローマの信徒の手紙』10章21節で「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた、と言っています」と語るとおり、弟子に先立って道を整えるイエス・キリストのわざは、十字架を前に絶望せずにはおれなかった民をやわらかく、あたたかく包み込む。どれだけ齢を重ねたかというデータより、主イエスの愛に包まれる喜びを経てきた証しを言祝ぎたい。長寿感謝の礼拝を迎えた。手に刻まれた皺は、数値でははかれないキリストの愛に支えられて歩んできたしるしである。そのしるしの示す喜びを、わたしたちもともにしたい。


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