2018年9月2日日曜日

2018年9月2日(日) 説教「献げて授かるわざに導かれて」 稲山聖修牧師

2018年9月2日
「献げて授かるわざに導かれて」
ローマの信徒への手紙10章14~15節
マルコによる福音書12章38節~54節
稲山聖修牧師


本日の聖書の箇所で、イエス・キリストが群衆に語る言葉としては、まずは次のようなものがある。「律法学者に気をつけなさい」。よくよく考えると不思議な言葉だ。なぜならば、律法学者とはその時代の名のある人々からは広く尊敬を集めていたからだ。なぜ主イエスはかように語ったのか。博識な学者たちに欠けがあるのだとすれば、誰のために学んでいるのかという使命感だったのかもしれない。使命感を忘れた学識は、いきおい権力欲や名誉欲と深く結びつく。イエスの分析は律法学者が置かれた経済状況にまで及ぶ。「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」。貧しい寡婦から献げられた糧に感謝もせず、その痛みに寄り添おうともしないという鋭い指摘。人々はこの教えにより、律法学者を個人崇拝のように敬う態度から、アブラハムの神そのものへと頭(こうべ)をあげる信仰へと導かれたのではなかったか。
この箇所の後にイエス・キリストが示すのは、今度は律法学者に食い物にされていたはずの「やもめ」だ。その姿は大勢の経済的に満たされた人々とは対照的に描かれる。神殿に寄進する富裕層の中、ひとり献げものをするやもめ。「ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨2枚、すなわち1クァドランスを入れた」と記される。1クァドランスは125円ほどの金額だ。なぜ主イエスはこの女性に注目するのか。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余っているものの中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」。すなわち、額としては僅かであるにも拘らず、やもめは財産だけではなく、自分の暮らしを全てアブラハムの神に献げたのだというところに、主イエスの言葉の鋭さがある。支払ったのでも、納めたのでもなく、献げたのである。どのような動機があったのか。どのような負い目がやもめにそうさせたのか。その理由はだれにも分からない。あくまでもやもめだけが知る秘密である。けれどもそのわざにより,貧困層のやもめは、主なる神との関わりの中で自らのいのちを受け取り直したのだ。そのことを主イエスは見逃さなかった。
『マタイによる福音書』の16章26節に記された主イエスの教えには「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」とある。「手に入れる」ということと「授かる」ということは、似ているようで実は全く異なる。「手に入れる」ことは自分のものにすることだが、「授かる」とは贈ってくださった相手との畏敬に満ちた関係が鮮やかに映し出されているからだ。何よりも大切なのはこの命綱なのだと、イエス・キリストは語る。「信じたことのない方を、どうして呼び求められよう」とパウロは語る。この命綱に目覚めたとき、人はあらゆる欠けや破れや思い遺しを抱きながらも、その破れもまた授かりものとして受けとめることができるようになる。イエス・キリストが十字架の上でわたしたちの受けるべき審判を受けてくださったからこそ、そして復活のいのちの力の中へと巻き込んでくださったからこそ、わたしたちは神の国の何たるかをおぼろげながらに、キリストの復活を通して、そして神の愛の力である聖霊の働きにより確かめられる。その交わりをどのように育んでいくのかが、今、問われている課題でもある。主なる神に献げて授かるわざに導かれて、わたしたちも全てをキリストに委ね、新しい道を授かる者でありたい。


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