2020年10月22日木曜日

2020年10月25日(日) 説教(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝も行われます。)

「恐れるな!」 
『マタイによる福音書』10章26~33節     
説教:稲山聖修牧師

説教動画は、「こちら」をクリック、もしくはタップしてください。

 今朝わたしたちは2020年10月最後の聖日礼拝を献げます。1517年10月31日にルターがその時代のローマ・カトリック教会の教えに抗議したことから「宗教改革記念」として尊ぶ教会もあります。その時代のローマ・カトリック教会の教えでは、各々の指導者の主張はともかく、全体としては行為義認という考えが一般的でした。すなわち、誰の目にも分かりやすい道徳的な振る舞いが神の御旨に適った行為として認められ、そのわざによって神に受け入れられる、つまり教会があらかじめ設けた枠の中での証しのわざを積み重ねることで、亡くなった後に一旦は赴かなくてはいけない煉獄という、この世で犯した罪を浄化する場所にいる時間を短くできるという考えです。もちろん人間は自らその罪を償うわけにはまいりませんから、教会に特別献金を献げ、その代わりに罪を贖う贖宥状をもらうことで、天国にいる諸聖人の徳を分けてもらうというしくみがあったのです。分かりやすく言えば天国へのクーポン券のようなものです。マルチン・ルターはもともと修道士ですから、師匠の教えに忠実に従っていたのですが、聖書を何度も開いてもそのような教えはどこにもありません。悩んだ挙句、95の問いかけが記された公開質問状をその時代の一般の人々が決して用いないラテン語で書き記します。しかしながらこの質問状の影響は次第に大きくなり、とうとうその時代の教会の収入源の是非にも及ぶ話になってまいりましたので、単なる修道士の問いかけでは済まなくなってまいりました。すでにルターの働いたおよそ100年前、今のチェコにいる人物がルターと同じ説を唱えて火炙りにされたこともあり、危うさを感じたルターはその身を隠しましたが破門にされ、あらためてその時代の最高の権能をもつ議会に招かれ、考えの撤回を求められた時には「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない。わたしはここに立っている。それ以上のことはできない。神よ、助け給え」という他にありませんでした。

 ルターをそこまで追い詰めたのは果たして何であったのでしょうか。火炙りを極刑とする異端審問でしょうか。それともすでに破門に処せられているのにも拘らず家族にまで及ぶ様々な圧力でしょうか。確かに各々の事情はあったでしょうが、つまるところは「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない」と言わなくてはならないほど、その時代の教会が聖書から遠く隔たり、読み書きのできる人でさえ聖書よりも教会の慣わしを重んじてきたのは見逃せません。それは500年の時を得た今でも変わらないのではないでしょうか。聖書を糧として、また聖書を軸にした教会の交わりを糧として育ってきた方々には、今の世と申しますのは甚だ生き辛い場でもあり、時代でもあります。繊細であるほどに過剰に反応しては人間関係に倦み疲れてしまうのです。しかし「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」。このように迫られますとそんなことができるのかと自信を失うわたしたちではありますが、少なくともわたしたちは次の事実は知っています。それは人間は誰もが一度は生涯の終焉を迎えるということです。その場で殺されようと、畳の上で息を引き取ろうと、病院であろうとその現場では具体的には異なるケースでありながらも、その事実は変わりません。NHKでは作曲家の故・古関裕而さんをモデルにしたドラマ『エール』が放送されていますが、戦場でこと切れていく主要人物の姿が描かれていることが話題となりました。ではどのような方を恐れるべきなのかという話になりますが「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」とあります。「魂も体も地獄で滅ぼす」とは何を意味するかというと「初めからいなかったことにする」、すなわちその人がいたという痕跡を歴史から消し去ってしまうということです。これは極論すれば核兵器でも不可能であり、あらゆる世の人には不可能な行為であります。ここには暴力に基づく恐怖の底打ちが隠されています。暴力による恐怖には必ず限界があります。

 生存の恐怖に絶えず脅かされている人々。そのような人々は、海外だけなく、今やわたしたちの隣に数知れずおられます。未だに治療の先の見えない病に罹患した方々。絶えず借入金の督促の電話が鳴りやまない家。日常的なDVの中で言葉の乱暴さが当たり前となり、それが普通の言葉として習い性になっているこどもたち。けれどもそのような境遇にいる人々に、イエス・キリストは売られている雀を示します。そして「だがその一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」と天を指さします。頭を抱え込む気持ちを十全に分かち合ったうえで、イエス・キリストは父なる神が畏れなけれならない方だけではなく、わたしたちを愛してくださっていると語ります。だから頭をあげなさいと語るのです。ルターもその神の愛に触れたのでしょう。日々新たにされるという聖書の言葉は時に慣わしにしがみつくわたしたちを不安にさせます、しかしその囚われから解放されて新たな扉を開きましょう。