2020年4月30日木曜日

2020年5月3日(日) メッセージ(自宅・在宅礼拝用です。礼拝堂での礼拝は休止します。)

「他の人に帯を締められて行く道」
『ヨハネによる福音書』21章15~19節
メッセージ:稲山聖修牧師


コロナウィルス感染症が世界を動かす前、人々の間でもてはやされたのが「自分探し」という言葉。高度経済成長の中にあっては、儲ける者がいれば必ず損をする者がいます。お金を貸す者がいれば借りる者が必ずいます。成功する者がいれば必ず失敗する者がいます。喜ぶ者がいれば悲しむ者が必ずいます。いつしか人と人との間の信頼関係がもろくなり、深く心を蝕む中で「本当の自分とは何か」との問いが生じ、ある時期においては時代を象徴さえしました。

けれども実際のところ「自分とは何者なのか」という問いかけをどれほど発してところで、正しくかつ相応しい答えと申しますのは見つかりません。なぜならば人は神様がお造りになった関係性の中で活かされているのであって、それ以外の何者でもないからであります。分かりやすい例を用いれば、これはわたしたちの名前にも言えるかと思います。職務上要請されるペンネームはさておき、わたしたちの名前はわたしたち自らがつけたものではありません。概ね誰かに名づけていただいた他称が自称として通じるのであります。そこには「自分探し」の立ち入る余地はありません。むしろわれを忘れて何かに打ち込んだり、汗を流したりする中で、喜びや悲しみを分ちあうという連帯が生まれ、感謝とともに名が贈られてまいります。
 本日の聖書の箇所は『ヨハネによる福音書』でもよく知られる、復活のキリストが再びペトロを召し出すという場面です。鶏の鳴く前に三度キリストを否んだペトロに対して、イエス・キリストは問いかけます。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と問う言葉。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と言うと、イエスは「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた、とあります。再びキリストが同じ問いをペトロに投げかけたとき、ペトロは同じ答えを返しますが、キリストは「わたしの羊の世話をしなさい」とお命じになります。そして最後にイエスが同じ問いかけをした時に、ペトロは「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」。キリストは「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは若いときには、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」。この問答はさまざまな解釈ができるのですが、キリストが「わたしを愛しているか」と問うときには神の愛を示すアガペー、ペトロが用いる「愛」には人のわざとして、友情や思いやりといった友情を示すフィリアという言葉が用いられています。その意味ではペトロの愛には絶えず破れがつきまとっています。けれども、キリストとの関わりの中におかれたとき、ペトロには「キリストの小羊を飼う」、「キリストの羊の世話をする」、「キリストの羊を飼う」という使命が委託されてまいります。この箇所の筆が鋭いのは「若いときには自分で帯を締めて行きたいところへ行っていたが、年をとると他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れていかれる」とあるところです。「帯」とは、聖書では人が神以外の何にも頼らず泰然とし、堂々と歩みを興すときに用いられる言葉ですが、キリストに従う者の「若い時」と「齢を重ねた時」とのあり方の違いがはっきりと示され、齢を重ねた者は、たとえ自分の思惑通りではない仕方であったとしてもキリストに従い「キリストの小羊を飼い」、「キリストの羊の世話をし」、「キリストの羊を飼う」わざが赦されている、というのです。それは本人の自己実現とは全く異なるものだと描かれているところに惹かれます。
感染症に伴う非常事態宣言が長引く中、多くの方々が想定もできなかった苦しみと葛藤の中に置かれています。とりわけ今朝思い起すのが、誰も訪ねられなくなったご高齢の方々の施設や、優先順位として感染症の治療や感染防止に重きが置かれた結果、病床にあってお見舞いやねぎらいさえ赦されなくなった方々です。「独りである」ことの辛さや寂しさを誰よりも感じられていることでしょう。しかしその中でこそ、イエス・キリストから委託された尊いお役目があります。それは神に全てを吐き出して祈り続けるというあり方です。キリストはその声を必ず聞いてくださいます。そしてその声は同時にキリストを通して、教会に連らなる人々に届いています。