『ヨハネによる福音書』18章33~38節
説教:稲山聖修牧師
ピラトという男。イエス・キリストとの出会いのゆえに、その後2,000年にわたりその名が語り継がれるとは思ってもみなかったことだろう。ピラトはローマ帝国の総督だった。総督とはローマ皇帝から派遣された代官として占領地を統括する立場にある。その地にあっては争いを起こさず、ローマ帝国の支配と威光を伝えて統治するのがその役目。しかし同時に一旦その地に騒乱あれば、軍を動員して治安維持にあたらなくてはならない。その地の平定こそが「ローマの平和」、つまりローマ皇帝の威光を現わしているからだ。総督とはその意味で重責を伴う働きであり、統治に不首尾が生じれば皇帝からの左遷などの処分もあり得た。だからピラトからすれば、任期中には人々にはなるべく要らぬ争いを起こしてほしくないのが本音であったことだろう。
その中で起きたのがナザレのイエスをめぐる騒動だ。しかしそうは言うものの、人々はイエスの身柄拘束には決して責任をもって関わろうとはしない。本日の箇所の前に「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである」。イエスを訴えた人々はその言葉にも行いにも『律法(トーラー)』への違反を見出せなかった。そのためか可能な限り責任を回避しようとする。「汚れないで過越の食事をする」。イエス・キリストへの憎悪の念を滾らせながらも自分は汚れたくないという、腰の引けたあり方が記された後に、ポンテオ・ピラトとイエス・キリストとの対話が記される。ピラトは実に厄介な問題を駆け込んだと頭を抱え込んだだろうが、それでも他の人々に優る権限が許されている。それは「総督」という立場のゆえにである。ローマ帝国の皇帝の代官という立場が、ピラトの砦である。
このゆえに今朝の箇所は、皇帝の代官と、人々から奴隷のようにあしらわれた主のしもべが「尋問」という仕方であったにせよ肩書を問うことなしに対話することとなる。「お前はユダヤ人の王なのか」とピラトが問えばイエスは「それは自分の考えで問うのか、それともほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのか」とピラト自身の言葉への向き合い方を問い質す。このやりとりの中で、ピラト自らイエスの身柄拘束の責任のありかをイエスに白状せずにはおれなくなる。「お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引渡したのだ。いったい何をしたのか」。責任を担おうとはしない人々の姿がそこにはある。その中で、イエス・キリストはあらためてピラトに救い主のありようをお示しになる。「もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世に属してはいない」。さらなるピラトの問いには「わたしが王だとは、あなたが行っていることだ。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」。ピラトは言った。「真理とは何か」。ここでピラトとキリストとの対話には一旦幕が降ろされる。そしてこの「真理とは何か」という問いかけに、救い主を前にしたポンテオ・ピラトの敗北をわたしたちは看て取る。
「真理とは何か」。「正しさとは何か」。わたしたちは何らかの事柄を話題にする場合、それがたとえいのちに関わる場合であったとしても、真理そのもの、正しさそのものを語るのは不可能だ。できることがあるとすれば、正しさとはいったいどのようなものであるのかと問い続けるよりほかにない。わたしたちは言葉ですべてを言い表すことはできない。言葉が上滑りして説得力をもたなかったり、相互理解を目指すつもりが溝を一層深めてしまう場合もある。事の正しさもまた、厳密には多数決でも決められない。多数決でいのちの重さが量られるならば司法制度は要らない。結局のところピラトも「真理の重さ」に耐えかねて、イエス・キリストを訴え出た群衆に媚びるような振る舞いに及ぶ。その振る舞いで誰がもてあそばれているのは「神の正しさ」を知り抜いた救い主・イエス・キリストであった。「真理とは何か」という問いにイエス・キリストは黙った。まことの正しさとは、その人を信頼して語りかけるところにしか見いだせない。キリストから発せられる沈黙の態度を、今の世の中で受けとめたい。今この時にキリストに従うとは、饒舌に賑わうというよりも、沈黙を尊ぶところにある。