2020年4月10日金曜日

2020年4月12日(日) イースターメッセージ(礼拝堂での礼拝は休止となります)

「嘆きが驚きとともに喜びへ」
『ヨハネによる福音書』20章15~18節
稲山聖修牧師

今年度のイースターメッセージで聖書の物語を通して思い浮かぶのは、イエス・キリストの苦しみとは「鞭打たれ・釘打たれ」という肉体に留まるだけではなく「弟子たちの分裂」も伴っていたところにもあったのではないか、という点です。イエスが救い主としてお働きになり、孤児や寄留者(難民)、やもめといったその時代の「貧困層」、その時代には不治であった感染症や、心の病によって生活共同体から排除されていた人々と歩みをともにし、その痛みや生き辛さに癒しのわざを行う中で教えが群衆に広まる中では、弟子もまたイエス・キリストの言動に心酔し、深く頷きながらともに歩む喜びを感じていたことでしょう。仮に幾つかの失敗があり、お叱りを受けたとしても、それは必ず次に繋がる、大きな養いとなったことを誰もが実感したことでしょう。

けれどもイエス・キリストが小さなロバの背に乗ってエルサレムに入城されてからは、傷ついた人々を癒す柔和な救い主への様々な嫌がらせが行なわれ、殺害に向けた謀が練られていきます。弟子はその肌身に感じる危機感のゆえにイエスの言動への心酔や共鳴が、同時に自らの身の危険を招くものだと感じ、一人またひとりと離れていく様子を、福音書の書き手は決してごまかそうとはいたしません。

一番弟子とされたシモン・ペトロはイエス・キリストが身柄を拘束された夜、鶏が鳴く前に三度イエス・キリストを知らないと語ります。イエス・キリストがその視界に入っていながらのそのありさま。イスカリオテのユダは銀貨三十枚でイエス・キリストを祭司長や長老たちに引き渡そうとします。それでは最後までイエスとともにいたのは誰だったのかと言えば、まずは救い主の亡骸を引き取りにピラトを訪ねた「アリマタヤ出身のヨセフ」。『ヨハネによる福音書』では「イエスの弟子」とされていますが、ほぼ20年成立年代を遡る『マルコによる福音書』では「アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフ」とあります。エルサレムの最高法院は祭司集団でもあるサドカイ派と、律法を研究するファリサイ派によって構成されていましたから、このヨセフがファリサイ派であったと否定はできません。またイエスのもとを訪ねたニコデモもまたファリサイ派の律法学者でした。社会的立場を賭してキリストに向き合った二人はユダヤ教のエキスパート。他の男性たちはといえば、次に官憲の手が及ぶのは自分ではないかとの恐怖の中で逃亡や潜伏を考えてばかり。弟子たちの絆は失われてしまっています。

そのような中で女性たちだけは、イエス・キリストのもとから離れようとはしませんでした。マグダラのマリアはキリストに癒された女性の一人。「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに」墓を訪ねます。その場で墓の入り口から封入を示す石が取り除かれているのを真っ先に見て弟子のもとに知らせに行きます。ただしその行動力を見せる一方で、一人になると墓の前に佇んで涙をこぼす他ありませんでした。誰の目もないところでこぼす涙。しかも葬られたはずのイエスの身体がどこにもないという異様な状況。這うようにして墓の中を見ると、白い衣を着た若者が一人は頭のあったほうに、もう一人は足の置かれていたほうに座っています。苦悶に満ちた顔と、釘に打たれた跡の遺された足。葬られてなお傷の残る身体のあったところに座って、何をしようとしているのでしょうか。涙に濡れたその顔でマリアは呻くほかはありません。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのかわたしには分かりません」。その後ろから別の声がします。「女性よ、なぜ泣いているのか。捜しているのは誰か」。マリアはその人を墓地の管理人と思い問いかけます。「あの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、その人を引取ります」。呼びかけられたその声に、女性は目の前の人が誰か気づきます。「マリア」。そのマリアに復活したあの人は優しく語りかけます。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」。マリアだけの「わたしの主」から、失意と絶望に崩れ落ちている弟子をも含めての「わたしたちの主」へとキリストの証言が変わる瞬間です。喜びをともにできる仲間がマリアの証言をもとに広がろうとしています。涙で顔を濡らしながらも最後まで逃げなかった女性の証言から、いのちの光の歴史が始まります。