2020年4月24日金曜日

2020年4月26日(日) メッセージ(自宅・在宅礼拝用︰礼拝堂での礼拝は休止します)

「破れなかった漁師の網」
『ヨハネによる福音書』21章1~14節
メッセージ:稲山聖修牧師

 主イエス・キリストが群衆の中に分け入り、救いのわざを行なった物語の主要な舞台となる場所。それが「ガリラヤ湖」と呼ばれる湖の湖畔だとわたしたちは知っています。富士山が静岡県側と山梨県側からの展望とはその姿の構図の変わるのと似てはいますが、福音書では湖の岸辺にあたるところの地名からゲネサレト湖と呼ばれる場合もあります。とはいえそれは地域の土地柄に由来する名前であって、地域の住民には違和感なく受け入れられていたことでしょう。旧約聖書では「竪琴」を意味する「キネレト」の湖とも呼ばれておりました。琵琶湖の名の由来にも似ているところであります。
 しかし今朝、復活のキリストが姿を現わす湖の名前は「ティベリアス湖」と呼ばれています。イエス・キリストが地上での働きを全うした時代のローマ皇帝ティベリウスに因む名前ですが、『ヨハネによる福音書』では実によく用いられています。ただし、地名が代々継がれてきたものと為政者によるものとでは全く意味が変わります。地域住民の生活基盤となる湖の名に手を加えられて支配者の名前へと変更される。これはその地域に暮らす人々の歴史の抹消であり、それだけの力があるのだという支配者の権力の誇示でもあります。『ヨハネによる福音書』の成立した背後には、人々の痛みに満ちた暮しの変容がありました。単なる生活様式の転換だけではなく、大切にされてきた倣いが、多くの犠牲のもとで無残にも踏みにじられるという事情がありました。



 そのただ中で弟子はイエスと出会う前の日常を取り戻そうとします。時の流れは戻りません。それでも弟子はその出会いを忘れようとしているのか、なかったことにしたいのか。少なくともシモン・ペトロには、キリストの復活の知らせがマグダラのマリアを通して届いていたであろうにも拘らず、であります。とくに21章冒頭では、七人の弟子の名前がはっきり記される者もいます。キリストのいないまま弟子は夜半に漁に出て行きますが、その働きは決して首尾がよかったとは申せません。夜明けのころに、舟から弟子は食べ物を求める人影を見ます。その人は不首尾に喘ぐ弟子にアドバイスをします。その結果、漁師は豊かな働きの成果を見るとともに、その導きの声で弟子はその人影がイエス・キリストであると気づくのです。仕事の最中、シモン・ペトロは裸であったと物語は記します。無防備な姿のペトロは湖に飛び込むという混乱ぶり。漁師の業務は他の弟子が引受けます。
それだけではありません。「何か食べる者があるか」と湖畔から呼ばわっていたキリストは自ら炭火を起こし、魚をのせ、パンをそこで焼いていました。漁師たちの日々の暮しがそこにあり、キリストが大勢の群衆と分かち合った豊かさがそこにあります。多くの収穫があったのに「網は破れていなかった」と書き手は記します。「網は破れそうになった」と記す『ルカによる福音書』の漁の物語とは異彩を放つ弟子のネットワークが暗示されています。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と何の変哲もない、しかしいのちの希望にあふれた一日が始まろうとしています。三度キリストを否んだペトロを含めた弟子の前にキリストは姿を三度姿を現わし、新しい日常を取り戻してくださるのです。 
わたしたちは決定的な治療方法の見出せないウィルスに脅かされるだけでなく、ウィルス流行以前の日常に戻れない苛立ちや暮しの中で心身を損なう人々を知っています。不必要に思えるほどの情報の洪水により、本当に苦しむ人の姿は表には出ません。その表に出ない人々とともに魚とパンを分かち合う、復活のイエス・キリストがともにおられると目覚めるならば、このつかみどころの無い不安が決して永遠には続かないと気づきます。確かに時の流れは戻りません。しかしわたしたちの置かれた「実にしんどい状況」も決して長続きはいたしません。だからわたしたちは、不安を煽るばかりの裏づけのない言葉から自由になれます。静けさの中で祈り、神さまとの関わりを深められます。新型コロナウィルスの流行に必ずしも由来しない、むしろその流行によって白日の下にさらされた、もともとあった社会の混乱の中で苦しみに堪える人々にも思いを寄せます。明け初めていく朝日の中、イエス・キリストととともに多くの人々との食卓を囲む時を、わたしたちは待つことができます。漁師の放った網は決して破れませんでした。何も恐れる必要のない、新たにされた交わりの訪れを待ち望みましょう。