「イスカリオテのユダ」
『マタイによる福音書』27章3~9節
稲山聖修牧師
(今年度の受難日礼拝は休止いたします。
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イスカリオテのユダ。聖書を一度も開いていない人でも、その名は世に知られています。曰く裏切者の代名詞であります。イエス・キリストの弟子の中で、あろうことか心からの親愛の情を示すはずの接吻でイエス・キリストを売り渡すという場面が実に印象深く福音書には刻まれています。親愛の情を示すわざによるところの裏切りの表現。わたしたちはこの場面を思い起しては背筋が凍る思いがいたします。
けれども福音書の物語を丁寧にたどってまいりますとイエス・キリスト自らが悪魔、あるいはサタンという言葉で名指しをするのは、イスカリオテのユダではなくシモン・ペトロであって、その逆ではないということです。『マタイによる福音書』の場合、この描写にはどのような狙いがあるというのでしょうか。
わたしたちが思い起こすのは、イエス・キリストを裏切ったという点では、鶏の鳴く前に三度イエスを知らないと言ったペトロも、銀貨30枚でイエスを売ったとして描かれるユダも別段大差がないというところです。イエス・キリストの最後の晩餐をともに囲み、裏切りを指摘されたのがユダであるとするのならば、三度に及ぶ否定を指摘されたのがペトロです。イエス・キリストを裏切ったという点では、ユダもペトロも大差はありません。
それどころか注目するべきは、イエス・キリストに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨30枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と弟子の中でいち早くイエス・キリストが無実であることをユダは一人で権力者に訴えているところです。イスカリオテのユダは銀貨を返そうとしますが祭司長たちや長老からは相手にされません。その結果ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り「首をつって死んだ」とありますが、福音書の物語そのものにはイスカリオテのユダの自死そのものへの意味づけは何もされておりません。現代では誰もが可能性としては及びかねないわざであり、わたしたちはそれを責める立場にはおりません。むしろ自死とは「かたちを変えた他殺」でもあり得るのです。
とはいえ、もしユダとペトロの間に違いがあるとするならば、ユダはペトロよりも、よりその時代の権力に近かったとが言えるかもしれません。ユダは祭司長と面識があり、相応のつながりもあった模様です。また『ヨハネによる福音書』によれば、イエスの足に香油を注ぐ女性マリアに対して「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と言います。注がれた目の前の香油が300デナリオン、今でいうところの300万円はするという瞬時の見極めがなければ、このような発言はできないはずです。その意味で言えば、生前のイエス・キリストに従った12人の弟子の中で、世のしくみに通じていた人物であったと想像されます。
もしわたしたちが今の世の中、今の時代、リアルにイスカリオテのユダに出会ったとするならば、社会の様々な組織の中で辣腕を振るえるだけの裁量を備えた頼りがいのある人物に映ったかもしれません。素朴な漁師に過ぎなかったペトロよりも、よほど弟子たちをまとめていくだけの器量に恵まれているようにも思えます。けれどもそのような人物の最期は、銀貨を返却しに訪ねた祭司長や長老から「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と捨てられていくという惨めなものでした。返却した銀貨も「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と受けとられませんでした。
イエス・キリストを欺いて殺害するという組織の最末端で、ユダは実質的な実行犯となってしまいました。この一連の物語の中では、大きな力をもった組織の中では、個人の良心に則して行動できない人々の痛みや病が描かれているようには思えないでしょうか。ペトロの涙はイエス・キリストの聞き及ぶところになりましたが、イスカリオテのユダの嘆きは師としてのイエスにはあずかり知らないところにありました。だからこそ、イエス・キリストはイスカリオテのユダの悲しみや孤独、偽りを全て見抜いた上で担ってくださったように思います。「神の求めるいけには打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」(『詩編』51編)。末端の者の苦しみ、「しっぽ切り」に遭った者。その人は決して孤独ではありません。キリストの十字架の苦しみも同じように、社会から排除される者の苦しみと絶望を示しているからです。あなたは一人ではないのです。