『ヨハネによる福音書』20章24~31節
メッセージ:稲山聖修牧師
今朝の箇所は、復活したイエス・キリストと弟子トマスとの再会の場面。1954年度版讃美歌243番には「ああ主のひとみ、まなざしよ。うたがい惑うトマスにも、御傷しめして『信ぜよ』と、らすは誰ぞ主ならずや」と歌われており、わたしたちの日々の暮しにも溶け込んでいる場面のひとつではないでしょうか。人々の不信仰と神の招きをともに歌った讃美歌ですが、聖書のトマスの立ち振る舞いを探りますと、単純に「不信仰」であるとは決めつけられない一面があると分かります。『ヨハネによる福音書』ではマルタとマリアの兄弟として描かれるラザロの里でもあるベタニアの村は、イエス・キリストとその弟子には牧歌的であるどころか、石打刑で殺害されそうになった危険な場所でした。姉妹からの使者の言葉に従ってイエス・キリストがその村に赴くにあたり、弟子の間には少なからず動揺が走ります。ある者は尻込みし、ある者は身に迫る恐怖を訴えます。その中でトマスは仲間の弟子たちに「わたしたちも行って、ともに死のうではないか」との決意を露わにいたします。この呼びかけはキリストにではなく仲間へと向けられています。ですから決して、他の弟子をさしおいてのイエス・キリストに対する自己アピールではありません。それでは「ともに死のうではないか」との言葉は「誰とともに」であったのでしょうか。その「誰か」がイエス・キリストであるのは明らかです。トマスはそれだけの覚悟なり決心のあった弟子の一人でした。その様子が『ヨハネによる福音書』では描かれています。しかしそれほどまでの情熱にあふれたトマスであったからこそ、キリストが十字架で処刑されたという事実は、キリスト自らの身に及ぶ苦しみや絶望に留まらず、トマス自らの人生の意味を根底から覆してしまう出来事でもありました。弟子は全てをなげうってイエスに従ったはずです。その熱意や決心の堅さは、イエス・キリストが世に留まっている間にも摩擦や序列争いの原因にもなりましたが、それは人であれば誰もが抱くところの課題です。誰が弟子を責められるというのでしょうか。もはやこの時、弟子には各々の将来が全く見えません。弟子は家の戸に鍵をかけて閉じこもる他になす術を知りません。イエスを憎悪するユダヤ人への恐怖もあったでしょうが、正直に言えば、流す涙も涸れ果てたまま座り込む以外には何もできなかったのだろうと思います。虚しさが弟子の心身を蝕んでいます。そのような弟子の群れに復活したキリストは姿を現わし、「あなたがたに平和があるように」と主なる神の平安を授け、そして自らの息を吹きかけ「聖霊を受けなさい」と思いも新たにして、神の愛の力への全面的な信頼のもとで、神の愛に活かされる証しと宣教のわざへと背中を押すのです。
しかし残念なことに、鍵をかけた扉をものともせずに復活のキリストが姿を現わしたとき、ベタニアに赴くときに決死の呼びかけをしたトマスはその場に居合わせてはいませんでした。遅刻したわけでも落ち度があったわけでもありません。トマスはその場にはいなかったのです。だからなおのこと、他の弟子が「わたしたちは主を見た」と爽やかに語るほどトマスの落胆は酷くなります。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」。追いつめられた人間の求めを端的に示す箇所です。見なければ、触れなければ、わたしたちは「信じない」。けれども本来は「見て、そして触れて」得るのは「納得」であり、キリストの愛に目覚める「信仰」とはかけ離れています。そんなトマスに、イエス・キリストは再び会いに来ます。「わたしの手を見なさい。あなたの手をわたしのわき腹に入れなさい」。トマスは自らの落胆や疑いさえもキリストの愛につつまれているのを知り、心の底から告白します。「わたしの主、わたしの神よ」。トマスの疑いは復活の確信へと転換しました。「見ないのに信じる人は、幸いである」と、イエス・キリストは聖霊の働きとともにわたしたちにも語っています。「幸い」とはキリスト自らによる祝福であり、いのちの希望が死に対して勝利するとの宣言です。だからこそわたしたちは喜びを分かち合えるのです。新型コロナウィルスという見えない不安に閉じ込められ社会に混乱が生じている今、ウィルスの感染だけでなく、世の混乱の中でさまよう方々の姿があります。十字架のキリストを通し現在の世とアフター・コロナの世を見据え、各々の家にいて「見ないで信じる者は幸い」と語る復活のキリストから大いに勇気を授かりましょう。