2023年6月16日金曜日

2023年 6月18日(日) 礼拝 説教

 ー聖霊降臨節第4主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「キリストが授ける尊厳と癒し」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』8 章 40 ~ 48 節
(新約聖書 120 頁).

讃美= 300,121.540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 学生時分に通学のため、アパートを出たらば血まみれの男性が横になっていました。事件に出くわすとは思わなかっただけに、ただ警察に連絡するのが精一杯だった学生時代でした。それも一度や二度ではなかったため、最初は授業に遅刻して対応していたのにも拘わらず次第に慣れ、また地域の人の忠告も受けた結果、そのような人を避けながらの通学を覚え、そして結局は経済的な事情も相俟って大学の自治寮で暮すようになりました。振り返れば大学では『聖書』を学んでいたわけで、それだけに「善きサマリア人の譬え」が今でも胸に突き刺さって止まないところです。出会いとは本来は選び得ないはずなのに、わたしは道端に倒れた行き倒れの人を避け、JRの環状線に乗って通学していました。それが逃げなのかどうかは分かりませんが、ただ必死だったというのは言い訳です。その後何度も炊き出しに出かけても、どのような奉仕活動を行なっても、行き倒れの男性の姿は消えません。
そのような凡人の目からすれば、本日の聖書の箇所によれば、イエスはどのような不測の事態も拒まなかった様子が描かれます。救いを求めてきた人は誰もが深刻な事情を抱えており、その必死さを較べるなどはできません。「イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである」。救いを求める群衆が集うところに、ヤイロという人物がまいります。この人は「会堂長であった」とあるように、古代ユダヤ教の礼拝堂の管理を任されている者で、決して身分の低い者ではありません。しかしこの人は人生がこれからという娘のいのちの危機を救って欲しいと懇願いたします。あくまでも先に約束を入れたのはヤイロでした。

 しかしヤイロの家を訪ねにいく途上、群衆がまたも押し寄せてきます。その中でもクローズアップされるのは12年もの期間、出血が止まらず、医者に全財産を使い果たした女性が描かれます。わたしたちの時代とは異なり、この時代の女性の結婚は家同士が決めるもので、病臥に伏せっているヤイロの娘は二年もすれば婚約者を備えられる年齢となります。片や「死にかけていた」というヤイロの娘、そして片や娘が生まれてからこのかたずっと、結婚以前の問題として妊娠・出産に関わる病に罹患し、その時代の女性としての人格を否定され、財産も尽き果てた無名の人が近づいていきます。この女性は正面からイエスに救いを求めようとはせず、後ろからイエスの服の房に触れて、せめてもの関わりをもとうといたします。弟子のペトロでさえ誰が触れたのか分からず、当のイエスでさえも「わたしに触れたのはだれか」と問わずにはおれない秘めたる関わりがあります。

 以前わたしは、以前「細々とした信仰」についてお話しをみなさまにお伝えしたことがありました。生活をとりまく状況が変わり、教会と日常的に関わりが持てなくなるという状況に陥るのは、老若男女を通して誰もがあり得ることです。しかしその人の中で燻るようなキリストへの思いがあれば、またたとえ傷ついても葦のような折れない記憶があれば、いずれそのような信仰は時を重ねる中で新たな神の恵みへの気づきが備えられ、息を吹き返し、涙の川を越える橋がかかるというものです。震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまち癒された次第を皆の前で話す女性に「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」とイエスは語りかけます。老いを隠せないこの女性に「娘よ」と呼びかけるキリストの言葉は、身体の癒しとともに、新しい人生の可能性を示しています。

 ただし、このイエスの服に触れた女性の話はあくまでもヤイロの家へと赴く途上の出来事でしかありません。ヤイロからすれば一刻も早く自宅へ到着して欲しかったことでしょう。途中から割り込むように入ってきた女性との関わりなど放っておいて、娘のもとにたどり着いて欲しいとの憤りと焦りで一杯だったことでしょう。無名の女性とは対照的に「お嬢さんは亡くなりました」との使い番の声が、この本日の箇所の後に虚しく響き、「この上、先生を煩わすことはありません」と、遠回しではありながらも悲しみに満ちた憤りがイエスにぶつけられます。しかしイエスは会堂長に「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」と語りかけ、人々の悲嘆と嘲りの声の中で「泣くな。死んでのではない。眠っているのだ」と語ります。ヤイロの娘もまた癒され、起き上がるという物語が本日の箇所に続いて記されてまいります。

 わたしたちが「万策尽きた」「もう駄目だ」とうなだれるとき、ある人は「苦しみとは二重にも三重にも押し寄せてくるものだ」と表現されていました。無名の女性も、ヤイロ自らも、ヤイロの娘も、群衆も、ヤイロの娘の具合に絶望して泣き悲しむ人たちも、ついには押し寄せる困難になすすべなしと黙り込むほかない人々でした。しかしそのような、予想不可能な二重三重の苦しみを、イエス・キリストは受けとめながら、黙って近づき寄り添ってくださります。キリストが授ける尊厳と癒やし。道端にいたあの男性は帰宅後にはいなくなっていました。巡回中の警察が対応したとのこと。充分な治療を受けられていたらと今でも願います。

2023年6月7日水曜日

2023年 6月11日(日) 礼拝 説教

ー聖霊降臨節第3主日礼拝ー

花の日・こどもの日礼拝

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 


説教=「どんなものでもわけあおう」 
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』6章5~14 節
(新約聖書 174 頁).

讃美= 「せかいのこどもは」「きみがすきだって」
「どんどこどんどこ」「どんなにちいさいことりでも」
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


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【説教要旨】
  おともだちのみなさんは、イエスさまが好きな人ばかりだと思います。それはイエスさまがとってもやさしくて、生きるのがつらかったり、力が弱かったり、いじめられている人の味方となって支えて慰め、どんな力の強い人を相手にしても、どんな大人数を相手にしても、全く関係なく「正しいことには正しい」「間違っていることには間違っている」と言えた人だったからです。

 今日の『聖書』のお話しでは、病気の苦しみを癒してもらった人が大勢イエスさまを追いかけてきたところから始まります。お日さまも少しずつ傾き、お昼過ぎになってきました。朝にお日さまが昇ってから沈むまでがこの時代の一日でした。ですから人々は一日二食の食事を食べていました。電車も何もありませんから、どこかへと行くときにはいつも歩きです。コンビニエンスストアやハンバーガーのお店もありません。ですから出かけるときには必ずお弁当をもって出かけました。ただしお弁当といっても粗末なもので、大麦を焼きしめた塊と、魚の干物しか持ちあわせていません。今日の『聖書』のお話で「パン」とあるのは、本当のところは焼き固めた粗末な大麦の塊と、お魚を干したものしかないのです。けれどもそんな粗末な食べ物さえ全員に与えるには200万円ぐらいはかかるだろうと、イエスさまのお弟子たちは考えました。集まった人々はそれほど多かったのです。「どうしたものだろうかなあ」と弟子は思い悩むばかりでした。そんなとき、あるおともだちが「いいいよ、これ食べてよ」と五つのパンと二匹の魚をすべてお弟子さんにわたしました。でもお弟子さんたちは口をそろえて「大勢人が集まっているのに、これっぽっちでは何の役にも立たないよ」と文句を言うばかりでした。これでは何の役にも立たないよ、と弟子は口々に言いました。
 
  けれどもイエスさまは違いました。おともだちがわたしてくれた大切なお昼の食事をやさしく見つめながら、集まった人たちを野原にすわらせました。ふかふかした草の上で身体がほぐれた人々はたちまちお腹が空いてきます。お弁当のある人もいます。お弁当のない人もいます。お互いに気にしながらキョロキョロ周りを見ています。
 
  そんなとき、さっきのおともだちからもらった五つのパンをとって、イエスさまは神さまに感謝の祈りを献げてから、人々に配り始めました。お魚の干物も同じようにして配りました。小さなおともだちが素直な気持ちで「これ食べてよ」といってくれたパンと魚です。お弟子さんが「これっぽっちでは何の役にも立たないよ」といった、本当に貧しいお弁当です。けれどもイエスさまのお祈りが、お金では測れない神さまの愛の力を人々に注ぎました。おともだちはパンと魚をイエスさまにわたした後、何が残るのでしょうか。何も残らないはずです。ちいさなおともだちでさえそうした献げものをしています。それをイエスさまは神さまに感謝しています。おとなはどうするのでしょうか。布の袋にしまっておいたお弁当。近くに座る人にはお弁当のない人もあります。こんなお弁当、わけるなんでできっこないと思っていた大人は大勢いました。袋に入れたまま、隠していた大人もいました。けれどもイエスさまのお祈りで、みんなで少しずつでも分ければ、誰もおなかをへらさずにすむことに気づいたのです。「だめだ、これしかない」から「安心した。こんなにある」へと変えられたのです。食べものは神さまがくださるものです。それだけではありません。これまで何もお話ししなかった人々の間で「どこから来たのですか」「おなかは減りませんか」「あのちいさなこどもはどこから来たのかな」「寒くありませんか」「大の大人がご飯を独り占めでは恥ずかしいなあ」といろいろなお話しができる間柄が生まれました。12人のお弟子さんたちはびっくりしました。だって、お金がなければ何もできないと思い込んでいましたから。でも、イエスさまがいてくださるところでは、だれも一人ぼっちで「おなかが減った」と悲しむ人はいなかったのです。
 
  イエスさまが神さまにお祈りをして人々に配ったのは、食べ物ばかりではありません。小さなおともだちの素直な気持ち、そしてこれからはどんなちいさなよろこび、辛い目にあったときに感じる辛さをわけあう気持ちです。こういう気持ちをわけあうならば、しんどいときも、たのしいときも、かなしいときも、けっして一人で苦しむことはありません。必ずだれかがみていてくれています。支えてくれます。うれしいことは分ければ倍になります。辛いことは分ければ半分になります。そのためにも、イエスさまがあるいた道をいっしょに進んでいきましょうね。イエスさまもみんなを支えてくださっています。うれしい気持ちだけでなく、さみしい気持ちも、イエスさまはどんなものでもわけあってくださります。

2023年6月1日木曜日

2023年 6月4日(日) 礼拝 説教

ー聖霊降臨節第2主日礼拝ー

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 


説教=「喜びにあふれてほほえむイエス」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』10 章17~24 節
(新約聖書 126 頁).

讃美= 333,495,500. 
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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【説教要旨】
  「その後、主はほかに72人を任命し、ご自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」と始まる『ルカによる福音書』10章。12弟子に続いて72人の弟子たちがイエス・キリストに従っていたという、福音書の物語の中でも滅多に観られない数の弟子達。イエスがこの弟子たちに語るには「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物ももって行くな。途中で誰にも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるならば、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。その家に泊まって、そこで出されるものを食べ、また飲みなさい。働くものが報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」。イエスは実に事細かに、伝道に関する心がけを伝えています。財布も袋も予備の履物も持って行ってはならず、決して気を散らすような思いを抱いてはいけない。迎え入れてくださる家があればその家に神の平和に満ちた祝福を祈り、根気強くその家に留まりなさい。病人の苦しみをいやし、神の国の訪れを伝えなさいという、実に細かな指示ではあります。一を聞いて十を知るような相手であればこのようには教えないはずです。その意味では12弟子に次いで任命された72人は決して有能でも特別に聡明な人々でもなかった事が分かります。確かなのは、このイエスの教えの内容を決して違わずに受けとめていたという、ただそれだけの話であります。しかしその特性が強調されて、本日の箇所に繋がります。

 それはこの72人は独りも欠けることなく無事にその教えを全うして主イエスのもとに戻ってきたという事実です。12人以外の名もない弟子がこのように忠実に励むことによって、イエス・キリストから伝えられた務めを見事に果たして無事に戻ってきました。無名の弟子の報告を「悪霊があなたがたに服従したからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜べ」と誡めながらも、本日の箇所では福音書全体の物語を通しても珍しく、主イエス自ら「聖霊によって喜びにあふれた」という、イエス・キリスト自らが喜びにあふれ、笑顔を浮かべている様子がありありと描かれています。

 概して微笑みも含めて笑いと申しますものは、厳格な権威や強力な権力を求める者には苦手なものです。笑顔にあふれた独裁者のポスターなど観たことがありませんし、東アジア諸国の倣いでもそれは考えられません。けれどもイエス・キリストはこの箇所では自ら誰の目にも分かりやすく喜び、72人が無事託された務めを全うしたことを神に感謝いたします。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心にかなうことでした」。イエス・キリストが天に昇られた後に12人の弟子に託される世界宣教の雛形が、この72人の宣教の働きに隠されています。それは決して苦しみばかりに留まるものではなく、72人にも喜びをもたらし、イエス・キリスト自らにも喜びをもたらすものとなっています。預言者や王を引き合いに出しながら「あなたがたの観ているものを見ているものを見る目は幸いだ」とまでイエス・キリストは72人にも、そして12人の弟子たちにも語ったことでしょう。12と72を足せば84。これを12で割れば7となります。救いの全うされるそのモデルが、幼子のような者たちの働きによって示されたと言えます。命令への服従ではなく祈りに満ちた奉仕への参加への答えがイエスの笑顔に示されているように思うのです。

 5月27日(土)に創立60周年を迎えた止揚学園を訪ねました。同志社や近江兄弟社からの来賓が挨拶する中で一際心に沁みたのは知的障碍のある「仲間」たちの祝いのメッセージであり、汗だくで必死に言葉を紡ぐ福井生園長の言葉でした。泉北ニュータウン教会の礼拝堂の天井を模したと言われる空間も陽の光を上手く採り入れていました。来賓が帰宅した後に特別にご親族とともに敷地内に立つ納骨堂を訪ねることもできました。今は法律があるために難しくなりましたが、止揚学園創立時には敷地内での納骨堂の建設がまだ問題視されていなかった時代でした。いのちに関わる仕事に向き合う職員さん一人ひとりは、何かのエキスパートというわけではありません。しかしその志に応じようとした当時の止揚学園の姿勢が納骨堂には示されていました。

 社会福祉法人に限らず、学校法人もその創立者の目指した志を見失いますと、たちまちその足下を見失っては規模拡大の虜となり、いのちに関わっているのだという厳粛な事実から目を背けようといたします。72人の「幼子のような者」の集りは、その愚かさのゆえに、12弟子に先んじてイエス・キリストの教えを全うできたのではないでしょうか。キリストの肢体としての教会は、人間の集まりという側面も持ち合わせています。当然そこには衝突も起こります。しかしその衝突から新しいものが生まれ、神の平和が生まれるからこそ、止揚という言葉を用いたとお話しでした。淀まない神の愛の風に吹かれて新しい一週間を始めましょう。


2023年5月25日木曜日

2023年 5月28日(日) 礼拝 説教

 ー聖霊降臨節第1主日礼拝ー

―ペンテコステ礼拝―

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 


説教=「今はたらく神の愛の力に励まされて」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』11章5~13 節
(新約聖書 127 頁).

讃美= こども94,183,讃美ファイル3,543.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
  本日の『聖書』の箇所では「求めなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがるこどもに、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分のこどもにはよい物を与えることを知っている」とあります。拝読した今の箇所までは『マタイによる福音書』と概ね一致するのですが、マタイの書き手集団が「これこそ『律法』と『預言者』である」と『旧約聖書』の完成と観るのに対して、ルカの書き手集団は「天の父は聖霊を与えてくださる」と神の愛の力という贈り物が描かれます。さらに遡れば、イエスの山上の垂訓としてではなく、「主の祈り」に続く教えとして書き記した後、ある人物が突然の旅人を受け容れようと四苦八苦する様子をイエスの教えの中に描きます。むしろこちらのほうが生々しさを帯びてまいります。「友よ、パンを三つ貸して欲しい。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがない」という懇願に対して決してこの友人は喜んで応じようとはしません。「面倒をかけるな。もう扉の鍵は閉めた。こどもたちは寝ている。起きてあなたに何かをあげるわけにはいけない」。このやりとりではもてなしの調達には明らかに失敗しています。しかし人の子イエスは続けます。「友人だからというわけではなくても、しつこく頼めば、起きて必要な食べ物は与えるだろう」。

 人の子イエスの教えとしては実に生々しいこの物語。実のところこの箇所にはイエスがキリストとして天に昇られた後に始まるところの『使徒言行録』にある、使徒となった弟子一人ひとりが味わった伝道の旅路での苦い記憶が描かれているのではないでしょうか。キリストによる神の愛の力に押し出されて全世界に福音を宣べ伝えるために旅立った弟子たち。しかしその旅路は決して人の目に安楽なものでも、よい出会いばかりに恵まれたのではなかったように思うのです。むしろ相手から拒絶され、懸命になるほどに徒労を覚えるものであったかもしれません。生命の危機さえありました。しかし最初はそのような恐れを伴うものであったとしても、その出会いはやがて互いの胸に深く刻まれて、神との関わりを目指して伸びる芽生えにつながっていったことでしょう。

 讃美歌でも信仰のあゆみを旅に重ねて歌う内容のものは決して少なくはありません。しかしその歌詞やメロディーの通りにすべてがわたしたちの目から見て「うまくいく」とは限りません。本来はぜひとも福音を分かち合いたかった少なからずの人々が、教会の交わりから離れていった記憶もやはり生々しいところです。使徒パウロの記した『ガラテヤの信徒への手紙』には初代教会の伝道のわざが使徒たちお互いの絆をただちに目に見える仕方で強めたとは言い難い様子がまざまざと描かれています。

 それではその旅が信仰の歩みであったと誰の目にも分かりやすく示されるのはいつのこととなるでしょうか。聖霊に押し出されて歩み、言葉や文化を超えてまかれた種が芽吹くと誰が知り得るのでしょうか。おそらくそれは、わたしたちが、時と場所とを問わず、イエス様がともにいてくださると感じるその時ではないでしょうか。時にそれは、愛する人の生涯の旅が全うされるというその時に訪れもするのではないかと思うのです。

 今年に入り、二月、三月、四月、五月と、コロナ禍の節目もはさんで、時に満ちた仕方で教会員を天に送り、ともに悼み、またご遺族のために深い慰めを祈りました。稲山がかつてお世話になり、ときに熱く激しい交わりをいただいた前任地の教会員も先日天に召されました。葬儀や告別式を司る牧師が申しあげるのもどうかもしれませんが、わたしは葬儀・告別式をベルトコンベア式に行う技量はとてもありません。その意味ではまことに要領を得ない、仕事のできない牧師だと呼ばれて当然です。けれどもお一人おひとりの方々は、それぞれ世にあって神の愛に活かされる喜び、言葉に表しがたい余韻を遺されて天に召されていきました。世にある生涯の中でいかなる事々があったとしても、わたしたちは召された事実を悼みながら胸に刻みます。イエス・キリストはそのたびに助け主なる聖霊を送ってくださると深く確信します。

 聖霊降臨の出来事が『使徒言行録』に記されて2000年近くの時が流れました。主なる神は今なお招かれた教会員、そして関わるすべての人々に、聖霊を注いでくださいます。それはいのちの力にあふれています。新しい出会いが、たとえ真夜中にパンを借りに来るという非常識極まりないと思える出来事であったとしても、必ずその出会いに感謝するときがやってきます。ほそぼそとしか信仰しか持ちえないと涙するときがあっても、そのほそぼそとした道のりをイエス・キリストはいのちの泉で満たしてくださります。信頼に満ちた落ち着きの中で聖霊降臨の日を祝いましょう。ほそぼそとした信仰とは、決して絶たれはしないキリストとの関わりを示しています。

2023年5月18日木曜日

2023年 5月21日(日) 礼拝 説教

  ー復活節第7主日礼拝ー

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 


説教=「キリストに立ち返り、天を仰いで進む」 
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』28 章 16~20 節
(新約聖書 60 頁).

讃美= 301,158.543.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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【説教要旨】
 マルコ・マタイ・ルカ各々の書き手集団によって編みあげられた福音書は、イエスをめぐる理解に共通点が多いことから、しばしば「共観福音書」と呼ばれます。イエスの生涯の描き方に共通点があり、観る(「観察」の「観」を用います)、則ちその理解に通じるところが多い、という意味です。しかしだからといって各々の福音書の内容がみな同じではありません。同じ家族でもそれぞれ顔に違いがあるように、この福音書にもそれぞれ個性というものがあります。福音書をもたらしたどの書き手集団も舐めるように『旧約聖書』を読んだ後に、救い主、メシアが歩んだ道を劇的に描いてまいります。

 本日扱うところの『マタイによる福音書』ではイエス・キリストのあゆみと並んで「ナザレのイエスの教え」に重きが置かれます。しかし弟子がその教えをすべて理解したとはどこにも記されておりません。むしろイエスの教えを理解できなかったからこそ、弟子たちはイエスが磔にされるというその土壇場でみな逃げ出していき、イエスを慕う女性が告げ知らせる復活の報せを聞いても受け容れられない者もおりました。弟子の数が多ければまだしも、本日の箇所では救い主を欺いたとされるイスカリオテのユダの自死の後に残った11人の弟子の中でさえ「疑う者もいた」と書き記します。死という絶望に勝利したイエスの姿を目のあたりにし、ひれ伏す中でさえ疑いの中に置かれていた者もいたというのです。

 『聖書』の言葉の中で最も単純でかつ最も難解なのがこの「復活」という出来事であるとされます。「切支丹禁令」の中で徳川幕府の儒学者から尋問された「伴天連」、パードレ、則ち宣教師でもある神父との対論の中でも「復活」は荒唐無稽であるとして退けられます。逆に申しあげれば、この「復活」という出来事を当事者として受けいれられるか否かが、その人をキリスト者であるかどうかを問う事柄であるとわたしたちは考え、また「あなたは復活を信じているのか」と問われもいたします。しかし本日の箇所で復活したイエス・キリストはそのような弟子の迷いはまるきり眼中にないかのように弟子に近寄り「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての者をわたしの弟子にしなさい」と命じます。弟子個々人の中にある疑いなど取るに足らないと言わんばかりです。それはなぜでしょうか。

 実はこのような「疑いの素通り」は、イエス・キリストのユーモアを示していると言われる場合があります。その場に立ち止まってくよくよ「本当にイエス様は復活されたのだろうか」と考える弟子の傍には、厳然として復活のイエス・キリストがともにいてくださります。疑いを否定さえせず、微笑みをたたえて「心配するなよ」とでも言うように傍にいてくださるのです。疑いとは所詮はわたしたちの内面の問題に過ぎません。その人自身の問題に過ぎません。しかしイエス・キリストがこの箇所で命じているのは「すべての民をわたしの弟子にしなさい」とのまことにスケールの大きな世界への誘いです。この大きな志を伴う誘いに較べれば、わたしたちの疑いもまた限りある、いずれ克服される波風に過ぎません。むしろその波風もまた、イエス・キリストは人の悲しみや狼狽を分かちあい、キリスト自らに連なる交わりの契機として用います。だからこそ本日の箇所からは、『マタイによる福音書』の書き手集団が、イエス・キリストに思いを寄せている様子が分かるというものです。「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。近・現代の日本文学は、神への疑いをあまりにも大げさに扱った結果、キリストに導くはずの福音書にいたる道に、躓きをもたらす砂利を備えてしまったように思います。けれども実際に福音書そのものに目を向ければ、どこにもそのような砂利道や余計な気苦労は記されていません。キリストは『マタイによる福音書』の終わりに、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」と語ります。これは読み手へのメッセージでもあります。すでに本日の福音書のクリスマス物語、1章の後半でこのように記載されています。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』。この名は、『神はわたしたちとともにおられる』という意味である」。

 弟子の疑いに先んじて響く、この「インマヌエル」の宣言により締めくくられる『マタイによる福音書』。わたしたちは教会のわざ、こども園での働き、放課後等デイサービスでの勤務、各々の働きの場所、介護の現場、そして家族や親しい人との交わりの中で、あまりにもくよくよし過ぎてはいないだろうかと深く反省します。教会にある生き方にあっても、人と自分を較べてあれこれと呟き「立派な振る舞いのあの人に較べて自分は」と自分を責めがちです。けれども、それは人を顧みつつも神への信頼に欠くありかたなのかもしれません。どうすればよいか分からないとき、わたしたちはまず天を仰いでみましょう。そしてキリストに立ち返ってみましょう。本日は復活のキリストが40日間、弟子とともにいた後に昇天された出来事を記念する礼拝を献げます。キリストが自らの生き方を通して、父なる神自らの愛の力を注いでいるとの確信の中で、わたしたちも神の愛に目覚めるのです。

2023年5月11日木曜日

2023年 5月14日(日) 父母の日礼拝 メッセージ

ー復活節第6主日礼拝 ー
―父母の日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 


メッセージ=栗山 明弓 氏
主題=「私の母とその薔薇」

聖書=『テサロニケの信徒への手紙Ⅰ』
5章16~18節
  (新約聖書379ページ).

讃美=Ⅱ 136,Ⅱ 195.Ⅱ 144.

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
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なお、当日は「父母の日礼拝」につき
外部から奨励担当者をお招きするため、
牧師によるメッセージ収録動画はございません。

この礼拝ではピアノとヴァイオリンの演奏があります。
残念ながら現状のマイクの性能等により
礼拝の中継に一部不具合が生じる場合が想定されます。
あらかじめご容赦のほどよろしくお願い申しあげます。

2023年5月5日金曜日

2023年 5月7日(日) 礼拝 説教

ー復活節第5主日礼拝ー

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 


説教=「聖書の言葉に根をおろして暮らす」 
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』15 章 12~17 節
(新約聖書 199 頁).

讃美= 522, 280,543.
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【説教要旨】
  「友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に尊い愛はない」。本日の箇所でひときわ目を惹くのはこの言葉です。この言葉は『聖書』に記された愛の特性を示すとともに、その時代の権力者の都合に応じて用いられてきたという悲劇的な歴史をもっています。2001年にニューヨークで起きた米国同時多発テロの報復と位置づけてアメリカ軍がアフガニスタン戦争を始めたときに、当時のジョージ・ブッシュ・ジュニア大統領はこの言葉をメディアでの演説で用いて戦争の正当性を訴えかけました。そして今、ロシアのプーチン大統領も全く同じ箇所を用いてウクライナ戦争を正当化しています。これは歴史の皮肉というより他はありません。これは『聖書』の言葉の文脈が無視され、きりとられた結果に生じる悲劇を物語っています。この箇所がどのように解き明かされるかは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」という言葉。「わたしがあなたがたを愛したように」という箇所には、洗礼者ヨハネから清めの洗礼を授かり、群衆と呼ばれ、ローマ帝国からは人の数にも入れられなかった人々に仕え、そして力ある者や声ばかり大きい者の命令に従うどころか、却ってそのあり方を問いかけ、濡れ衣を着せられ、人々から見捨てられて十字架で処刑され、葬られて三日の後に復活するというイエス・キリストの生涯全てが集約されています。その生涯を視野に定めることにより、始めて「友のためにいのちを捨てること」の言葉の真意が響くというものです。

 それでは「友のためにいのちを捨てること」とはいったい何を示しているのでしょうか。続く箇所では「わたしの命じることを行なうならば、あなたがたはわたしの友である」とあります。さらに「もはや、わたしはあなたがたを僕(しもべ)とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」とあります。そして本日の箇所の始めには「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」とあります。実は「友のためにいのちを捨てること」よりも先に、この「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」と記された言葉こそが「いのちを捨てる」という文章の意味を決定づける文章の流れとなっています。この流れを無視してしまいますと、冒頭のような自分勝手な解釈をもたらすことにつながります。

  「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」。これは、時の権力者が呼ばわるような英雄的な、群を抜くような目立つ行為を示すのではありません。むしろ日毎の働きの中でひたすら目立たず、自己主張する機会すらなく、ただただ仕えていくというあり方を示します。組織にあって上から命令するのではなく、交わりの中で仕えていくというあり方です。おそらくこのようなあり方は、『新約聖書』の時代でいうところの奴隷のわざとして理解されていたことでしょう。罵詈雑言に耐えながら黙々と働いた人々によって、表向きはきらびやかな「ローマの平和」が維持されていました。しかしイエス・キリストはそのような人々をもはや僕、すなわち奴隷とは呼ばず、友と呼ぶ、というのです。これはキリストと弟子との関わりにも言えるでしょうし、わたしたちの交わりにも言えるでしょうし、そしてご家族にあっての交わりにも言えることでしょう。もちろん現在ではわたしたちは奴隷のような暮らしを強いられているわけではありません。だからこそ友としてただただ相手の主張に従うというのではなくて、時には耳の痛い事柄も相手に伝える必要があるかも知れません。まことの友情とはそのようなものです。そうであればこそ、お互いを赦しあっていくというありかたもまた「愛し合う」という言葉に集約され、現実味を帯びます。

  わたしたちが時として目を背けたくなるような残酷な人間模様が描かれる『旧約聖書』でさえ、主なる神の絶対的な言葉が響いているのにお気づきでしょうか。それは「死んではいけない」という言葉です。なぜあの楽園で智恵の実を食べてはいけなかったのか。それは端的に「死んではいけない」からです。楽園追放の最中にあって、神が追放される人間に皮の衣を作って着せられたとあるのも、人は「死んではいけない」からです。

 この二週間にわたって、わたしたちは大切な兄弟姉妹と呼ぶべき二名の方々を天に見送りました。その誰もが世にあって、ご家族も含めて、ともに暮した人々を心底から大切にされた方々でした。そして先立つ三月には大切なご伴侶を天に見送られた教会員である兄弟、「仲間」がおります。天に召された友、地にあってこの場に招かれた友。その全ての友が、イエス・キリストにあって固く結ばれています。それをしてイエス・キリストの交わりにある兄弟姉妹と、字義通りに言い表すことができます。わたしたちに血の繋がりはなく、置かれた場所も様々です。ライフヒストリーも様々ですが、大切なご家族を見送った方々の悲しみをともに分かち合うありかたが何よりであると『聖書』には記されています。聖書に根を下ろして暮すというありかたが示されています。