2023年6月1日木曜日

2023年 6月4日(日) 礼拝 説教

ー聖霊降臨節第2主日礼拝ー

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 


説教=「喜びにあふれてほほえむイエス」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』10 章17~24 節
(新約聖書 126 頁).

讃美= 333,495,500. 
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
  「その後、主はほかに72人を任命し、ご自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」と始まる『ルカによる福音書』10章。12弟子に続いて72人の弟子たちがイエス・キリストに従っていたという、福音書の物語の中でも滅多に観られない数の弟子達。イエスがこの弟子たちに語るには「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物ももって行くな。途中で誰にも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるならば、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。その家に泊まって、そこで出されるものを食べ、また飲みなさい。働くものが報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」。イエスは実に事細かに、伝道に関する心がけを伝えています。財布も袋も予備の履物も持って行ってはならず、決して気を散らすような思いを抱いてはいけない。迎え入れてくださる家があればその家に神の平和に満ちた祝福を祈り、根気強くその家に留まりなさい。病人の苦しみをいやし、神の国の訪れを伝えなさいという、実に細かな指示ではあります。一を聞いて十を知るような相手であればこのようには教えないはずです。その意味では12弟子に次いで任命された72人は決して有能でも特別に聡明な人々でもなかった事が分かります。確かなのは、このイエスの教えの内容を決して違わずに受けとめていたという、ただそれだけの話であります。しかしその特性が強調されて、本日の箇所に繋がります。

 それはこの72人は独りも欠けることなく無事にその教えを全うして主イエスのもとに戻ってきたという事実です。12人以外の名もない弟子がこのように忠実に励むことによって、イエス・キリストから伝えられた務めを見事に果たして無事に戻ってきました。無名の弟子の報告を「悪霊があなたがたに服従したからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜べ」と誡めながらも、本日の箇所では福音書全体の物語を通しても珍しく、主イエス自ら「聖霊によって喜びにあふれた」という、イエス・キリスト自らが喜びにあふれ、笑顔を浮かべている様子がありありと描かれています。

 概して微笑みも含めて笑いと申しますものは、厳格な権威や強力な権力を求める者には苦手なものです。笑顔にあふれた独裁者のポスターなど観たことがありませんし、東アジア諸国の倣いでもそれは考えられません。けれどもイエス・キリストはこの箇所では自ら誰の目にも分かりやすく喜び、72人が無事託された務めを全うしたことを神に感謝いたします。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心にかなうことでした」。イエス・キリストが天に昇られた後に12人の弟子に託される世界宣教の雛形が、この72人の宣教の働きに隠されています。それは決して苦しみばかりに留まるものではなく、72人にも喜びをもたらし、イエス・キリスト自らにも喜びをもたらすものとなっています。預言者や王を引き合いに出しながら「あなたがたの観ているものを見ているものを見る目は幸いだ」とまでイエス・キリストは72人にも、そして12人の弟子たちにも語ったことでしょう。12と72を足せば84。これを12で割れば7となります。救いの全うされるそのモデルが、幼子のような者たちの働きによって示されたと言えます。命令への服従ではなく祈りに満ちた奉仕への参加への答えがイエスの笑顔に示されているように思うのです。

 5月27日(土)に創立60周年を迎えた止揚学園を訪ねました。同志社や近江兄弟社からの来賓が挨拶する中で一際心に沁みたのは知的障碍のある「仲間」たちの祝いのメッセージであり、汗だくで必死に言葉を紡ぐ福井生園長の言葉でした。泉北ニュータウン教会の礼拝堂の天井を模したと言われる空間も陽の光を上手く採り入れていました。来賓が帰宅した後に特別にご親族とともに敷地内に立つ納骨堂を訪ねることもできました。今は法律があるために難しくなりましたが、止揚学園創立時には敷地内での納骨堂の建設がまだ問題視されていなかった時代でした。いのちに関わる仕事に向き合う職員さん一人ひとりは、何かのエキスパートというわけではありません。しかしその志に応じようとした当時の止揚学園の姿勢が納骨堂には示されていました。

 社会福祉法人に限らず、学校法人もその創立者の目指した志を見失いますと、たちまちその足下を見失っては規模拡大の虜となり、いのちに関わっているのだという厳粛な事実から目を背けようといたします。72人の「幼子のような者」の集りは、その愚かさのゆえに、12弟子に先んじてイエス・キリストの教えを全うできたのではないでしょうか。キリストの肢体としての教会は、人間の集まりという側面も持ち合わせています。当然そこには衝突も起こります。しかしその衝突から新しいものが生まれ、神の平和が生まれるからこそ、止揚という言葉を用いたとお話しでした。淀まない神の愛の風に吹かれて新しい一週間を始めましょう。