ー聖霊降臨節第1主日礼拝ー
―ペンテコステ礼拝―
時間:10時30分~
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
人の子イエスの教えとしては実に生々しいこの物語。実のところこの箇所にはイエスがキリストとして天に昇られた後に始まるところの『使徒言行録』にある、使徒となった弟子一人ひとりが味わった伝道の旅路での苦い記憶が描かれているのではないでしょうか。キリストによる神の愛の力に押し出されて全世界に福音を宣べ伝えるために旅立った弟子たち。しかしその旅路は決して人の目に安楽なものでも、よい出会いばかりに恵まれたのではなかったように思うのです。むしろ相手から拒絶され、懸命になるほどに徒労を覚えるものであったかもしれません。生命の危機さえありました。しかし最初はそのような恐れを伴うものであったとしても、その出会いはやがて互いの胸に深く刻まれて、神との関わりを目指して伸びる芽生えにつながっていったことでしょう。
讃美歌でも信仰のあゆみを旅に重ねて歌う内容のものは決して少なくはありません。しかしその歌詞やメロディーの通りにすべてがわたしたちの目から見て「うまくいく」とは限りません。本来はぜひとも福音を分かち合いたかった少なからずの人々が、教会の交わりから離れていった記憶もやはり生々しいところです。使徒パウロの記した『ガラテヤの信徒への手紙』には初代教会の伝道のわざが使徒たちお互いの絆をただちに目に見える仕方で強めたとは言い難い様子がまざまざと描かれています。
それではその旅が信仰の歩みであったと誰の目にも分かりやすく示されるのはいつのこととなるでしょうか。聖霊に押し出されて歩み、言葉や文化を超えてまかれた種が芽吹くと誰が知り得るのでしょうか。おそらくそれは、わたしたちが、時と場所とを問わず、イエス様がともにいてくださると感じるその時ではないでしょうか。時にそれは、愛する人の生涯の旅が全うされるというその時に訪れもするのではないかと思うのです。
今年に入り、二月、三月、四月、五月と、コロナ禍の節目もはさんで、時に満ちた仕方で教会員を天に送り、ともに悼み、またご遺族のために深い慰めを祈りました。稲山がかつてお世話になり、ときに熱く激しい交わりをいただいた前任地の教会員も先日天に召されました。葬儀や告別式を司る牧師が申しあげるのもどうかもしれませんが、わたしは葬儀・告別式をベルトコンベア式に行う技量はとてもありません。その意味ではまことに要領を得ない、仕事のできない牧師だと呼ばれて当然です。けれどもお一人おひとりの方々は、それぞれ世にあって神の愛に活かされる喜び、言葉に表しがたい余韻を遺されて天に召されていきました。世にある生涯の中でいかなる事々があったとしても、わたしたちは召された事実を悼みながら胸に刻みます。イエス・キリストはそのたびに助け主なる聖霊を送ってくださると深く確信します。
聖霊降臨の出来事が『使徒言行録』に記されて2000年近くの時が流れました。主なる神は今なお招かれた教会員、そして関わるすべての人々に、聖霊を注いでくださいます。それはいのちの力にあふれています。新しい出会いが、たとえ真夜中にパンを借りに来るという非常識極まりないと思える出来事であったとしても、必ずその出会いに感謝するときがやってきます。ほそぼそとしか信仰しか持ちえないと涙するときがあっても、そのほそぼそとした道のりをイエス・キリストはいのちの泉で満たしてくださります。信頼に満ちた落ち着きの中で聖霊降臨の日を祝いましょう。ほそぼそとした信仰とは、決して絶たれはしないキリストとの関わりを示しています。