時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
それでは「友のためにいのちを捨てること」とはいったい何を示しているのでしょうか。続く箇所では「わたしの命じることを行なうならば、あなたがたはわたしの友である」とあります。さらに「もはや、わたしはあなたがたを僕(しもべ)とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」とあります。そして本日の箇所の始めには「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」とあります。実は「友のためにいのちを捨てること」よりも先に、この「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」と記された言葉こそが「いのちを捨てる」という文章の意味を決定づける文章の流れとなっています。この流れを無視してしまいますと、冒頭のような自分勝手な解釈をもたらすことにつながります。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」。これは、時の権力者が呼ばわるような英雄的な、群を抜くような目立つ行為を示すのではありません。むしろ日毎の働きの中でひたすら目立たず、自己主張する機会すらなく、ただただ仕えていくというあり方を示します。組織にあって上から命令するのではなく、交わりの中で仕えていくというあり方です。おそらくこのようなあり方は、『新約聖書』の時代でいうところの奴隷のわざとして理解されていたことでしょう。罵詈雑言に耐えながら黙々と働いた人々によって、表向きはきらびやかな「ローマの平和」が維持されていました。しかしイエス・キリストはそのような人々をもはや僕、すなわち奴隷とは呼ばず、友と呼ぶ、というのです。これはキリストと弟子との関わりにも言えるでしょうし、わたしたちの交わりにも言えるでしょうし、そしてご家族にあっての交わりにも言えることでしょう。もちろん現在ではわたしたちは奴隷のような暮らしを強いられているわけではありません。だからこそ友としてただただ相手の主張に従うというのではなくて、時には耳の痛い事柄も相手に伝える必要があるかも知れません。まことの友情とはそのようなものです。そうであればこそ、お互いを赦しあっていくというありかたもまた「愛し合う」という言葉に集約され、現実味を帯びます。
わたしたちが時として目を背けたくなるような残酷な人間模様が描かれる『旧約聖書』でさえ、主なる神の絶対的な言葉が響いているのにお気づきでしょうか。それは「死んではいけない」という言葉です。なぜあの楽園で智恵の実を食べてはいけなかったのか。それは端的に「死んではいけない」からです。楽園追放の最中にあって、神が追放される人間に皮の衣を作って着せられたとあるのも、人は「死んではいけない」からです。
この二週間にわたって、わたしたちは大切な兄弟姉妹と呼ぶべき二名の方々を天に見送りました。その誰もが世にあって、ご家族も含めて、ともに暮した人々を心底から大切にされた方々でした。そして先立つ三月には大切なご伴侶を天に見送られた教会員である兄弟、「仲間」がおります。天に召された友、地にあってこの場に招かれた友。その全ての友が、イエス・キリストにあって固く結ばれています。それをしてイエス・キリストの交わりにある兄弟姉妹と、字義通りに言い表すことができます。わたしたちに血の繋がりはなく、置かれた場所も様々です。ライフヒストリーも様々ですが、大切なご家族を見送った方々の悲しみをともに分かち合うありかたが何よりであると『聖書』には記されています。聖書に根を下ろして暮すというありかたが示されています。
説教=「聖書の言葉に根をおろして暮らす」
稲山聖修牧師
聖書=『ヨハネによる福音書』15 章 12~17 節
(新約聖書 199 頁).
讃美= 522, 280,543.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
「友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に尊い愛はない」。本日の箇所でひときわ目を惹くのはこの言葉です。この言葉は『聖書』に記された愛の特性を示すとともに、その時代の権力者の都合に応じて用いられてきたという悲劇的な歴史をもっています。2001年にニューヨークで起きた米国同時多発テロの報復と位置づけてアメリカ軍がアフガニスタン戦争を始めたときに、当時のジョージ・ブッシュ・ジュニア大統領はこの言葉をメディアでの演説で用いて戦争の正当性を訴えかけました。そして今、ロシアのプーチン大統領も全く同じ箇所を用いてウクライナ戦争を正当化しています。これは歴史の皮肉というより他はありません。これは『聖書』の言葉の文脈が無視され、きりとられた結果に生じる悲劇を物語っています。この箇所がどのように解き明かされるかは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」という言葉。「わたしがあなたがたを愛したように」という箇所には、洗礼者ヨハネから清めの洗礼を授かり、群衆と呼ばれ、ローマ帝国からは人の数にも入れられなかった人々に仕え、そして力ある者や声ばかり大きい者の命令に従うどころか、却ってそのあり方を問いかけ、濡れ衣を着せられ、人々から見捨てられて十字架で処刑され、葬られて三日の後に復活するというイエス・キリストの生涯全てが集約されています。その生涯を視野に定めることにより、始めて「友のためにいのちを捨てること」の言葉の真意が響くというものです。
それでは「友のためにいのちを捨てること」とはいったい何を示しているのでしょうか。続く箇所では「わたしの命じることを行なうならば、あなたがたはわたしの友である」とあります。さらに「もはや、わたしはあなたがたを僕(しもべ)とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」とあります。そして本日の箇所の始めには「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」とあります。実は「友のためにいのちを捨てること」よりも先に、この「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」と記された言葉こそが「いのちを捨てる」という文章の意味を決定づける文章の流れとなっています。この流れを無視してしまいますと、冒頭のような自分勝手な解釈をもたらすことにつながります。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」。これは、時の権力者が呼ばわるような英雄的な、群を抜くような目立つ行為を示すのではありません。むしろ日毎の働きの中でひたすら目立たず、自己主張する機会すらなく、ただただ仕えていくというあり方を示します。組織にあって上から命令するのではなく、交わりの中で仕えていくというあり方です。おそらくこのようなあり方は、『新約聖書』の時代でいうところの奴隷のわざとして理解されていたことでしょう。罵詈雑言に耐えながら黙々と働いた人々によって、表向きはきらびやかな「ローマの平和」が維持されていました。しかしイエス・キリストはそのような人々をもはや僕、すなわち奴隷とは呼ばず、友と呼ぶ、というのです。これはキリストと弟子との関わりにも言えるでしょうし、わたしたちの交わりにも言えるでしょうし、そしてご家族にあっての交わりにも言えることでしょう。もちろん現在ではわたしたちは奴隷のような暮らしを強いられているわけではありません。だからこそ友としてただただ相手の主張に従うというのではなくて、時には耳の痛い事柄も相手に伝える必要があるかも知れません。まことの友情とはそのようなものです。そうであればこそ、お互いを赦しあっていくというありかたもまた「愛し合う」という言葉に集約され、現実味を帯びます。
わたしたちが時として目を背けたくなるような残酷な人間模様が描かれる『旧約聖書』でさえ、主なる神の絶対的な言葉が響いているのにお気づきでしょうか。それは「死んではいけない」という言葉です。なぜあの楽園で智恵の実を食べてはいけなかったのか。それは端的に「死んではいけない」からです。楽園追放の最中にあって、神が追放される人間に皮の衣を作って着せられたとあるのも、人は「死んではいけない」からです。
この二週間にわたって、わたしたちは大切な兄弟姉妹と呼ぶべき二名の方々を天に見送りました。その誰もが世にあって、ご家族も含めて、ともに暮した人々を心底から大切にされた方々でした。そして先立つ三月には大切なご伴侶を天に見送られた教会員である兄弟、「仲間」がおります。天に召された友、地にあってこの場に招かれた友。その全ての友が、イエス・キリストにあって固く結ばれています。それをしてイエス・キリストの交わりにある兄弟姉妹と、字義通りに言い表すことができます。わたしたちに血の繋がりはなく、置かれた場所も様々です。ライフヒストリーも様々ですが、大切なご家族を見送った方々の悲しみをともに分かち合うありかたが何よりであると『聖書』には記されています。聖書に根を下ろして暮すというありかたが示されています。