2023年5月18日木曜日

2023年 5月21日(日) 礼拝 説教

  ー復活節第7主日礼拝ー

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 


説教=「キリストに立ち返り、天を仰いで進む」 
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』28 章 16~20 節
(新約聖書 60 頁).

讃美= 301,158.543.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 マルコ・マタイ・ルカ各々の書き手集団によって編みあげられた福音書は、イエスをめぐる理解に共通点が多いことから、しばしば「共観福音書」と呼ばれます。イエスの生涯の描き方に共通点があり、観る(「観察」の「観」を用います)、則ちその理解に通じるところが多い、という意味です。しかしだからといって各々の福音書の内容がみな同じではありません。同じ家族でもそれぞれ顔に違いがあるように、この福音書にもそれぞれ個性というものがあります。福音書をもたらしたどの書き手集団も舐めるように『旧約聖書』を読んだ後に、救い主、メシアが歩んだ道を劇的に描いてまいります。

 本日扱うところの『マタイによる福音書』ではイエス・キリストのあゆみと並んで「ナザレのイエスの教え」に重きが置かれます。しかし弟子がその教えをすべて理解したとはどこにも記されておりません。むしろイエスの教えを理解できなかったからこそ、弟子たちはイエスが磔にされるというその土壇場でみな逃げ出していき、イエスを慕う女性が告げ知らせる復活の報せを聞いても受け容れられない者もおりました。弟子の数が多ければまだしも、本日の箇所では救い主を欺いたとされるイスカリオテのユダの自死の後に残った11人の弟子の中でさえ「疑う者もいた」と書き記します。死という絶望に勝利したイエスの姿を目のあたりにし、ひれ伏す中でさえ疑いの中に置かれていた者もいたというのです。

 『聖書』の言葉の中で最も単純でかつ最も難解なのがこの「復活」という出来事であるとされます。「切支丹禁令」の中で徳川幕府の儒学者から尋問された「伴天連」、パードレ、則ち宣教師でもある神父との対論の中でも「復活」は荒唐無稽であるとして退けられます。逆に申しあげれば、この「復活」という出来事を当事者として受けいれられるか否かが、その人をキリスト者であるかどうかを問う事柄であるとわたしたちは考え、また「あなたは復活を信じているのか」と問われもいたします。しかし本日の箇所で復活したイエス・キリストはそのような弟子の迷いはまるきり眼中にないかのように弟子に近寄り「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての者をわたしの弟子にしなさい」と命じます。弟子個々人の中にある疑いなど取るに足らないと言わんばかりです。それはなぜでしょうか。

 実はこのような「疑いの素通り」は、イエス・キリストのユーモアを示していると言われる場合があります。その場に立ち止まってくよくよ「本当にイエス様は復活されたのだろうか」と考える弟子の傍には、厳然として復活のイエス・キリストがともにいてくださります。疑いを否定さえせず、微笑みをたたえて「心配するなよ」とでも言うように傍にいてくださるのです。疑いとは所詮はわたしたちの内面の問題に過ぎません。その人自身の問題に過ぎません。しかしイエス・キリストがこの箇所で命じているのは「すべての民をわたしの弟子にしなさい」とのまことにスケールの大きな世界への誘いです。この大きな志を伴う誘いに較べれば、わたしたちの疑いもまた限りある、いずれ克服される波風に過ぎません。むしろその波風もまた、イエス・キリストは人の悲しみや狼狽を分かちあい、キリスト自らに連なる交わりの契機として用います。だからこそ本日の箇所からは、『マタイによる福音書』の書き手集団が、イエス・キリストに思いを寄せている様子が分かるというものです。「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。近・現代の日本文学は、神への疑いをあまりにも大げさに扱った結果、キリストに導くはずの福音書にいたる道に、躓きをもたらす砂利を備えてしまったように思います。けれども実際に福音書そのものに目を向ければ、どこにもそのような砂利道や余計な気苦労は記されていません。キリストは『マタイによる福音書』の終わりに、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」と語ります。これは読み手へのメッセージでもあります。すでに本日の福音書のクリスマス物語、1章の後半でこのように記載されています。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』。この名は、『神はわたしたちとともにおられる』という意味である」。

 弟子の疑いに先んじて響く、この「インマヌエル」の宣言により締めくくられる『マタイによる福音書』。わたしたちは教会のわざ、こども園での働き、放課後等デイサービスでの勤務、各々の働きの場所、介護の現場、そして家族や親しい人との交わりの中で、あまりにもくよくよし過ぎてはいないだろうかと深く反省します。教会にある生き方にあっても、人と自分を較べてあれこれと呟き「立派な振る舞いのあの人に較べて自分は」と自分を責めがちです。けれども、それは人を顧みつつも神への信頼に欠くありかたなのかもしれません。どうすればよいか分からないとき、わたしたちはまず天を仰いでみましょう。そしてキリストに立ち返ってみましょう。本日は復活のキリストが40日間、弟子とともにいた後に昇天された出来事を記念する礼拝を献げます。キリストが自らの生き方を通して、父なる神自らの愛の力を注いでいるとの確信の中で、わたしたちも神の愛に目覚めるのです。