2025年12月28日日曜日

2026年 1月4日(日) 説教

 ―降誕節第2主日礼拝―


時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 
 
説教=「神に育まれる少年イエス」
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』2 章41~52 節
(新約104 頁)

讃美= 21-257.21-412.21-29.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

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方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 クリスマス物語では飼葉桶のみどり児イエスが誕生するまでの物語、つまり救い主の誕生にいたるまでの道筋を描きます。人の子イエスの誕生という劇的な出来事とは裏腹に、この物語を細かく描いている福音書とは『マタイによる福音書』もさることながら『ルカによる福音書』がその巧みさにあっては一歩突っ込んでいるように思えます。なぜならば、みどり児イエスが成長し、その後そのような経緯をたどって洗礼者ヨハネのもとで救い主としてのあゆみを始めるまでの成長物語が記されています。そのなかでもまことに興味深いのは本日の箇所の物語です。

 ローマ・カトリック教会や東方オーソドックス教会では権威ある「聖家族」として描かれる母マリア・父ヨセフですが、本日の箇所では思いもよらない息子の成長に戸惑う両親の姿が実に写実的に描かれます。貧しいながらも家族は毎年過越祭を祝うためにエルサレムへ旅を繰り返します。おそらくその負担も決して軽くはなかったと思われますが、それでも両親の背中を通してその生きざまはまことに質素な出で立ちながらも伝わるところはあったでしょう。

 ところで本日の箇所では人の子イエスの12歳を迎えた過越の祭の旅路が描かれます。今の時代の12歳と『新約聖書』の時代の12歳では時の密度が異なり、おそらく現在の少年よりは成熟していたのではないでしょうか。両親もおそらくはこの旅が家族最後の旅路であろうと考えたかも知れません。しかし事件は祭の期間が終ってから起きます。「少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった」その記事。マリアとヨセフはあろうことか息子イエスをエルサレムに置いてきてしまいました。単にマリアとヨセフがイエスを置き去りにしたとは考えられません。おそらくはそれまでの旅のパターンでは少年イエスもまた両親についてきたことでしょうが、この年になって両親が予想もしなかった行動に少年イエスは出てまいります。マリアとヨセフは一日そのままイエスがついてくるものだと思い込み、そのままナザレへと道を進んでしまいました。けれども振り返るとそこに息子の姿はありません。そのような具合ですから慌てふためきながら旅を同じくしていた親類や知人の間を捜し回りますが、そこにもおりません。それでは少年イエスは何をしていたのでしょうか。

 それはエルサレムの神殿に留まり、律法学者たちの真ん中で、その時代のユダヤ教の聖書をめぐる対話に熱中していたのです。言葉のやりとりは決して洗練されてはいなかっただろうとはいえ、その指摘に並み居る律法学者たちも目を輝かせて対話を楽しんでいたのではないでしょうか。それではこの三日間、少年イエスはどこで何をしていたのかといえば、その言葉のやりとりに惹かれた律法学者のところで寝食を整えられていたとも言えるでしょう。明らかに少年イエスは両親の保護から自立し始めました。

 この無届けの外泊に母親は当然ながら「なぜこんなことをしてくれたのですか。ご覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」と叱りつけます。しかし興奮した母の言葉に少年イエスは「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。この答えに「両親はイエスの言葉の意味が分からなかった」と福音書の書き手は記します。この箇所で明らかに少年イエスは両親の手から離れ、将来の救い主としての片鱗を見せ始めました。この謎の言葉の後に、少年イエスはともにナザレへと戻り、両親に仕えて暮らしたとあります。マリアとヨセフもまた、息子の自立には首を傾げること多々あったとの物語です。

 この物語を通して、わたしたちは未来を拓く次の世代の若者たちの言動に戸惑うように、いわゆる「聖家族」も首を傾げていたその態度に自らを重ねます。しかしその理解できない立ち振る舞いが、洗礼者ヨハネのもとで始まる救い主としての歩みに繋がってまいります。

 「最近の若い者は」という言葉。これはみなさまもご存じのように、古代エジプトの遺跡の落書きからも、古代メソポタミアの粘土板からも見つけられています。その気持ちは確かによく分かるところではありますが権威ある「聖家族」像とわたしたちの異なるところがあるとすれば、それでもなおマリアとヨセフは息子のイエスを信頼し続けたところに重なるところがあります。たとえ息子が周囲の評判としてユダヤ教の文化圏での「メシア」と呼ばれようとも、逆に「頭がおかしくなった」と囁かれようとも、幾つになってもこどもを信頼しない親はおりません。育児に必死になっている両親の姿を決して侮ることなく、むしろ救い主の成長物語の一幕に加えているところが、わたしたちの胸にも染み入るところです。巷でどのような言葉が溢れようとも、聖家族が息子を信頼したように、次の世代の背中を押してまいりましょう。人の子は神の愛に育まれて成長します。神の愛の光をわたしたちは映し出すのです。

2025年12月26日金曜日

2026年 1月1日(木祝) 元旦礼拝 説教

―2026年元旦礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 
 


説教=「委ねる道を備える神」
稲山聖修牧師

聖書=『出エジプト記』12 章43 ~51 節
(新共同訳 旧約113頁) 

讃美= 21-227,21-471,21-24.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

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【説教要旨】
 太陽暦かつ共通紀元(西暦)では2026年を迎えました。1月6日まではクリスマスですので、仮にみなさまのお家にクリスマスツリーが飾ってあったとしても教会から観ればおかしいところはありません。ただし東アジアには新たな年を大いにお祝いするという習慣があります。日本や韓国では西暦の元旦が特別な意味をもちますし、中国では旧暦の正月が重んじられ日本にも多くの観光客がお見えになります。欧米に比較いたしますと東アジアの場合、近代化の時期が遅れておりますので、それぞれの国の歴史に根ざすところの礼儀作法が時にお互いの交流を勧めもすれば妨げもします。生活習慣の違いに基づく摩擦がお互いの国々の友情を妨げないようにと祈るところです。

 さて2026年の元日の礼拝で開きますのが『出エジプト記』12章43~51節、ユダヤ教徒にはわたしたちには正月以上の意味をもつ「過越の祭」の規定に関する文章です。なぜこの『出エジプト記』を開いたかと申しますと、人の子としてはユダヤ教を背景にして育ったイエス・キリストもまたこの記載を重んじ、弟子たちだけでなく直接には人の子イエスとの出会いを経なかった使徒パウロもまた当然のように重んじたという点で、元旦礼拝に相応しいと考えたからです。もちろんこの過越の祭はわたしたちにとりましてはイエス・キリストを通した神の愛によって、記された様々な制約が廃されまして、すべての民へと罪からの解放、歴史や構造に基づく束縛からの解放が声高くうたわれます。ただし「解放の物語」と申しましてもわたしたちには今ひとつピンと来ないようにも思われるのではないでしょうか。

 『出エジプト記』はアブラハムの神による奴隷解放の物語として知られておりますけれども、よくよく考えるとわたしたちはこの「解放」という言葉を「潔よし」とはしない習わしや文化に縛られています。生徒は学校や受験に縛られ、農家は土地に縛られ、会社員は企業に縛られ、公務員は国や地方自治体に縛られると申します。そのような日々を過ごす中で、働く場所での仕事を尊いものであるどころか神聖化し、それにすがるという性癖をわたしたちは持っています。仮に合理的ではなかろうともそのような組織の習慣や掟について行けない人々は仲間はずれにされる、または「常ならぬ者」として「異常者」として「個性的」の言葉の裏で扱われます。

 しかしイスラエルの民はわたしたちのこのような倣いとは正反対の態度をとります。すなわち、人々にとって大切なのはアブラハムの神の祝福のうちに開かれた道を、信頼に満ちてあゆむことであって、何が何でも一箇所に留まり続けるという態度ではありません。これをイエス・キリストとの関わりのなかで受け取り直すのであれば、まさしくキリストを信頼して、キリストに委ねて祝福された道を行くという理解へと繋がります。そう言えば、飼葉桶のイエスに黄金・乳香・没薬を献げた三人の博士たちも、夢で聞いた「ヘロデのところへ帰るな」との言葉に導かれて、別の道を通って各々の祖国へ帰っていきました。

 今年の干支は馬とされています。家畜化された馬は『聖書』では専ら軍事用に用いられるばかりですが、北米大陸に住む、実際の野生の馬は絶えず居場所を変えてまいります。アフリカのシマウマもまた同じです。同じ神の被造物であるのにも拘わらず、動物に赦されて人間には赦されない態度といえば「逃げる」という姿勢です。とりわけ捕食される側の動物には「逃げ足が速い」とはその特徴だけで捕食者に対する決定的な武器とさえなります。「逃げるは恥だが役に立つ」とはドラマにもありましたが、もともとはハンガリーの諺だとされます。

 『出エジプト記』の過越の祭の規定に記された諸々の規定にある制限をイエス・キリストが自らの内に取り込んでくださり、本来の神の愛に基づくわざである解放の視点に立ちますと、縛られた一方向に基づく考えからも自由にされます。『ヨハネによる福音書』8章32節には「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」とのイエス・キリストの言葉が刻まれます。この新しい年、わたしたちがイエス・キリストにあって逃れの道を見出すのであれば、それは単なる「逃避」に繋がる惨めな道ではなくて、主なる神が示すところの約束の地へと続く道となるに違いありません。立ちはだかる岩があれば、その岩を砕こうと留まるのも道かも知れませんが、急がば回れとばかりに迂回するという道もあります。奴隷解放の神に解き放たれた60万人とも言われるイスラエルの民は、多くの躓きを覚えながらも、二世代を経て「乳と蜜あふれる約束の土地」へと到達します。わたしたちの主イエス・キリストに祝福された2026年の年末の喜びは、すでにこの元旦から始まっています。

2025年 12月28日(日) 礼拝 説教

―降誕節第1主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 
 


説教=「いのちの御言葉われらを見捨てず」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』2 章1~12 節
(新約2頁)

讃美= 21-255,501,21-29.

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【説教要旨】
   2025年も最後の聖日礼拝を迎えました。教会は1月6日までクリスマスを示します。救い主がお生まれになるという知らせを耳にした人々は世の秩序の大転換を予期し、これからどうなるのかと脅える人々もおりました。『マタイによる福音書』ではイエスの誕生を大いに祝福する人々と、不安を覚える人々の姿の違いを鮮やかに描きます。

 本日の箇所ではまず占星術の博士が描かれます。この人々は星の光の動きから世の政の行く末を解き明かす学者と説明すると分かりやすくなりますが、みなさまはこの説明に不自然さを感じはしないでしょうか。実は古代ユダヤ教の誡めによれば「占星術」とはイスラエルの民には固く禁じられていたはずではないか、との問いかけです。確かにユダヤ教では概して神との絶対的な関わりが軸となり、占いは決して奨励されません。しかし事情によれば世の民の行く末を解明する手立てとして受け入れられる場合もあったと申します。そのように考えますと、イエス・キリストの誕生を『旧約聖書』の預言の成就として見なすこの福音書では、占星術の博士による祝福は実に驚くべき出来事であるばかりか、本来なら片隅へと追いやられていた異邦人が救い主の誕生を祝いにきたとの描写により、イエス・キリストの誕生の祝福が古代ユダヤ教の垣根を越えてもたらされ、告げ知らされたとのメッセージへとつながります。

 しかしあくまでも「傍流」からの知らせにより自らの立つ瀬を脅かされるのがローマ帝国の後ろ盾のもとエルサレムの王宮に座していたヘロデ王でした。傍流に立つ、しかも異邦の民から発せられたその問いかけとは「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその方の星を見たので拝みに来たのです」とあります。ヘロデ王はユダヤ人の王ではないとの含みをもち、直接的であるにせよ、間接的であるにせよ、ローマ帝国による支持をとりつけたヘロデ王の立場を根底から覆す言葉を聞かされたのです。さらに言えば、『旧約聖書』に記される預言者の物語を例にとれば、異邦の民から王の権威を否定されたのと同然です。ヘロデ王にとって考えられる事態とは、これから民心が離れていくだろうとの事態です。これはヘロデ王には何としても避けなくてはならない状況です。「ユダヤ人の王が生まれる」。その時を知ったヘロデ王に、さらに追い打ちをかけるのが「民の祭司長や律法学者」、つまりヘロデ王に直接には仕えるのではない祭司長や律法学者からの知らせです。そこには「時」に次ぐ「場所」が記されています。『ミカ書』5章には「エフラタのベツレヘムよ お前はユダの士族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る」とあります。その言葉を福音書の書き手集団は一部改変して民衆に仕える祭司長や律法学者に語らせます。その場所はベツレヘム。『旧約聖書』では「いと小さき者」とされています。つまりその時代で考えれば箸にも棒にもかからないほどの場所だったはずです。しかしそこにメシアが生まれるとの知らせにより「お前はユダの指導者の中で決していちばん小さな者ではない」と改編がされています。しかしそれは同時に、救い主の誕生による世の秩序の転換がすでに始まっているとの兆しでもあります。民心が次第に離れていく危機感。これはローマ帝国の後ろ盾をも失う恐怖をも示しています。この裏づけによって不安に陥ったヘロデ王は嘘をつきます。それは「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」というフェイクです。実際にヘロデ王はベツレヘムで新しいユダヤ人の王を拝んだのではなく、自らの残虐さを剥き出しにします。「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を一人残らず殺させた」。これは歴史にあって繰り返し起きてきたところの、神とは無縁の権力がもつ残虐さを読み手の視野に示し、このような暴力とは全く異なる力で以て世を治める、全く新しいイスラエルの王であり、メシアの誕生を浮き彫りにしています。それでは暴力とはまったく異なる力とは果たして何だと言うのでしょうか。

 それは「言葉」です。より深く申しあげれば「神が語る言葉」です。『創世記』以来、人は神の言葉によって創造され、いのちを吹き込まれました。そして神は道を示すために誡めを人々に授けました。さらに神は人の嘆きを「聞き」ます。サライの息子イサクとの後継者に選ばれなかったハガルとその息子イシュマエルの悩み、そしてイシュマエルの泣き声を聞いたのはアブラハムの神でした。そして本日の箇所でも占星術の博士のいのちの救ったのは神の言葉であり、物語をさかのぼればマリアとの離縁を思いとどまらせたのも神の言葉でした。さらにはエジプトへの脱出を語りかけたのもまた神の言葉でした。そして今。イエス・キリスト自らが神の言葉としてわたしたちに『聖書』を通して語りかけ、わたしたちの言葉にできない悩みや痛みを聞き届けて新しい道を拓いてくださります。嘘偽りの言葉・フェイクを打ち砕く神の言葉に導かれて、わたしたちは新たな年を、キリストの祝福にあふれて進みましょう。

2025年12月21日日曜日

2025年12月24日 (水) クリスマスイヴ燭火礼拝

ークリスマスイヴ燭火礼拝ー

時間:午後6時30分~

 
礼拝当日、午後6時30分より
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2025年12月20日土曜日

2025年 12月21日(日) 礼拝 説教

  ―待降節第4主日礼拝―

―クリスマス礼拝― 

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「マリアの観た世界とは」
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』1 章46~56 節
(新約101 頁)

讃美= 21-260,21-265,21-261,
讃美ファイル3「主の食卓を囲み」,21-29.
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【説教要旨】
   56年前のアドベントにいのちを授かった者が、56年後のアドベントに突如肉親を天に見送る。そのような一週間を経て今朝の箇所を開きますと、そのようないのちの道筋が幾重にも重なるばかりか、その生と死のコントラストが今日よりもより太くより鮮やかであった時代に、娘マリアは天使ガブリエルより突然の祝福を授かります。「おめでとう、恵まれた方、主があなたとともにおられる」。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身籠もって男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい」。マリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と戸惑いながらも対話の終わりには「わたしは主のはしためです。お言葉通りになりますように」と受け入れます。この場面は今日では解明されたつもりになり、解明されるだろうとの憶測が溢れるにも拘わらず、主なる神からヘブライ語では「ネフェシュ」と呼ばれた「いのちの息」のもたらす処女降誕の物語が示す奇跡をはっきりと示しています。ただその一方で、この時代の妊娠と出産という出来事が、文字通り女性にはいのちを賭するわざでもあり、なおかつ生まれ出ずるところのいのちもまた、世に授けられたその時から生死の狭間を行かねばならなかったところを考えますと、この「お言葉通りになりますように」との応答が、いかに静かに語られようとも、常人には狂気じみており、マリアのただならぬ覚悟と決意を示しているようにも思えます。マリアはいずれこのいのちを、産婆の支えもなく世に押し出してまいります。その覚悟とともに献げられた歌が本日の箇所となります。

  「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目をとめてくださったからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者というでしょう。力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の高い者を高く上げ、飢えた人を善い物で観たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに」。

  まさしくこの歌は、イエス・キリストの誕生の果実としてもたらされた世の大転換を物語っています。なぜならこの讃美とは真逆の世界こそ、マリアがみどり児イエスを授かった世のそのもののあり方であり、今もなお続く社会のしくみそのものでもあるからです。確かに人々がこの讃美に立ち返る毎に、世の人々は社会のしくみ、世のありようを見つめ直し、その大変革を主の祝福に応えるなかで繰り返し実現しようと目指す運動を想い起こします。しかし、その出来事が起きるにいたるまでキリストとならぶ塗炭の苦しみをマリアは幾度も味わい続けなくてはなりません。成長した息子イエスは方々でメシアと呼ばれ讃えられます。一方「気が変になった者」と呼ばれるのみならず様々な憎悪の標的にもなります。福音書の世界ではかつての村社会がそうであったように、個人と家族との関係が未分化であり、マリアはイエスの母というその理由だけで様々な嫌がらせを受けたことでしょう。本来ならばその大きな憎しみは世を新たにするためにこそ働くべき原動力となるべきでしたが、その実は少数者や弱者叩きへの情念と化し、その果てには、わが子との逆縁、しかもわが子があまりにも言われなき罪状で極刑に処せられるとの悶え苦しみが待ち受けていました。十字架刑に処せられる人の子イエスの苦しみは、母マリア自らの苦しみでもありました。それは産みの苦しみとは異質の、マリア自らもまた暗闇に投げ込まれるところの、死後の世界ではなく世にある地獄とも呼ぶべき、全く希望のない苦しみでした。

  然るにマリアは、あまりにも無残に殺害されたわが息子が葬られた墓へと、その亡骸を清めるために墓地へと赴いてまいります。母親が味わう残酷さのその頂点でマリアが知らされたのは「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」との輝く衣を着た二人からの言葉でした。わたしたちがイエス・キリストの誕生を祝うとき、死に対するいのちの勝利を祝うとともに、復活のイエス・キリストの姿を飼葉桶のみどり児に重ねます。『ルカによる福音書』に記されたイエスの母マリアの讃美。それはわたしたちが一年に一度は必ず立ち戻る、教会の交わりの原点であり、世界の人々に向けられた喜びの報せの原点です。その出発点で、わたしたちは新しいいのちの喜び、新たにされたいのちのステージを喜び祝うのです。

2025年12月12日金曜日

2025年 12月14日(日) 礼拝 説教

   ―待降節第3主日礼拝―

―アドベント第3主日礼拝― 

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「主イエス・キリストの福音を待ち望む」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』1章1~8節
(新約61頁)

讃美=95. 21‐268(97).21‐29.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
町の趣が次第にクリスマスに染まる中、わたしたちは今一度『新約聖書』が『旧約聖書』とは区別はされるが決して分離できない間柄にある事実を確認します。なるほどホテルでは単体で『新約聖書』が置かれているところもあります。しかしだからと言って『新約聖書』だけを読めばそれでよいとは申しません。あくまでも『旧約聖書』に記された神の愛のわざがイスラエルの民を超えて、習慣も習俗も言葉もすべて異なる民に向けてイエス・キリストに結晶したとの理解に立たなくては、ともすれば『新約聖書』だけを味わっておりますとただの通俗道徳と何ら変わらない理解、つまり世の中の常識を打ち破る神の愛を十全に受けとめるのは困難かと存じます。
 人の子イエスはユダヤ人でした。弟子も同じでした。そしてその教えを民の垣根を越えて広めた使徒パウロもまたもとはと言えばファリサイ派の律法学者でした。そのような具合ですので『新約聖書』が綺麗事に聞こえる人がおりましたら『旧約聖書』をお読みくださいとわたしたちは是非お勧めしたいところです。
 そのような事情を踏まえてわたしはさる人から不思議な言葉を聴きました。それは「わたしは神を信じないが『聖書』を一文字たりとも疑わず信じる」との言葉です。いったいどういうことなのだろうかと長年にわたって考えていたのですが、先日顔を洗っているときに「そうか」と思い至りました。それはわたしたちが通常「神」と口にしている言葉とは、これは日本語のもつ限界でしょうか、「カミガミ」「シモジモ」という人の手に十分に手の届く言葉で理解される言葉に過ぎないとよく分かります。『聖書』に記される神とは根本的に異なります。『聖書』なき神はアブラハムの神ではありません。だから「天皇はカミだ」との声を誤解したところにかつての悲劇がありました。
 洗礼者ヨハネが人々に呼びかけたのは、まさしく『イザヤ書』に記された神でした。それは『旧約聖書』に通底するところの、アブラハムの神・イサクの神・ヤコブの神でした。アブラハムの神は時に天地創造の神として描かれ、そして虐げられた人々の悩みを聴き、エジプトで苦しむ奴隷を解放する神であり、約束を破り続ける罪人を救うべく誰よりも率先され行動する神でした。洗礼者ヨハネは、その時代のローマ帝国の支配のもとで、歪められた神の名を、今一度人々のやり直しを通して伝えようとした人物でした。この役目を担う人々を『旧約聖書』で預言者と呼びます。
 本来は割礼という仕方で男性が神との約束を刻むはずのイスラエルの民に、水による洗礼という性別を超えた関わりの確認という道筋をつけました。後の教会の洗礼と違うところは、この洗礼がイスラエルの民の悔い改めに絞り込まれていたところですが、それでも洗礼者ヨハネのもとに群衆は集い、神の前での生き方のやり直し、すなわち悔い改めに希望を見出そうとしていました。洗礼者ヨハネが身にまとっていたもの、口にしていたものはすべて人の手が介在しない、人がお金でもって品物をやりとりするはるか前から養いとして授かっていたものばかりでした。こうしてイスラエルの男女問わず、等しく救いの約束が呼びかけられましたが、それでも洗礼者ヨハネは自らの至らなさを知っていました。洗礼者ヨハネの叫びはイスラエルの民のみに向けられ、また「悔い改めなければあなたがたは滅びる」との裁きを強調するほか無いのです。だからこそ洗礼者ヨハネは語ります。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けるが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」。つまり、水による洗礼とは一過性のものでしかありませんが、今働く神の愛の力である聖霊によって生き方を変えられた者には、必ずそのあゆみに喜びが伴うと、洗礼者ヨハネはその人物が朧気ながら確信していたのです。
 アドベントも三週目を数えます。わたしたちの身の回りには今なお様々なカミガミが満ちています。それは日本神話や物語として描かれる神々と言うより、人の可能性を阻んだり、人の不安を煽ったり、組織のなかで弱さを抱えた人々をはじき出そうとする情念です。神の愛とはそのような情念とは根本的に異なります。だからわたしはハッピーホリデイという挨拶よりは、メリークリスマスという挨拶に強く惹かれます。それは寒さに佇む人々の希望のともしびとなり、貧しさに喘ぐ人々への支援を上から目線のものではなく当たり前のものとし、すべての人々が弱さを恥とせず、他者を蹴落とす争いから解き放たれ、慈しみ続けるというイエス・キリストの福音を十全に証ししているからです。メリークリスマス。神を畏れぬ権力者にはその挨拶は不安をもたらしますが、家畜小屋で赤ん坊を産み落とすほか無かった貧しい夫婦にはまさしく喜びの報せとして響きました。イエス・キリストの喜びを待ち望む。それはすべての愛と平和をつつんで余りある、希望に満ちた『聖書』の核となる神の呼び声なのです。


 

2025年12月6日土曜日

2025年 12月7日(日) 礼拝 説教

―待降節第2主日礼拝―

―アドベント第2主日礼拝― 

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  


説教=「みどり子はキリストとして生まれた」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』7 章6~9節
(新約74頁)

讃美=96.21‐229(Ⅱ.96).21‐29.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は、今回は1種類です。
説教動画は諸事情により、休止いたします。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
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方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 西暦、現在では共通紀元と呼ぶ暦とはグレゴリオ暦と申します。イエス・キリストの誕生をもともとは基準としていて定められ、その区分けの呼び方は原則、BC(英語でキリスト以前)、AD(ラテン語で「主の年」)とされます。キリストの降誕以前とキリスト降誕以降の時代として6世紀以降用いられている暦です。キリストの誕生を人類史に組み込んだ暦ではありますが、『聖書』でもキリスト以前の時代を示す『旧約聖書』の世界と『新約聖書』の世界として分たれるのは興味深いところです。
しかしだからといって、人のあり方に大きな変化が生じたかと申しますと、わたしたちは複雑な気持ちを覚えます。イエス・キリスト降誕以降の時代にあっても、イエス・キリストの名前を自己正当化に用いたり、権力による支配の正当化に用いたりという振る舞いは愚かな振る舞いは変わりありません。また『新約聖書』とりわけ福音書で人の子イエスが向きあう世もまた、人の子イエスに挑みかかるような人々に溢れています。そうなりますと、わたしたちは「イエス・キリストの誕生が何を変えたのか」「人の世はどう変わったのか」という問いかけを無視するわけにはまいりません。時代の経過にしたがって人類の起こす殺戮はより大規模なものとなりましたし、環境破壊と呼ばれる事態、なかんずく人類が滅亡させた動植物の種も数知れません。いったいわたしたちはイエス・キリストの誕生により何を突きつけられているというのでしょうか。
本日の『聖書』の箇所である『マルコによる福音書』7章では次のような物語が記されます。人の子イエスと同じように預言者の言葉を受け入れ、復活の教えに立って人々を導いていた律法学者、則ちその時代のユダヤ教の聖書学者が、エルサレムからガリラヤ湖のほとりであるゲネサレト地方にやってまいります。そしてイエスの弟子の中に洗わない手で食事をする者を見つけます。物語には次のような説明が付け加えられます。「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」。このような前置きがあって本日の箇所にいたります。衛生観念とした場合、わたしたちはむしろこの「言い伝え」としての戒めは決して悪くないと受け入れがちですが、なぜ人の子イエスはこの発言を批判するのでしょうか。
注目するところは、この時代の人々にとっての「水」が、わたしたちの暮らす地域での水とは全く異なる価値をもっていたところにあります。水が生存には不可欠な資源であるところには代りはありませんが、その水を「身体を清める」ために使用できる人々の数は実は限られていました。『旧約聖書』でも水をめぐる争いが『出エジプト記』には記されますが、まず人々のいのちに関わる事柄とは、その水で渇きを癒すという営みです。つまり水でもって手足を十分に洗い清められる人々は、社会的地位に恵まれ、その水を運搬する労働者を用いていたこととなります。豊かな人間は奴隷を用いてその水を運ばせていたかもしれません。ファリサイ派の人々には水を清めに用いるわざは、『律法』以上の意味として、その水を生活用水として用いられるところにさえ、自らの優位を確かめていたところにありました。清潔さとは特権と成り果てました。だからこそ人の子イエスは辛辣な言葉を投げかけたのではないでしょうか。
 飲料水を清潔に保てないところから疫病が流行し、多くのこどもたちがいのちを失っていった地域にアフガニスタンをあげることができます。あのタリバンでさえできなかったことを中村哲医師はジャララバードという土地で自分のいのちと引き換えに成し遂げました。一方、わたしたちが不衛生な身なりのまま涙を流しながら路地を走るこどもと出会ってしまったら、何をするというのでしょうか。キリスト以前の世であれば、わたしたちはそのようなこどもの姿を「見なかったことにする」という選択肢も持てます。しかし今のわたしたちには、各々の生涯にあってイエス・キリストと出会ってしまったのです。そのなかで先ほどのこどもと出会うならば、思わず抱きしめ、相応の行政の窓口、あるいは何らかの手立てはないものかと対応を尋ね求めることでしょう。今もまた、弱者に対する排除と憎しみ、「ウィークネス・フォビア」がいたるところで跳梁跋扈する時代となりました。そのような世にあって、イエス・キリストが弱さの究極の姿であるみどり児の姿をまとって世に生まれた出来事ほど尊いものはないと確信します。未だにキリスト以前の体裁である時代にあって、みどり児イエスの姿を待ち望む者として、弱さを尊び受け入れるあり方を選びたいと願います。

2025年11月28日金曜日

2025年 11月30日(日) 礼拝 説教

   ―待降節第1主日礼拝―

―アドベント第1主日礼拝― 

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「目を覚ましていなさい」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』13 章32~37 節
(新約90頁)

讃美=94. 21‐561(420).  21‐26.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

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方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 「あなたはなぜ神様を信じるようになったのか」との問いは、洗礼を授かりキリスト者となったと公に言い表す場面と不可分に受けとめられがちです。しかし相応の齢になりますと、そのあり方に到達し、さらにはそのあり方に始まる道筋が実に多様であり語り尽くせぬように思えてきます。そのような理由からわたしは「『聖書』に書いてあるから」としか答えようがないと考えています。それでは福音書の世界ではどのような具合であったかと申しますと、何度も繰り返し申している通り、その場には今日『新約聖書』と呼ぶ書物はございません。その代わり人々は現代では『旧約聖書』と呼ばれる書物を大切にしながら、救い主の誕生を待ち望み、その救い主がイエス・キリストであるとの確信に立ち、その教えと行いを伝え広めてまいりました。そのわざは今日もまた続いています。

 しかしかつての教会のあり方として特に際立つのは、世の終わりが近いとの切迫感が今日のわたしたちのあり方と較べてまことに強かったところにあります。例えば水曜日に行なった祈祷会では『イザヤ書』13章をともに味わいました。そのなかではとりわけユダヤ人とは異なる、バビロニア王国による審判が描かれ、そこには「身よ、主の日が来る。残忍な、怒りと憤りの日が。大地を荒廃させ、そこから罪人を絶つために」という、世に破滅をもたらす終末の一面について記されます。エルサレムの滅亡とともに囚われの身になったユダヤの民がふるいに掛けられ、神に逆らった罪人は滅ぼされるとも記されます。しかし囚われの身、すなわち捕囚の時代が長く続くなか、その後大きな石の下敷きになるようにユダヤの民には入れ替わり立ち替わり交代する支配者のもとで、必ずしも「世の終わり」が世の破滅ではなく、支配する側・される側を超えた神の愛による統治をもたらす救い主が現れるとの待望に熟成されていきます。数世代にわたる異なる民との接触と交わりに基づいて、ユダヤの民だけが救われるのではなく、すべての民が神の愛により苦しみの縄目から解放されるのだとの理解も生まれ、その理解が成熟してまいります。だからこそ『マルコによる福音書』13章でも次のように記される事情が整うのです。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そいうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」。『旧約聖書』では世の終わりの徴とさえ理解された戦争や自然災害や飢饉。これに対してイエス・キリストの教えには「起こるに決まっている」もの、つまり戦争・自然災害・飢饉に神の意志が隠されているのだとする理解からは距離を置くメッセージが秘められています。それよりももっと肝腎な事柄があると人の子イエスは語ります。それは「福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」との教えです。

 それでは神の愛による統治でもある世の終わり、立ち入って言えば世の支配や苦しみの終わりとはいつ訪れるのでしょうか。この問いに答える箇所こそが本日の福音書の言葉です。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じだけである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである」。イエス・キリストが人の子イエスとして語った教えには、終末の訪れについては具体的には語られていません。それはわたしたちに神の愛の証しとしての宣教が委ねられているからに他なりません。語られてはいないからこそ、神の愛を証しし、その教えを伝える役目を授けられているのです。いったいその時代の誰が、救い主は飼葉桶にお生まれになると予想し得たでしょうか。クリスマスの出来事が起きるときでさえ、世の権力を振るっていたヘロデ王にも、そのはるか上に立つローマ皇帝にも、救い主がどこに生まれるのかは隠されていたのです。

 だからこそわたしたちは、世に祝われる祝祭としてのクリスマスのなかに、イエス・キリストはどこにおられるのかと問い尋ねてみたいと願います。無抵抗で弱い、世には無力ないのちがあればこそ、理想からかけ離れたぼろぼろの姿になればこそ、救い主を待ち望むため「神の言葉」としての『聖書』に触れましょう。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」と『マタイによる福音書』7章にはあります。簡易な人工知能での説明は「積極的に行動することで、求めが満たされたり、困難が開かれたりすることを説く言葉」だとあります。しかし本来はそのような処世の枠には留まらないのが福音です。それは人に限らずすべての生きとし生けるものに関わり、かつすでに天に召された方々の遺した歴史、さらにはその方々が指し示すわたしたちの行くべき道に関わる「神の重大案件」を包むのです。人生の意味などないとふてくされる暇はありません。すべては虚しいと立ち尽くす暇もありません。虚しさを満たして溢れる喜びがすぐ近くに宿されています。待降節のともしびを、ともに仰ぎましょう。

2025年11月20日木曜日

2025年 11月23日(日) 礼拝 説教

―降誕前第5主日礼拝―

―収穫感謝日・謝恩日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「刈り入れを分かちあい、ともに喜ぶ」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』10 章17~22節
(新約81頁)

讃美=503.21‐566.21‐26.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
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【説教要旨】
 「はたらけどはたらけど なおわがくらし楽にならざるなり ぢっと手を見る」。明治時代、石川啄木が絶望の淵で詠んだ短歌。歌集『一握の砂』に納められています。本名石川一(はじめ)。1886年2月20日、岩手県盛岡市に曹洞宗の僧侶の息子として生まれた啄木は、結核により東京文京区小石川で26歳にて没するまで生来の虚弱体質と困窮のなか多くの歌を世にもたらしました。その中でもこの歌は19の言語に翻訳されています。
 啄木の詠んだ歌がこれほどまでに共感を生むのは、この「ぢっと手を見る」との言葉。なぜなら「手」には人の人生が凝縮され表わされているからではないでしょうか。
 例えばこの寒さの中水洗いをした母親の手。肉体労働に従事する人のもつ指にたこのできた分厚い手。鋤や鍬をもって田畑を耕す人の手。漁師のゴツゴツした手。今の時代にはそのような手の人は少なくなったとお考えでしょうが、熊の出没ニュースとともに知らされるのは、老いた農夫だけでなく若者もまた酪農や農業に回帰しつつあるなかで見せるその手です。
 また一年の間でごく数日しか休むことの出来ない飲食店勤務の主人や従業員の火傷とあかぎれのある手。手からはその人となりが分かるというものです。
無名の人々が連れてきたこどもたちを祝福した後、人の子イエスはとある人物に出会います。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。この人物に向けてイエスは「『殺すな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟、すなわち十戒をあなたは知っているはずだ」と語りかけます。ムキになって「先生、そういうことはみな、こどもの時から守ってきました」と答えるこの人。人の子イエスはこの人を見つめつつ慈しみながら「あなたに欠けているものが一つある。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。その人は言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである、と結ばれます。
この人の手にはいったい何が刻まれていたというのでしょうか。人生の年輪でしょうか。長年にわたって机に向かった結果授かったペンだこでしょうか。インク滓にまみれた爪でしょうか。本当は何もなかったのかもしれません。
それは走り寄って人の子イエスにひざまずくという態度、そして「たくさんの財産を持っていた」との解説に示されます。古代社会の富裕層は労働を身近なところから遠ざけようとしていました。労働とは奴隷階級または身分の低い人々が従事するのであって、イエス・キリストと哲学的な対話に興じようとする人には縁遠いわざでした。
この金持ちの男と出会う前、人の子イエスは無名の人々が連れてきたこどもたちを一人ひとり抱きあげて祝福されました。どのような匂いがしたことでしょう。わたしたちにはおそらく直ちに「お風呂に入りなさい」という他ない体臭であったと思います。けれどもそのようなこどもたちをイエス・キリストは「神の国はこのような者たちのもの」だと断言します。金持ちの男の人生には選択肢があります。しかしこどもたちには人生の選択肢はありません。
「あなたに欠けているものが一つある。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい」。それは単なる施しや「天に宝を積む」との意味ばかりを示しているのではありません。それはこの富める人物がイエス・キリスト自らが祝福した人々と交わりを深めるようにとの促しの言葉です。その言葉を行いに映し出すわざは、そのままイエス・キリストに従う道を示しています。だが悲しいかなこの富裕層の人物がこの言葉の真意を知るには今少しの時が必要でした。それは、イエス・キリストの十字架の報せにより、富への執着から解放される時です。キリストに「売り払いなさい」と言われてこの人は初めていかに多くのものを享受してきたのかを知ったのでしょう。
本日は収穫感謝日礼拝です。秋の実りを主なる神に深い感謝を込めて献げる礼拝を執り行っています。肥料も電力も燃料も労働者も少なくなっている中、物価高の中で収穫された尊い実りです。時によっては金銭よりも重要になる実りです。イエス・キリストが仲立ちをしてくださり始めてわたしたちはこの恵みを授かります。
主なる神に祝福されたこの実りが神の愛に満ちた交わりにあって用いられるようにと祈ります。そして何よりも泉北ニュータウン教会の伝道の働きが、神を忘れた、神を知らない公権力の流す情報、役所や政府の流すガバメントスピーチに挫かれることなく、釜ヶ崎を始めとした住まいを失った人々との交わりの象徴としても用いられるように祈ります。わたしたちの手は、果たして何を語るのでしょうか。手を合わせて祈りを献げてまいりたいと願います。

2025年11月14日金曜日

2025年 11月16日(日) 礼拝 説教

―降誕前第6主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「とりこし苦労からの解放」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』13 章5~13節
(新約88頁)

讃美=Ⅱ80.21‐474.21‐26.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

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【説教要旨】
 「わたしの時代はこうだった」「わたしはこれだけやってきた」。誰でも人は経験則に則して常識を考えがちですが、そのような言葉がいつの間にかよかれと思って相手を傷つける「マウンティング」にしかならない場合があります。「マウンティング」とは本来ならば動物行動学で使われる言葉で、ある群れで自分が相手よりも優れている意志を示しながらも争いを避けるために編み出された本能に根ざす行為であると言われます。一般にこのマウンティングが溢れる場所は次第に新しい人が遠ざかり、孤立した集落から限界集落へと転じると言われます。しかしマウントをとる側の気持ちも分からないわけでもありません。明らかに時代の流れが変わっているのにも拘わらずどうすれば分からない場合、相手に自ら背負ってきた常識を超えて何かを伝えるのは至難のわざです。卑屈にならず、相手に媚びずに会話や立ち振る舞いの周波数を合わせたり理解を示したりする場合、相当な工夫や努力を必要とします。

 神の国の訪れ。神の愛による世の揺るぎない統治。これを『聖書』は夢物語や死後の世界の話としてではなく、「神自らが約束した、世にあってすでに訪れてはいるものの、まだ始まったばかりの時と場所を問わない救いの訪れ」として書き記します。しかしこの時代のユダヤの民の理解では、ローマ帝国の支配への抵抗意識から、それまでの社会秩序が崩壊し、自分たちだけが神の栄光を授かるとの考えに走る者もおりました。また歪んだ選民思想がその考えに入り込むとの問題もありました。言ってみれば神の救いを前にしての異邦の民に対するマウンティングです。人の子イエスの弟子たちもまたこのような勇み足を踏んでいたと考えます。

 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」。イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」。すべての経験則を破壊された人々は必ず新しい権威や拠り所を求めて混乱状態に陥り、次から次へと現れる偽の救い主に惑わされるだろうとの話です。畿内の県知事選挙に関してSNSを用い悪質なデマを流していた一部の人にはカリスマ的な人物が先日逮捕されましたが、その人物への支持者に共通するのは「ウィークネスフォビア」「弱者への憎しみ」という点です。日本社会でいうところの「同調圧力」だと言えるかもしれませんが異なるのは少数者や弱者、異質な者に対するバッシングを通して自分はそうではないとの陶酔に酔ったり荒唐無稽な証明を試みたりするところにあります。しかしイエス・キリストは自らがそのような激しいバッシングの相手となり苦しみを受けられました。「人に惑わされるな」との声は今も響きます。

 「戦争の騒ぎやうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである」。この箇所に人の子イエスの冷静かつ現実的な視点を窺えます。「そういうことは起こるに決まっている。まだ世の終わりではない」。そしてこの混乱に「産みの苦しみ」という意味づけをします。女性の出産の苦しみを重ねます。つまり神の国を前に新しい時代が始まるときにはこのような混乱は起こるに決まっているというのです。「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる」。今朝の福音書は人の子イエスの十字架と復活の出来事から40年を経て成立したと言われます。書き手集団が見つめてきたのはその次の世代と自分たちの世代、つまり「使徒の時代」の人々が味わった苦難です。なぜこのような苦難を味わうのでしょうか。気づけば皇帝も含めて人に惑わされない少数者となっていたからではないでしょうか。しかしそれでも神の愛による統治は全うされません。

 その理由とは「すべての民にイエス・キリストの喜びの報せ」が宣べ伝えられてはいないからです。様々な苦難を経てなおわたしたちは主イエスにあるところの喜びを語り、証しできます。12節にある阿鼻叫喚の世界も、もはや現実に起きている事案です。また、混乱の姿を呈してはいないというただそれだけの理由で憎しみの対象となるのも「人に惑わされてはいない」あり方の裏返しとして十分にあり得ます。「しかし最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。様々な世の混乱にあって動じなかった人々は、譬えその身が滅ぼされようとも救われるとあります。10年の間、告別式の折に体験してきたのは他でもない、まさにこの厳粛な出来事です。1945年4月にフロッセンビュルク強制収容所で殺害されたD.ボンヘッファーは不当な処刑の際に及んで次のように語りました。“It is the end, for me the beginning of Life.” 先々の不安に苦しむよりも、いつも人生は素晴しいと語り、互いに祈りあう者になりたいと願います。

2025年11月7日金曜日

2025年 11月9日(日) 礼拝 説教

   ―幼児祝福式礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「神のこどもたちに気づかされて」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』12 章18~27節
(新約86頁)

讃美=467.461.21‐26.
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【説教要旨】
 「係累に縛られる」または「係累を絶つ」との言葉があります。土地や親戚・親族との関わりの中で曰く言いがたい困難を抱えた人が、家を捨てて、または故郷を捨てて都会に出て仕事に就きます。暫く家族への仕送りを続けたものの、そのつながりを絶ったほうが生きやすさを感じた人々もいました。都会に出れば氏素性を問われず、実力で職場や社会で認めてもらえる、または認めてもらいたいとの願いから家族から疎遠になっていったその果てに、生死も含めて孤独にまつわる課題が問われます。家族を失うとはどういうことなのか。孤独死だけでなく孤独に由来するさまざまな疾病、アルコール中毒や薬物流布の温床となります。そして当の本人は何をどうすればよいのか知識を得られずに衰弱してまいります。日本の都市設計は決してすべての年齢や世代の人々には開かれてはおりません。あくまでも消費の源となる人々に絞り込まれてまいります。

 もちろん福音書の世界には現代の消費社会を可能とするような人口も経済構造もありません。けれども『旧約聖書』成立の時代から一貫して流れていたのは「神の祝福」とは「子を多く授かるか」に懸かっていたという、男女の社会的役割が頑なに固定されていたという状況でした。もしも現代で伴侶の同意なく多くの出産がなされたという場合、状況によればそれは夫から伴侶に対する家庭内暴力だと解釈されます。そのような深刻な状況を、ただ人の子イエスを陥れるための詭弁として用いるところにサドカイ派の人々の大きな過ちがあります。こどもを授かれなかった家庭、なかんずく当時の女性が被った社会での偏見はわたしたちの想像を絶するところがあったことでしょう。そして譬え多くの出産を経験したところで女性の被る身体へのダメージを充分に癒すところもなく、授かったこどもたちのもつすべての特性が社会で許容されていたわけでもありません。そのような受け皿を失った社会の無責任さを放置したまま、本日の箇所で祭司職に属するサドカイ派の人々は相続の話を通して人の子イエスを試みます。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎを設けねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にはその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女は誰の妻になるのでしょうか」。確かにこのような品のない議論を吹っかけてきたサドカイ派には酌量の余地があります。それはサドカイ派の拠り所となる『聖書』のテキストとは『律法』のみであり、そこには死者の復活の出来事がそのものとしては記されてはいません。各々の物語は登場人物が世にある生を全うし墓に葬られ節目を迎えます。しかしだからと言って、家族や人間の生死に関わる問題を軽々に扱ってよいとの話にはならないのです。

 この態度に対してイエス・キリストは次のように答えます。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の箇所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者ではなく、生きている者の神なのだ」。アブラハムが埋葬されて数百年の後とされる『出エジプト記』の物語で、なおも神はアブラハムの神であり続けています。アブラハム自ら「大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数え切れないであろう」との約束にも拘わらず授かったのはイサクとイシュマエル、それもイシュマエルは追放の憂き目に遭っています。さらに人の子イエスは父ヨセフとの血の繋がりはありません。係累からは外れているとの見方もできます。しかしアブラハムの神はモーセには奴隷解放の神として、わたしたちには救い主イエス・キリストを遣わした愛の神として今なお現臨されておられます。その意味でアブラハムもイサクもヤコブも弔いを経ながらも弔いを超えています。『聖書』を土台とした復活の出来事への理解はこのような面からも可能なのです。

 DVなどの事情なしに家族を自らの足枷としてのみ考える人がいるならば、今一度その足枷が、行く道を違わないためのキリストに課せられた軛として受けとめる必要があります。松本清張の小説『砂の器』のような、自らの夢の実現のために家族を犠牲にしたところで何も得られません。わたしたちの目の前には何よりの宝である幼子が神の祝福を授かるために招かれました。この場を覚えて祈る方々すべてにとって、この子たちは何よりの希望、何よりの喜びです。22世紀にいたる生涯を歩むお子さんらに、そしてご家族に、主のますますの祝福を祈ります。

2025年10月31日金曜日

2025年 11月2日(日) 礼拝 説教

    ―永眠者記念礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「死はいのちへの転換点」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』7 章14~23
(新約74頁)

讃美=520.519.21‐26.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
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【説教要旨】
 足かけ15年続いたアジア・太平洋戦争に破れ80年が経ちました。和暦で数えれば今年は昭和100年となります。みなさまのお手元には112名にわたるところの天に召された兄弟姉妹のお名前が記されています。このなかには戦時中に天に召された方々、戦中・戦後の混乱期を生き抜かれて生涯を全うされた方々、高度経済成長期に生まれ、懐古すれば社会が前向きに発展していたと思われる時代に生を授かりながら、社会矛盾や家族間で葛藤を覚えつつ天に召された方々、さまざまな激務に追われるなかで、心ならずも生涯を全うせずにはおれなかった方々の名が記されています。然るに泉北ニュータウン教会の礼拝では、とある教会員の生きざまを経て、礼拝を締めくくり世に派遣される折に献げられる祝福と派遣の言葉に「あなたのみもとに召された兄弟姉妹のうえに」との一節を添えるにいたりました。これにより毎週の聖日礼拝には世にあるわたしたちだけではなく、主のみもとに召された兄弟姉妹もともに礼拝を献げているとの確信をより一層深く分かちあうようになりました。

 在来の仏教では初七日、四十九日、一周忌、三回忌、さらに三十三回忌~五十回忌の弔いあげと節目をつけて法事が営まれます。おそらくはこのリズムで故人を見送ったご遺族・近親者の方々のグリーフワーク、ご心痛の緩和ケアーも兼ねてのわざとして行われるのかもしれませんが、場合によれば召された方々を在来仏教で言う浄土や涅槃、別の言い方をすれば記憶から遠ざける作業のようにも思えます。辛いことも悲しいことも水に流すという言葉が時に癒しとして意味づけられていく文化。なぜそのような倣いが求められるのかと問えば、一重に死の意味づけが「汚れ」とされるからだと思うのです。葬儀用のホールに行けば、エレベーターの扉のわきには必ず清め塩が備えられています。塩を身体に撒いてもらい、気分を切り換えようとする姿勢を、わたしたちの社会は暗黙のうちに求めます。その果てには墓石を積み上げた、痛ましい「墓終しまいの姿」があります。

 しかしながら「もうくよくよするのはやめよう。昔のことだからいろいろ言っても仕方が無い」との道筋で大切な方々の記憶を封じてしまうのは実にもったいなく感じます。教会では少なくとも週に一度は必ず礼拝を献げます。かつて新型コロナ禍の最中にあっても様々な工夫を凝らしてこの礼拝を続けようとわたしたちは苦闘いたしました。それは何よりもわたしたちにはある人が天に召された事実とは、決して忘れてはいけないかけがえのない歴史であり、一人ひとりが紡いできたいのちのバトンのリレーに他ならないからです。結婚式も告別式も、主なる神を讃える礼拝には変わりません。
本日の『聖書』の箇所で「外からわたしたちの体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すものである」とイエス・キリストは語ります。人の中から出て来るものとは何か。それは「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別」とあります。わたしたちの暮らしと時に不可分であるところのこれらこそ、イエス・キリストが汚れとする事柄です。

 翻って考えれば、天に召された方々は、その道筋には数あれども、主のもとでとこしえの平安を得ているところにはそのような汚れはありません。福音書に記された「死後の世界」とは、古代ギリシアの考えとともに持ち込まれたものであって、人の子イエスもその教えを身に刻んでいた『旧約聖書』の世界では、さしたるものとしては考えられてはおりませんでした。むしろ人々はわたしたちの暮らしと同じようにさまざまな過ちを犯し、苦悩しながら齢を重ねて新しいライフステージを迎えるように、死もまた荘厳な新たな人生の始まりとしての意味づけがなされます。なぜでしょうか。そこには復活という死を限界づける新しいいのちの始まりが神の愛による確信のもとで書き記されているからです。「死は終わりではない」。世にある責任を果たしながら、その光のなかで、わたしたちは死を恐れながらも絶望には足りないと確信します。そしてその確信のなかでわたしたちは互いに助け合いながら、今わたしたちの目の前にあるところの肖像をイエス・キリストの十字架に重ねて、輝くいのちの希望を授かりたく願います。天に召された方々は、崇拝の対象にこそなりませんが、お一人おひとりが主の御使いとしてわたしたちの傍らに立っています。わたしたちの胸に刻まれたその生涯の刻印は決して消え去りはいたしません。だからこそわたしたちは、イエス・キリストを通して、召された方々が切り拓かれた道から、またそのお姿から、励ましの力をいただいて、新しい一週間を始めることができるのです。世にある交わりと、主なる神のもとにある交わりとは、イエス・キリストを通していつまでも堅く結ばれています。

2025年10月25日土曜日

2025年 10月26日(日) 礼拝 説教

  ―降誕前第9主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「出会いは神こそがなせるわざ」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』10 章2~12 節
(新約81頁)

讃美= 187.Ⅱ-167.21-27.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

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方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。教会での結婚式のクライマックスである、新郎新婦が神の前で立てる約束。日本基督教団では本日の箇所から引用した聖句を式文として用いています。この箇所だけ切り取りますとまことに荘厳な響きのする一方で、実際の生活に酷く傷つけられた方々には胸傷む場合もあるに違いありません。

 しかし福音書のみならず『聖書』の記事を味わう上で要となりますのは、書かれた文章であるテキストだけでなく、文章としては必ずしも記されていないところの文脈です。この文脈とは物語上に限らず、その時代の生活文脈といったその時代の暮らしに迫るなかで明らかになります。

 そう考えますと「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」という誓いの言葉が、ただならぬ緊張感とともに発せられたところに気がつきます。現代のわたしたちの暮らしとは異なり、福音書の重要な舞台となる古代ユダヤ教の世界では、現代の原理主義的なキリスト教やユダヤ教、イスラーム以上に女性は社会的にはその人格を認められていませんでした。なぜ現代の、と申しますと、現代では男女関における不平等というものは必ずジャーナリズムにより批判の俎上にあげられますが、この社会ではかような問題を俯瞰し、その是非を問うこと自体が社会のしくみを脅かすわざとして退けられていたからです。例えば律法学者たちによる裁判に際しては、女性はその発言を証言として重んじられはいたしませんでした。また『創世記』におけるところの族長物語が引用されながら、男性が女性に対してなかなか子を授からないからという理由で三行半をつけることもまた一定の常識の範囲に収まっていました。様々な病気に罹患したときにでさえ、他の口実によって突き放されるのも茶飯事です。なぜならば治癒できない病に罹患するのは、その人自らの「不信仰」または神に対する「不誠実」によると説明されたからです。女性が男性を見限るのは不正であっても、男性が女性を見捨てるのは認められていたという大きな問題がそうとはされないままに放置されていました。

 そのような見捨てられた女性たちを「やもめ」と呼ぶのであれば、イエス・キリストはまさにやもめたちと語らい、その痛みを癒し、謙ってその声に耳を傾けていました。当然それはその時代常識に反します。このような次第ですので常識の柱となる律法学者には目の上のたんこぶとなります。「夫が妻を離縁することは律法に適っているのか」という質問は人の子イエスの態度に向けた直接的な攻撃として今や向けられます。「モーセはあなたたちに何と命じたのか」問う人の子イエスに対する答えは「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」。確かに『申命記』24章には「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見出し気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」とあります。しかしこれは一方的な離婚を認めるというよりは、当時の夫による一方的な離縁にあたって妻が再婚権を失う問題を解決するため、女性に再婚の権利を保障するという意味合いもありました。「目には目、歯には歯」という同害復讐法が実は行き過ぎた刑罰を抑止するための法律であるにも拘わらず、復讐を正当化する解釈へと変容していったように、人の子イエスの時代にはこのような歪んだ解釈がまかり通っていたといえるでしょう。

 そのような律法学者に対して人のイエスは「天地創造物語」を引き合いに出します。つまり当時の時系列としてはモーセの登場よりもはるかに前「神は人を男と女とにお造りになった」「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」と語ります。男性も女性もヘブライ語では「アダム」であり、家族のミニマムな単位は血縁のないパートナーとしての夫婦だというのです。だから11節では女性も男性もともに神の前で責任を担うこととなります。

 教会で行われる結婚式の誓いは、離縁についての教えから生まれたこと、則ち身を切り裂くような、うち捨てられた女性の悲しみをイエス・キリストが真正面から受けとめたところから始まります。現在、一人親世帯の経済的な困窮には、高度経済成長期以降、かつてないほどの苦難があります。それは律法学者による詭弁の素材とするにはあまりにも酷であります。しかし様々な痛みや迷いを経て、人はまた新たな出会いを授かってまいります。その出会いを神自らの光に照らして、イエス・キリストの導きに気づかされるとき、わたしたちは深い痛みの中で結ばれた絆を授けられるのではないでしょうか。その絆は何に基を置くのか。それが今問われています。

2025年10月15日水曜日

2025年 10月19日(日) 特別伝道礼拝 説教

―聖霊降臨節第20主日礼拝―

――特別伝道礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「死からいのちへ」
高木総平牧師

聖書=
『マルコによる福音書』4 章35 節
(新約68 頁)
『ヨハネの手紙Ⅰ』3 章14 節
(新約444 頁)

讃美= 21-57.21-575.21-27.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は、今回は「ライブ中継」
のみとなります。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 盟友、渡辺君が牧した教会でこうして奉仕できますことをうれしく思います。
 まずマルコの「向こう岸に渡ろう」との呼びかけは、私たち一人一人への呼びかけ、教会への呼びかけとして受け止めたいと思います。ではなぜイエスはお命じになったのでしょうか。向こう岸に苦しんでいる人たちがいたからです。この人は墓場を住まいとしていました。墓場に住むというのは、生きながら死んだ人のように扱われていたと言えるのです。
かつて友人がフィリピンの教会に宣教師として派遣されたこともあり、最初は教会の青年や牧師たちに呼びかけて、学校に行ってからは生徒や学生、教員に呼びかけて何度もスタディツアーを行いました。ある時、フィリピン合同教会の礼拝に出た後、長老さんたちが支援をしている家族のところへ一緒に行こうということで出かけました。そこはお墓の中にあるスラムの一軒でした。このマルコの記事と同じ世界です。このお墓以外にもスラムに住まざるを得ない貧しい人たちが多くいます。生徒や学生にはよく言いました。決してその環境に屈しているのではなく、いのちのために戦っている人も忘れてはならないと。九州教区ではそれまでの欧米志向を反省しアジアに目を向けようということで始まりました。ここでいう向こう岸でありました。その中で生き生きと目が輝いている子どもたちから大切なものを教えられました。
 また同時に臨床心理士として子どもや青年、時に大人の苦しみ、悩みにかかわることからも、豊かさや便利さを追求してきたこの社会の病める部分を強く感じるようになりました。そのような価値観の中で、この言葉でいうといろいろな「向こう岸」を作ってきたのではないかと思います。特にマイナスと思えることです。死や老い、病気や障害、特に悩むこと苦しむこと、失敗することなどです。宗教も多くの人にとってそうかもしれません。不登校生の高校生が「うちには宗教がない」と叫んだそうです。今のこの社会への大きな問いです。またこの日本の子どもたちの自尊感が他の国々より低いという調査もあります。
 自殺ということではどうでしょうか。私は自死と言った方がいいと思います。この国は先進国の中では自殺者が多いのです。特に気になるのが19歳以下の自殺者の多さには心が痛みます。人は追い込まれたり、いろいろ不幸なことが重なると死を考えるものです。その根底にはこの私など価値がないのだという思いがあることも考えられます。
 マイナスと思える苦難の極致である十字架の向こうに大きな救いがあるということがキリスト教の根本です。この社会は死を避ける文化だと恩師は言いました。少しは変わりつつありますが、まだまだです。死は決して決して暗い恐ろしいものではない、これが十字架の死から復活へと進まれたイエスが明確に強く示してくださったのです。死者も私たちも大きな御手の中にあります。天に帰った渡辺君は今も語り続けています。
 そのいのちを創りだされた神が、いのちに生きることを望んでおられる。それはマイナスと思えること、失敗すること、悩み苦しむこと、病むこと、障がいを持つこと、老いること、そして死ぬこと、それらに向き合うこと、社会の問題に向き合うこと、向こう岸にわたること、そこにいのちに至る道があると教えられます。

2025年10月11日土曜日

2025年 10月12日(日) 礼拝 説教

   ―聖霊降臨節第19主日礼拝―

――神学校日礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「汗水流して働く者はみな仲間」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』20 章1~16 節
(新約38頁) 

讃美= 21-521(344),504,21-27.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

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【説教要旨】
 21世紀も四半世紀を過ぎた現在の就労環境は20世紀とは大きく異なり、社員一人ひとりの机は大抵がブースで仕切られています。会議をする場合には相応の部屋へ移動いたしますが通常は目の前にPCがあり、入社時に出勤を記録するタブレットを押して担当の机に座ります。職場環境はほぼ無音で隣に座る人との会話さえメールで行われます。その理由はハラスメント防止で、直接会話をすることすら憚れるところもあるそうです。会社勤務の人々が時に心を深く病むという場合、背景としてそのような設定もあるのかと考えます。

 さてさような状況とは逆に、本日の聖書箇所で描かれますのは汗を流して働くぶどう園の労働者の物語です。現在のような電算処理化などされておりませんから、本日の譬え話で描かれた世界には様々な臭いが立ちこめています。町行く人々の声、砂を巻きあげる風。乾燥した空気。照りつける太陽。描かれるのは正規雇用の人々ではなく日雇いの労働者です。「ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出ていった。主人は一日1デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った」。まず注目するのはぶどう園の経営者自ら労働者を集めるためにその場に出かけていく場面です。学生時分に釜ヶ崎に暮らしたわたしには、労働者を集めるのは手配師と呼ばれる人の役目であり、経営者自らがその場に赴くなどとは考えられません。その意味でも譬え話に登場するぶどう園の経営者は不思議な人物です。この経営者は9時ごろにも人々がたむろする広場にやってきます。この時間に広場に立っている人はその日の仕事にあぶれたといってよい者です。この人たちに経営者は「あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」と呼びかけます。これが正午と午後3時、そして午後5時と続きます。職を得られず「立ちんぼ」するしかない労働者に経営者が尋ねると「誰もやとってくれないのです」との呻きにも似た声をあげます。午後5時の労働者は完全に世の中から見捨てられた様子が分かります。

 しかしながらぶどう園の労働は決して楽ではありません。ぶどうがたわわに実る環境とは適度に乾燥しなおかつ日当たりの良い場所でなくてはなりません。存分に蔓が伸びるためには広大な土地が必要で、収穫物はぶどうの実だけでなく食用に適う葉、細工物に使用する蔓など見極める必要があります。雑草抜きや畝作りもあります。そのような農場に大した計画性もなく連れてこられるのが本日の日雇い労働者です。確かに夜明けに連れてこられた働き手は懸命に働いたことでしょう。ひょっとしたら次から次へと労働者をスカウトしたのは、過酷な農場での働きにローテーションを加えるためだったのかもしれません。しかしその憶測は一人の労働者の言葉によって打ち破られます。則ち「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」との不平です。しかしこの一風変わった経営者は次のように答えます。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか」。このように答えるとは、あまりにも不思議です。この箇所をして「ベーシック・インカム」の雛形だと捉える人もおられますが、わたしはもう一歩立入って考えてみたいところがあります。それはこのぶどう園の経営者の真意とは、働いた成果に関心を寄せていたのではなく、この働きに関わる人の存在そのものが、それが誰であろうと、どのような特性をもっていようとも1デナリオンの値打ちを備えていたのではないかとの考えです。

 私事で恐縮ですが、わたしは15年余り前に天に召された母親を想い起こします。何度か申しあげましたが、母は1942年に現在の長春で生まれています。引揚げて後に結核性のカリエスを患いました。下に三人の弟たちがおりましたが、母の嫁いだ先は養鶏場。決して安定した職場ではなく、終には自宅を売り払って実家に移るという次第でした。しかし母が祖母の世話を献身的にしている間、経済的に苦しんだという経験は一度もありませんでしたし、そのような姿を見せることはありませんでした。弱さを抱える母とわたしたちを母方の兄弟が養っていたのです。しかし祖母が召され、母もわたしの実弟の弟とともに沖縄へ転居しましたところ状況は一変し、仲が良かったはずの母の兄弟は相続をめぐって争い、兄は61歳、次兄は58歳で召されました。表向きには役には立たない母のもつ弱さが家族を結びつける鍵となってはいなかったか。1デナリオンの重さを考える朝です。

2025年10月3日金曜日

2025年 10月5日(日) 礼拝 説教

―聖霊降臨節第18主日礼拝―

――世界聖餐日礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  


説教=「裸で生まれ、裸に還る」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』19 章13~23 節
(新約37頁) 

讃美= 74,21-155,讃美ファイル3,21-27
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【説教要旨】
 わたしたちは『聖書』の言葉を気持ちに併せて断片的に受けとめたり引用したりしがちですが、実は各々の段落がその連なりの中で新たに輝き始めもいたします。そういたしますとこれまで分かりきっていたかのように思えた言葉の響きに一層の深さを感じるにいたります。今朝の『聖書』では祝福を求めて集まってきた人々が弟子に叱られたところイエス・キリストが「こどもたちを来させなさい。わたしのところ来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである」と諫める箇所が描かれ、続いて「金持ちの青年」の物語が描かれます。金持ちの青年が人の子イエスに「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と問いますと、その時代のユダヤ教徒であればこどものころから暗唱する「十戒」が論じられ「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」と答えます。対してイエスは「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と応じますが、青年はその声を聞いて悲しみながらその場を去る、つまりその時には人の子イエスからは直ちには祝福を授かれずに終ったというお話が描かれます。

 弟子たちに叱られたところのこどもを連れた人々と、豊かな資産をもった青年。実はこの物語はイエス・キリストを軸にして対比されているとも読みとれます。人の子イエスのもとに近づいてきた人々にしっかり手を結ばれたこどもたち。この大人たちとこどもたちとの関わりがどのようなものであったか、福音書ははっきりとは記しません。親子であったかもしれず、逆に血のつながりはなかったのかもしれません。しかし文章からすると弟子が歓迎せずに去らせようとしたところから極度に貧しいところに置かれたこどもたちだった線も色濃く考えられます。貧困層のこどもたちのいのちは、飢餓状態に置かれており明日をも知れません。中には栄養不足に由来する病に虫の息のこどもたちもいたかもしれません。事態はそこまで窮迫していたからこそ、人々は人の子イエスにこどもたちの癒しを求めてきたとも考えられます。

 他方で富める青年はこれまで十全な教育を受け、裕福な暮らしの中で学びを深めてきたからこそ「先生(ラビ)」と礼儀正しく呼びかけ人の子イエスに問いかけたと思われます。しかしイエスは問答や対話という仕方で青年に答えを授けようとはしません。むしろ全生活に及ぶ態度による応答を求めます。それは「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施す」というあり方です。つまり人の子イエスの左側には裕福な育ちをしてきた青年がおり、その右側には群衆出身の弟子でさえ退けようとした名も無き人々とこどもたちがいます。文章全体の構成から申しますと、イエス・キリストは富める青年に貧しいこどもたちへの富の再分配を促しているように思えます。現代の言葉で言い換えればキリスト自ら手を広げて神の「ノーブレス・オーブリッジ」、裕福な者は貧しい者に対して責任を担うというあり方を青年に求めているとは言えないでしょうか。現代では裕福な立場の者は何らかの財団を設立して収益の一部を社会貢献に用いて始めて「富める者」としての信頼を授かります。反対に富める者は貧しい人々に仕え交わるわざにより視野を広げ、その実りとして社会にその富と暮らしに必要な糧が行き渡ります。
 ただしイエス・キリストのこの求めはより深いところから湧き出ているようです。それは『旧約聖書』の『ヨブ記』に明らかです。義しい人ヨブは理不尽な苦難に遭う中、さらに息子達を自然災害で失います。その報せを聞いてヨブは衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言うのです。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」。このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった、とあります。『ヨナ書』と異なるあり方も、神の前に立つ人の姿として記されます。

 穀物の高騰が止まない現在、ときにわたしの家でも政府の支援米に伴侶が工夫して季節感を出そうとサツマイモやジャガイモを入れて併せ炊きする場合があります。すると戦争経験者の言葉とは反対に、栄養的にはバランスの取れたご飯が炊けてしまいます。食べる量こそ少なくなりましたが、ひもじさを覚えてはいません。その意味では自ら食するものを貧しい人々に差し出したかつての伝道者や闇米を拒み餓死した判事には及びません。しかし本日の聖書箇所をそのように読みますと、「児孫に美田を残さず」にも繋がる考え、則ち食前の祈りにおいて、わたしたちは世界中で困窮しているこどもたちと無縁ではないどころか深く関わっていることを思い出します。財産に執着する生き方もある一方で、貧しさを分かちあう生き方もあると今朝の御言葉から気づかされます。

2025年9月24日水曜日

2025年 9月28日(日) 礼拝 説教

         ―聖霊降臨節第17主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「弱さ」
吉村厚信補教師

聖書=『コリントの信徒への手紙Ⅱ』12 章1~10 節
(新約339頁)
讃美=21-529(333),21-579(355),21-26
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

YouTube中継・編集動画メッセージは
担当者不在のため休止します。

【説教要旨】
本日の説教題、「弱さ」は、仕事で何か失敗したとき、上司に叱責されたりしたとき、部下に揶揄されたりしたとき、家庭で自分が家族に対してなにか引け目のあることで孤独になったとき、ご自身であれば御病気や御怪我をして心身ともに落ち込んでしまったとき、ときには絶望感に満たされること、など、ご自身の様々な状況で表出します。今日の聖書箇所コリントの信徒への手紙Ⅱ12:1-10は、使徒パウロが誇ることの愚かさを自ら自覚し自分を誇ることの無益さをお話するところから始まります。パウロは自分を第三者のように述べ始め「第三の天」(「楽園」)に引き上げられたパウロ自身と同時に「弱さ」を誇る自分がいることも表します。自身の弱さは個人的傲慢さも表現しています。自分の行為や発言は決して誇らず、「神から与えられた神の恵み」を誇り「弱さ以外に誇らない」のだ、と説明しています。6節では思い上がることのないように「とげ」が与えられます。三度のお祈り、そしてキリストの恵みが宿り拠りどころに出来る、だから大いに時分の弱さを誇れるのだ、とパウロは説きます。いちばんパウロが言いたいこと、それは「弱いときにこそ強い」という逆説。自分の力ではなくて、「キリストの力=恵み」がパウロを強くしてくれています。このパラドックスは、キリスト教が「救いの宗教」だからです。人間には原罪があります。それが人間の「弱さ」です。その結果が同じ人間なのにも拘わらず、戦争・殺人・貧困・人種差別・いじめなどを引き起こします。この問題を解決するには、道徳・倫理と言った人間の世界での解決は決して出来ません。聖書の中で、「いちばんの被害者はイエス・キリスト」です。人間の不安・嫉妬・憎しみ・怒りの犠牲として十字架に架かり、等しく隣人に寄り添う点に於いて人間の怒り・恐れ・憎しみを除きお互いを許し合う道に導きます。そのことが「キリストの恵み」として与えられるから、人はその弱さを「強さ」として誇れるのです。約2年間クリスチャン系介護施設でチャプレンとして業務、昨年6月から施設職員としても入居者の定期的病院送迎や施設内で食事介助に関わりました。同じくインド北東部ミゾラム州にクリスチャン若年層の方々対象に介護職員養成の一環としての日本語学校を設立、昨年10月から現地責任者として同州アイゾール市に赴任しました。学校は会社の都合によって6月末に閉校、9月からインドに残された生徒の就職支援に乗り出しています。縁あって北海教区浦河教会・元浦河教会も訪ね、障害者就労支援施設「ベテルの家」で研修滞在させて頂きました。様々な施設に関係しながらの牧会も視野に入れることが出来ました。現在就労支援B型作業所で利用者作業の見守りをしています。企業定年後、神学校修了後補教師で奉職しようとして挫折しましたが、そのあと申し上げた現場のその場面場面に遭遇したとき、足らない自分を前に施設の方々、作業所での知的障碍者・身体障碍者の方々の笑顔を頂いて寄り添わねばならない自分以上に力に支えられ「自分の弱さこそ故に、その方々にキリストを見る」、そのような出会いを頂いたように思いました。牧者の信徒への寄り添いとは、実は様々な方々の御支えによって、寄り添いを頂いて、「牧者は生かされているのだ」、という逆説を教えられます。神さまはそのことを教えて頂いています。


2025年9月18日木曜日

2025年 9月21日(日) 礼拝 説教

         ―聖霊降臨節第16主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「さまよう羊を追いかける羊飼い」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』18章10~14節
(新約35頁)
讃美=239,21-402(502),21-26
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
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【説教要旨】
 先日来阪した実弟家族と食卓を囲む機会を与えられました。弟夫妻が授かった一番歳下の女の子は小学校五年生、次男は中学生、そして長男は中学卒業後高校には進まずひたすら読書と武道に明け暮れる暮らしです。昭和の学校制度の枠組みが大きく変わる中で、思えば弟もわたしも集団行動が苦手であったと思い起こしながらの懇親の時でした。『聖書』の中で「羊」という言葉が用いられますとわたしたちはただ群れなす家畜であるかのようなイメージを抱きがちですが、人の子イエスの譬えに登場する羊の場合、現代でいうところの去勢がされてはいない羊が飼育されていたとの話も聞きます。そのような事情を踏まえますと、この時代の羊飼いという仕事は並大抵ではなかったようにも思います。羊飼いたちはわたしたちがいうところの「読み書きそろばん」を殆どの場合体得してはいません。しかし羊飼いは羊一匹いっぴきの性別や体格差、振舞いの特徴や表情を見抜いて名をつけ、その名を呼び、羊の群れを牧羊犬とともに統率していました。しかしその飼育が順調だったかどうかは分かりません。牧場の経営者と羊飼いの考え方の対立も否定できませんし、経営者は単に羊一匹を大事に扱うというより業務上の効率を求めていたと考える方が現実的です。

 そのような事情を知りながらも人の子イエスは次のような譬えを語ります。「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう」。もしこの場で羊を追いかける役目が経営者自らであれば、譬えこの一匹が迷い出たとしても、全体の損益を考えて迷い出た羊を放棄し、危険は冒さないとの判断を下すかも知れません。経営者には羊はあくまでも資源であり、全体におよぶリスク管理の観点からすれば九十九匹を残すとの判断を下したとしてもおかしくはありません。しかしわたしにはこの人の子イエスがこの譬え話で用いた「ある人」とは間違いなく羊飼いであったと映ります。その理由は、その動機が決して合理性では割り切れないところにあるからです。きっと様々な特性のある羊がいることでしょう。中には羊同士の衝突により群れから弾き飛ばされた生体もいたと考えられます。しかしこの場で描かれる羊飼いは合理的な計算ができない代わりに、迷い出た羊を追いかけてやまないのです。そして同時に見落としてはならないのは、その背中を九十九匹の羊たちもまた見つめているところにあります。この羊飼いの必死な姿を見て他の多くの羊たちも「人と家畜」という関係性を超えて、この羊飼いならば大丈夫だとの深い信頼と安心感を授かったのではないでしょうか。

 家畜を飼育しながらの暮らしは実に厳しい選択を強いられる場面に遭遇します。養鶏場を経営していたわたしの父方一族の場合、もし鶏舎に1羽でも病気に罹患した鶏が出たならば、その鶏舎すべての鶏を処分しなければなりません。しかもこれが一度ならず十年に一度のペースで起きる算段もしなくてはなりません。その都度経営者は保険や雇用など重要な判断を下します。そのような苦労を重ねた父親は精神のバランスを崩し虚言癖・失踪癖に走り、そして年老いた今は施設に入所しています。思えば十数年前鳥インフルエンザが流行したときに西日本大手の養鶏場経営者は自死、息子である社長がその責任を民事訴訟にて求められる事態となりました。迷い出た羊を追いかけるわざも過酷です。しかし「神に出来ないことはない」、とイエス・キリストは語ります。

 「これらの小さな者が一人でも滅びることは、わたしたちの天の父の御心ではない」とイエス・キリストが伝えようとする神の愛とは、自らあらゆる危険をわが身に担い、苦しみや痛みを負いながら多数の羊を活かすためにも一匹の羊を決して見殺しにはしない羊飼いの姿に重ねられてまいります。その姿は時として愚かであり、経営失格だとの烙印を世間や地域から押されるのかもしれません。しかし一匹の羊のために傷ついた足をひきずり歩くその姿に、わたしたちはただただ感謝の涙を流すほかはないのです。そのようにイエス・キリストは『聖書』を通してわたしたちに問いかけています。「わたしたちは羊の群れ」と『イザヤ書』53章6節を引用するならば、今は様々な毛や性格の羊がおり、溢れる数多の特性の羊が同じ草原に暮らしています。そのような羊一匹いっぴきの特性を見抜き、とかく争いや問題を起こしがちな交わりを平和に導きながら、キリストは更に広い草原へと導きます。わたしたちの置かれた牧場は決して狭く、居場所に窮してはいません。遠くの山の端から射す光に照らされ、わたしたちは羊飼いのもつ杖に導かれて歩みを重ねていきます。主の平安をともに祈りましょう。