2025年8月22日金曜日

2025年 8月24日(日) 礼拝 説教

      ―聖霊降臨節第12主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「蛇のように賢く鳩のように素直であれ」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』10 章16~23 節
(新約18頁)
讃美=21-494(228),21-540(403),21-24
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 福音書の成立には、人の子イエスとその弟子が語り伝えた神の愛による世の統治が、その時代の人々の思う通りには訪れてはこなかったという事情があります。神の計画とは人の思いを超えて実現していくさまを、わたしたちは断片的であるにせよ体験しているからこそ、本日の礼拝に招かれておりますが、わたしたちはむしろそのような体験を賜った神に深く感謝を献げるところです。教会の交わりに頑なだった家族がその生涯を全うする直前に洗礼を授かる場面に、わたしは牧師として幾たびも立ち会いました。

 しかし福音書の世にありましては、そのような日々の平安にさえ遠いなかでただただ神の愛による統治を願わずにはならないのっぴきならない、そして現在のわたしたちとは程遠い事情がありました。それは、まずは人の子イエスを救い主と仰ぐ人々の交わりを敵視する古代ユダヤ教からの暴力を伴う排除、次いで貧しく、さらには仮に人身売買される奴隷の身の上にあったとしても時のローマ皇帝を決して神として跪かなかったがゆえに叛逆罪に問われ、見世物のように殺害されていった日常です。遠藤周作の小説『沈黙』よりも厳しい排除と差別が続くなかで、人々は「アーメン、わが主よ、来たりませ」とイエス・キリストの再臨を待ち望んでいました。
しかし『旧約聖書』の種々の物語にもあるように、神の約束とは思いもよらない仕方で、しかも数世代を経て実現するとの性格を帯びる場合もあります。わたしたちが神を利用するのではなくて、神の導きにわたしたちが身をゆだねた時に初めて拓かれる道があります。

 そのような困難な世にあって授けられた希望の道を、人の子イエスは「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」との言葉で示します。「蛇」という言葉からわたしたちは好き嫌いの分かれる不気味な生き物を連想しがちですが、『聖書』では「知恵」や「癒し」を与える象徴としても用いられています。わたしたちは「天地創造物語」で描かれるところの、エバとアダムを誘惑し、神との信頼関係を破壊する機会をもたらす存在として理解しがちですが、逆に言えばあの「蛇」という言葉には、古代ヘブライ人が味わった、想像を絶するような高度な文明に動揺する人々の様を看て取れます。そのような人々、とくにヘブライ人を虜囚としたバビロニア王国の人々が暗に「蛇」だと呼ばれた可能性もあります。確かにその生態は今も人間を驚かせるところから、それが知恵の象徴だと言われるのも無理はないと考えます。

 しかしそのような知恵を「福音書」ではあくまでもイエス・キリストの語るところの知恵だとします。そしてその知恵とは「鳩」のような素直さとともにあって初めてその本来の力を発揮するというのです。一見対照的に映るがゆえに『聖書』にはダブルスタンダードが記されているかのように誤解しがちなわたしたちですが、この箇所で記されているのは困難に満ちた世に活かされるためには、イエス・キリストを核とした喜びに満ちた交わりが不可分であると示します。洗礼者ヨハネのもとで救い主としての働きを始めるにあたり、人の子イエスに神の霊が「鳩」のように降って来るのを見たと申します。『旧約聖書』「天地創造物語」にさかのぼれば「洪水物語」で箱舟にその災いの終わりを告げる「神の平和」の象徴としても用いられます。この素直さと繊細さあればこそ、時に捕食関係にあるとして理解されがちなこれら被造物は、神への素直さに根ざした知恵として世にある真贋を見抜き、密かに響く神の声を聴き分ける力を弱さの中から汲みだす象徴として深く結びつくのです。

 報道では充分な知識のないまま身ごもった未成年の女性が、授かったばかりのいのちを認められずに殺害し、公園に埋めていくという凄惨な事件を聞きました。身代金目当ての誘拐事件に代わって、相談口があれば十分防げたはずの事件が後を絶ちません。かつて道端で呻く傷だらけのホームレスを敢えて無視して大学のキャンパスへと通学しなくてはならなかったいたたまれなさ、自分は「よきサマリア人」にはなれないとの悔しさに身を震わせた時代、今は早朝の大衆食堂で水商売の仕事明けに騒ぐ若い男女から勧められた好意としての一皿の食事を断りながら、同じ世代の集う教会やこども園、大学に身を置く者として、やはりこれもまた自らが虐げられている立場にあることすら気づかない、その若者たちの目を塞ぐ様々な構造や差別に対して憤りを覚えてよいのだとの声を聞く日々です。問題はその怒りをどのようにして人を支えるエネルギーに変えていくのか。その道筋を祈り求めてもいます。自分の身を守ることで精いっぱいだったはずの初代教会の人々が、愛のわざに励み続けた知恵と素直さを尊びたいと願います。神の国の訪れを、福音を賜物に応じて証ししながらともに待ち望みましょう。

2025年8月16日土曜日

2025年 8月17日(日) 礼拝 説教

      ―聖霊降臨節第11主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「十二弟子が旅立つとき」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』10章1~15節
(新約17頁)
讃美=21-466(404),21-529(333),21-24
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
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【説教要旨】
 酷暑が続きます。みなさまにはお具合いかがでしょうか。牧師は14日(木)には釜ヶ崎で内科医として献身的に働き、そして殺害された高崎南教会員矢島祥子さんに関するチラシ配布を西成区鶴見橋商店街で行いました。その折、目の前をナツアカネ(赤とんぼ)がすっと飛んでいくさまを見ました。暑さと豪雨の繰り返しで天気予報には気をつけなくてはなりませんが、それでも少しずつ季節は移ろっているのだなと実感いたしました。

 今や下町の商店街には様々な国籍の方々が往来されています。受け取ってくださるかどうかは別として相手の目を見てにこやかに挨拶をすれば日本人以上にレスポンスを返してくださるのはありがたいところです。

 本日の『マタイによる福音書』では人の子イエスが弟子を招き、汚れた霊を追い出す権能を授ける様子を描きます。集められたのはペトロとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人マタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダの名があがります。イスカリオテのユダもまたこの箇所に記されているという点では、イエス・キリストのたどった苦難の道でのその振舞いが、ユダだけの責任に帰して問われているのではなく、十二弟子全体のありかたを問いかける徴として描かれています。

 そしてその後の十二弟子に対する人の子イエスの言葉は次のように記されます。「異邦人の道に入ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた家の失われた羊のところへ行きなさい」。この箇所に触れて『聖書』をお読みの方は首を傾げるかもしれません。この福音書より10~20年ほど早くまとめられた『マルコによる福音書』では「まずこどもたちに十分食べさせなくてはならない」と語る人の子イエスに、悪霊に憑かれた娘を癒してほしいと願うギリシア人の女性が食いさがり、その結果福音書でいう悪霊が去る、則ち病が癒されるという物語が記されているからです。それでは諸国の民の間にある垣根を設けるようあえてイエスの命令として記さなければならない理由とはどこにあったのでしょうか。

 『マタイによる福音書』ではこの垣根を越えていく神の愛のわざを決して軽々しくは扱いません。それは世にある人としてのイエスを知る弟子のなかに、ある人物の名が欠けているところからも明らかです。則ち、初代教会の立役者となった使徒パウロの名です。パウロは人の子としてのイエスとの面識はなく、イエスが昇天された後、聖霊降臨の出来事のなかで使徒となった弟子の口から救い主の生きざまと復活の出来事を知ったと伝わります。むしろこの人が律法学者サウロと称していた時代のほうが字義どおりにこの命令を受け入れやすかったことでしょう。それほどこの壁を破るために初代教会は深い痛みを経験しました。その象徴がユダの裏切りを経ての救い主の処刑です。同時にそれは十二弟子の離反をも示していました。しかしギリシア語で「パラドゥーナイ」とされるこのわざは「裏切る」というよりも「引き渡す」「委ねる」との訳が適切だと申します。そうしますと現代人の目からすればイスカリオテのユダよりも、使徒パウロのほうがより罪深く考えられます。そのパウロの働きを通して、広く異邦人にもサマリア人にも福音が宣べ伝えられ、神の深い愛がイエス・キリストの福音の核として伝えられました。ちなみに本日の箇所では、まだ弟子たちは救い主の苦難に満ちた歩みと十字架での死、そして復活の出来事の告知を人の子イエスからは受けていません。そこには素朴に人の子イエスに従おうとする人々の群れが描かれます。やがて神の国の訪れを前にして諸国の民の壁が打ち払われ、その時代すでにあったところの貨幣経済による貧富の格差も打ち破られていきます。だからあえて旅支度をせず「平和があるように」と挨拶を交しなさい、とあります。脆さも含めて弟子は派遣されます。争いや差別ではなく「主の平和」です。

 どの旅の備えでも金銭は確かに重要です。ただ福音書のメッセージでは社会を循環し、分かちあうところのツールとして相対化され、そのものとしては神から授かったいのちを値づけしません。もちろんそれは礼拝の対象にもなりませんが、困難の中で金銀に目を奪われていく教会も多かったことでしょう。ユダはその躓きの徴として、他の弟子の破れとともに数えられます。他方でパウロを軸として異邦人とともに歩む教会は、復活したイエス・キリストとともに新たないのちの息吹を注がれてまいります。この二つの流れは、神の愛によってひとつにされ、今のわたしたちに流れ込んでまいります。主にある多様性の基には、いのちの尊厳への目覚めが、どのような人にも敬意を払える態度とともにあります。戦争の過ちを繰り返さないために他者への尊厳を求め祈ります。

2025年8月8日金曜日

2025年 8月10日(日) 礼拝 説教

     ―聖霊降臨節第10主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「病の人を招く主イエス・キリスト」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』9章9~13節
(新約15頁)
讃美=21-371,21-402(502),21-24(539)
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【説教要旨】
 お互いに甚大な被害を与える現代の戦争には勝者はおりません。しかしそれでも勝利を収めたと自認する国ではその戦争で負傷したり病に罹患した復員兵を迎える家族に何らかの補償をいたします。負傷や生命の代償として当事者には名誉の勲章が授けられる場合もあります。

 しかし最も過酷なのは敗戦後に帰る家も焼け家族もちりぢりとなり、深い傷跡を顔や手足に残し、または風土病に罹患しすっかり病気がちとなった人々があげられます。もちろん戦災孤児は言うに及びませんが、かつて英雄として奉られた特別攻撃隊の生き残りの暮らしは「特攻崩れ」として荒み、酒浸りになり、薬物に溺れて身を持ち崩す人も多かったと聞きます。戦闘で顔面を失った人々が日々の賄を得た手段とは「見世物小屋」での「化け物小屋」で働く人もいました。かつては人々に旗を振られて送られて、今は人々から恐怖と侮蔑の目で見られます。それは戦後の高度経済成長期にも深くて長い影を落とすものでした。

 本日の聖書の個所ではおそらくはガリラヤに戻った人の子イエスが通りがかりに収税所に座っている徴税人マタイに「わたしに従いなさい」と声をかけ弟子とするところから始まります。『マタイによる福音書』の書き手集団とは別の人物ですがそれでも何らかの関係を想像するには十分な名前です。その後イエス・キリストはマタイの家で食事をいたします。そこには徴税人や罪人も大勢つどい人の子イエスや弟子たちと同席したのです。

 この「徴税人や罪人も大勢やって来て」というくだりなのですが、徴税人はまだしも「大勢の罪人」と呼ばれる各々の姿が思い浮かばずにみなさまは苦しむところではないでしょうか。ただしイエスの弟子を批判するファリサイ派の人々による「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」との言葉から、おぼろにではあるにせよその姿が浮びあがってまいります。すなわちその社会規範からは遠くかけ離れ、絶えず遠ざけられた人々が律法に厳格なファリサイ派からすれば許容これ能わずといった具合だったのでしょう。

 昨日は長崎の原爆忌でしたが、広島と長崎に共通するのは路面電車が走っているというところです。つい20年ほど前までは手足や首に原爆固有の火傷を負った人がごく普通に電車に乗り降りしていたとのことでしたし、銭湯に行けば人皆傷だらけの身体を晒して湯船に浸かっていたと聞きます。しかしその理由を尋ねる者はだれもいなかったと申します。その人自らが何か悪さをしたという意味に限られず、人々に負の記憶を連想させるために社会から見放されていった人々もまた「罪人」として疎外されてしまっていたのではないでしょうか。

 その裏づけとしてはファリサイ派の問いとも批判ともつかない言葉に対して向けたイエス・キリストの言葉に明らかです。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」との言葉には、人の子イエスのもとに集っていた「罪人」とは「病人」との意味も併せ持っていたという点です。ファリサイ派の求めるのは義人、すなわち「健康な人」であって、その集いへの参加を人は誇ることができます。しかし徴税人マタイの家には何の取り柄もない病人が集うのであり、その集いを人前で決して誇ることはできません。しかしその交わりの中で罪人とも呼ばれる「病人」、何も誇れない人々にこそ主なる神の祝福に満ちた交わりの回復と慈しみ深い安らぎが臨むのではないでしょうか。

 戦争が終ってから少なくとも20年間、場合によれば高度経済成長期の恩恵の及ばぬ影で、人知れず差別に堪える他なかった人々がいました。広島や長崎出身というだけで就職面接や結婚を断られた人々がいました。また、両親を失い上野駅の地下で心ならずも盗みを働かなくては生きていけなかったこどもたちは、大人になり結婚相手にすら老いてなお身の上を語れない方々もいます。さらには戦後なおも残る機雷や不発弾でいのちを失った方々も数知れません。『エゼキエル書』37章に記された「枯れた骨」として今なお放置されている遺骨となった身内を忘れられない人々がいます。広く世間では「心の病」の源として扱われてきたそのような辛い経験を、イエス・キリストが見逃すはずがないのです。戦後は決して終りません。キリストに連なる教会もまた、今なお続く傷や病を癒す場なのだとわたしたちは確かめます。イエス・キリストは平和の主であり、多くの傷に苦しむ人々、空腹の友と一緒に宴を囲まれます。その交わりこそがわたしたちの出発点であり、神の愛につつまれる統治の先取りであると確信しましょう。天に召された方々ともわたしたちはこの礼拝で交わり続けるのです。

2025年8月1日金曜日

2025年 8月3日(日) 礼拝 説教

    ―聖霊降臨節第9主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「平和を実現するイエス・キリスト」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』8 章5~13節
(新約13頁)
讃美=21-561(420),531,
「主の食卓を囲み」(讃美ファイル3),21-24(539).
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 本日は日本基督教団の教会暦に定められている平和聖日です。とりわけ満洲事変から数えますと15年間続いたアジア・太平洋戦争が事実上の日本の敗北で終り80年を数えます。幼い日に戦火の中を逃げまどった「戦争体験者」は今なおお健やかであったとしても、実際に従軍経験のある方々はまことに少なくなった時代となりました。実体験ぬきで戦争を語りますと安売りロマン主義の虜となり、やれ英霊だのやれ雄壮だのという話となります。しかしながら歴史上の記録だけはごまかせません。先の一五年戦争で「戦死」扱いされた兵士では餓死者・戦病死者が7割にも昇ります。前線の将校や看護兵の手に負えぬとして自決した兵士もきっといたでしょう。

 平和聖日で取りあげる聖書箇所はあくまで日本基督教団の教会暦に則しておりますので牧師が恣意的に選んだ箇所ではありません。けれども百人隊長という、いざとなれば最前線に立つ下級将校の立場にあって、支配地の紛争が絶えないこの時代に自らの部下を思いやるとの働きはなかなかできません。言ってみればローマの軍隊にあってカファルナウム含めてパレスチナはローマと地続きとは言え乾燥した外地にあたります。その時代には百人隊長のほうが人の子イエスよりも立場が上なのが当然です。けれども百人隊長は語るのです。「主よ、わたしの僕(しもべ)が中風で寝込んで、ひどく苦しんでいます」。一般に中風とは脳梗塞や脳溢血を含めた疾患を指しますが、この僕の病の原因は何だったのでしょうか。水分や栄養を十分に摂取できず、南方の密林の風土病であるマラリアのような病が原因だったのかも知れません。百人隊長は派遣先の地元民の一人に過ぎない人の子イエスに「主よ」と呼びかけ、助けを乞います。戦争末期の日本軍の将校にこのようなわざができたでしょうか。

 人の子イエスはそのような乞い願いを決して無碍に扱いません。「わたしが行って癒してあげよう」と語りかけます。しかし百人隊長は「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」。百人隊長は知っています。絶えざる戦時下とは言え、どれほどの外地の人々を手にかけてきたことか。個人としての葛藤はともかく、多くの人を手にかけ、ローマ帝国の旗の下で田畑に塩をすき込み、女性やこどもたちを飢えさせてきたかを。そして少なからず部下を戦死させてこその今の地位があることを。そのような深い葛藤がイエス・キリストを前に一気にほとばしり出てまいります。「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」。この「ひと言」への絶大なる信頼が人の子イエスの胸に響くのです。その信頼は一度命令が下れば譬え死地であっても赴く覚悟とその覚悟をともにする兵士の挙動に示されています。

 人の子イエスはこれを聞き深く感じ入ったと申します。この場面での人の子イエスのローマ軍の下級将校への向き合い方は、言うまでもなく敵味方の垣根を越えています。そして本来は占領軍にあたり、ユダヤの民に較べれば世にある立場も上であったろうこの将校の振舞いを示し「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰をみたことがない」。思えば『旧約聖書』の預言者の物語に描かれたのは神に選ばれたはずのイスラエルの民による神への冒涜と不信仰の歩みでありました。それでも「死んではいけない」と語る主なる導きは変わらずユダヤの民に注がれていたはずです。「わたしはこれほどの信仰を見たことがない」。言い換えれば「これほどの世に遣わされたメシアへの信頼をユダヤの民には見なかった」との言葉です。神の愛とイエス・キリストの恵みは名も知らない百人隊長の僕、軍人ではなく軍属であったかも知れないその人に臨んでまいります。「東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブとともに宴会の席に着く。だが御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりすることだろう」。未だに神への承認欲求に凝り固まり、砕かれ新たにされる出来事を恐れる者は、たとえ「御国の子ら」と呼ばれようとも宴席から退けられるとの言葉。わたしたちには、そしてパレスチナで民間人を銃撃する人々には、そして根拠なく教会に連なる者を「左翼」呼ばわりする人々にはどのように響くことでしょうか。神の愛への信頼に基づく平和とは、決して世にある境界線を問わないのです。

 思えば『マルコによる福音書』で十字架での人の子イエスの最期を見届けた、本日の人物とは異なるところの百人隊長は、その場で「本当に、この人は神の子だった」と呟きます。イエス・キリストの愛とは、分け隔てなく人々の痛みや苦しみを分かちあい癒してまいります。その慈しみといのちへの愛に満ちた平和にわたしたちは今一度目覚め、80年目の八月を迎えたいと強く願います。

2025年7月26日土曜日

2025年 7月27日(日) 礼拝 説教

     ―聖霊降臨節第8主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「あなたがたの土台はどこにあるのか」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』7 章21~29 節
(新約12頁)

讃美=21-514(449),21-458(270),Ⅱ-171.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
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【説教要旨】
 国政選挙が終りました。わたしたちの暮らしにまことに大きく影響する結果だとのことで、さまざまな意見が渦巻いています。しかしわたしたちはその渦巻きから引き出されてこの礼拝に集い得たことを主なる神に心より感謝します。それは決して世の現実から逃れるのでも目をつむるのでもなく、わたしたちの立つところが『聖書』に記されるところの御言葉にあるとの確信に基づいています。いつの世にもあたかも時代の寵児であるかのような人物が現れて人々の心をつかむ「キャッチーな言葉」で扇動しますが、わたしはそのような時に『イザヤ書』30章15節を思い出します。それは「まことに、イスラエルの聖なる方 わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち返って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることこそ力がある』と」。『イザヤ書』の構成は三部から四部に及ぶと言われます。この平安の中での信頼こそが神の愛の力をもたらすのであり、だから恐れるなとの静かに語る声を聞くのです。世にある言葉は風のようにすべて過ぎ去ります。その風に吹き飛ばされないようにわたしたちは主なる神からともにあるための軛をすでに授かっています。

 ところで本日の箇所では「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう」。「かの日」とは『新約聖書』の表現では神の愛による統治が全うされる世の終りを指しております。とりわけ福音書の書き手は、その「終末」を強く意識して救い主のあゆみと教えを書き記しています。それでは救い主イエスが世にあって信頼する父なる神に祈りを献げるときに端的にどうすればよいのかが記されています。それは(『ルカによる福音書』18章9節にある)ファリサイ派と徴税人の祈りの対比です。「ファリサイ派は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしたちはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、またこの徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』」。反対に徴税人は神殿から遠くに立ち天を仰ごうともせず胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と言った、とあります。過ぎていった一週間を思い出して、わたしたちは主なる神の御前で、あたかも業績を誇るかのような高揚感に包まれるでしょうか。それとも涙に暮れる夜もあったと思い出し、か細い声で「信仰のない者を憐れんでください」と胸の奥をさらけ出すのでしょうか。

 「主よ、主よ、わたしたちは」で始まる言葉は、明らかに自らの業績を無理矢理神に認めさせようとする醜悪さが潜んでいます。先ほどのファリサイ派の祈りと表裏一体をなしています。預言も悪霊の追い出しのわざも奇跡も、そこではまったく本来の役割を果たしてはおりません。それが驕り昂ぶりに繋がるならば、預言や癒しのわざや奇跡すらも一切の意味を失うという畏怖すべき教えが記されていると気づかずにはおれません。「あなたたちのことは全く知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ!」とのイエスの声が響きます。
その後にあるのが岩の上に家の土台を建てた者と砂上に建てた者との対比です。キリストに根を降ろすとは、要はこのようなあり方を示します。雨降り川あふれ暴風が襲うなかで立つ家。どれほど小さな家だとしても、基礎を岩盤に下ろしてさえいえば家そのものの造りよりもその岩が家屋を逃さずつなぎ止めます。これこそがわたしたちの養いとするべき『聖書』の言葉であり、祈りです。世の移ろいに棹さし立つ家は、見かけは立派であったとしても先が知れています。今現在の暮らしに不安を覚えるあまり、誰もが飛びつく「甘い言葉」にすがったところで、それは渇きのあまり海水を飲むようなものです。飲めば飲むほど渇きが増すにいたります。

 『イザヤ書』2章に戻るならば、わたしたちは次の言葉を見出します。「人間に頼るのをやめよ 鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか」。わたしたちが根を降ろし、土台とするべきはイエス・キリストです。わたしたちの想像をはるかに超える困難を幾つも超えて、教会の交わりは育まれ今に至っています。
心身にわたる困難がわたしたちを襲うほどに、業績という名の傲慢さが川の水に流されるほどに、わたしたちの立つ土台が問われます。だからこそ、パウロの語るとおり、弱さ、侮辱、窮乏、生きづらさ、行き詰まりの状態にあっても、わたしたちは弱いときにこそ強いと臆せず、居直りでもなく、主なる神との深い関わりに平安を授かる日々を過ごせます。主の前に立つため、少しだけ、勇気を出しましょう。イエスは世に勝っています。

2025年7月18日金曜日

2025年 7月20日(日) 礼拝 説教

    ―聖霊降臨節 第7主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 

 
説教=「求めは分かちあいにより満たされる」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』7 章 7~12 節
(新約11頁)

讃美=217,21-459(354),Ⅱ-171. 
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
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【説教要旨】
 2025年『信徒の友』8月号が出版されました。この冊子には「日毎の糧」という欄があり、日本基督教団に連なる諸教会の名前と各々の祈りの課題、そして『聖書』の箇所が掲載されます。8月号では南海地区の教会がとりあげられ「生きづらさをかかえる方々の祈りを主なる神がお聞き届けになり、イエス・キリストの豊かな祝福と深い癒しが臨みますようお祈りください」との文章を寄せました。今の時代の痛みを抱える教会内外の関係者を覚えていただきたいとの考えから文章を送信しました。期せずしてタイミングは80年目の広島原爆忌。但し、わたしは当日の担当者の聖書講解の言葉には考え込みました。「イエスさまは、わたしたちが神さまに従うには、犠牲をはらう必要があることを教えられました」。浮かんだのは、自らに従うには犠牲が必要だという条件を本当にイエス・キリストは語ったのか、という問いなのです。

 本日の『聖書』箇所では「求めなさい、そうすれば、与えられる。探しなさい、そうすれば、見つかる。門を叩きなさい、そうすれば、開かれる」とあります。何を探すのか、何のために門を叩くのかと言えば、「神の国と神の義」を求めて、です。そうすれば「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って思い煩うことはないとの、名も無い人々へ向けたメッセージが鮮やかになります。その内容はすでに空腹であり、すでに渇いており、すでに身なりすら衛生的に整えられなかった人々へ向けた喜びであり「身体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである」との聖句の断片的な解釈とはわけが違ってまいります。人の子イエスのもとにやってきたのは、すでに犠牲に献げるものすら持てないと失望と悲しみに暮れるほかなかった人々であり、求められるとするならば、自らのすべてを献げるほか道がなかった人々です。だからこそ本日の『聖書』箇所は次のように続きます。「あなたがたの誰が、パンを欲しがる自分のこどもに、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」。パンも魚も福音書では、その日を暮らす必要最低限の食事として描かれます。思えば『出エジプト記』で記される奴隷でさえ、魚の干物を食事として無料で支給されていたと記載されます。人の子イエスの教えの聴き手の置かれた暮らしが推し量られるというものです。

 おそらくこの場で人の子イエスが群衆、そして群衆と深い間柄にあった弟子のすべてが、その時代には律法学者を始めとしたごく一部のユダヤ教の指導者層とは異なり、文字の読み書きに際しては、恐らくは不可能か日常生活での最低限の識字能力しか持たなかった人々が大半だったことでしょう。しかしそれでも人の子イエスは「十戒」を始めとする『旧約聖書』の誡めが全うされると伝えます。それが「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」との言葉です。『律法』と『預言者』とはその時代の『聖書』、すなわち、わたしたちのいう『旧約聖書』に該当する書名です。その誡めが日々の暮らしの中で実現するのは「わたしに従いなさい」と呼びかける救い主の声にたどたどしくも応える瞬間です。

 本日は国政選挙の投票日です。気がかりなのは小学生の給食メニューを案じる声よりも、多様性を否定し誰かを圧し除けて心を満たそうとする声が強まっているという現状です。わたしたちはそのような憎しみをぶつけられ苦悶している仲間に何らかの犠牲を払えなどと人の子イエスが伝えたとは考えられません。そうではなくて、あの五千人の人々が五つのパンと二匹の魚を祝福して分かちあうイエス・キリストの姿を見て、自らも手ずから持っていた粗末な食事を分かちあう群れが生まれた出来事を思い起こしたいのです。何の飾りもない、その素朴なわざには「神の国と神の義」が先取りされていたと言わずにはおれません。また略奪者に襲われ虫の息の旅人を支えたのは、同族の祭司やレビ人ではなく、時には憎しみの対象にすらなっていたサマリア人の旅人だったと思い起こしたいのです。かのサマリア人は虫の息の旅人に必要なその時代の緊急措置を施し宿屋に連れて介抱するだけでなく、2デナリオンを主人に渡してその後の治療を依頼しました。さてサマリア人は費やした時間や費用や薬品(油とぶどう酒)を犠牲だと思ったのでしょうか。そんなわけがないのです。略奪者に襲われた旅人がまた歩けるようになれば、やはりそれはサマリア人にも実に喜ばしい知らせです。イエス・キリストに従う道筋をその人の人生一代のみで全うするのは困難だとしても、必ず誰かの道備えとして用いられ、分かちあわれてまいります。神の国はそうした小さな、しかし決して消されない神の愛の交わりから始まると確信し、主は自らを犠牲とされた事実を胸に刻んでまいりましょう。

2025年7月11日金曜日

2025年 7月13日(日) 礼拝 説教

    ―聖霊降臨節 第6主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「心、神の愛の力にあふれて」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』6 章24~34 節
(新約10頁)

讃美=21-342(183),461,Ⅱ-171.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 汗水流して働く代りに、様々な投資信託のコマーシャルが次から次へと起きては消えてまいります。50歳を超えて気づいたのは「老後」という言葉が巷にいかに多いかというところです。コマーシャルでは年金を投資に回した結果不労所得が増えたという話ばかり。若者も額に汗する仕事ではなく投資で儲ける暮らしがスマートであると言わんばかりです。確かにお金は大切です。労働対価としても費用対効果としても見逃すわけはまいりません。それは社会を血液のようにめぐっていき、ある人の消費を喚起します。そしてそれはある人の所得となります。『新約聖書』の舞台もまた貨幣経済が主流をなす時代。そのような中で人の子イエスは「あなたがたは神と富とに仕えることはできない」と語り、その後には表向き実に牧歌的な「野の花・空の鳥」の教えを語ります。単純化しますと「世にあるすべての富を捨てて自然に帰ろう」という意味として受けとめがちではあります。しかしこの教えはわたしたちが考えるほどそれほど安直ではありません(近代文学の白樺派はその典型かもしれません)。6章24節にある「富」とは富や財産が偶像化された神「マモーン」を意味します。『旧約聖書』では「金の子牛」や「バアルの神」といった仕方で人々の目を眩ませてきたその神と、『旧約聖書』以来いのちを愛してやまなかった主なる神を人の子イエスは対置するのです。

 ただ悲しいかな、人は貧しくなるほど、いや、時にはどれほど富裕層に属していようともこの「マモーン」に心を奪われてしまいます。決して世の全てが富を尺度であるわけではないにも拘わらず、あたかもその数字が全てであるかのような錯覚に陥ってしまうのです。マモーンに憑依されたあまり、目に見えぬいのちの豊かさに気をとられ、そのときその瞬間でしか味わえない神の恵みに無頓着になってしまいます。

 ボンヘッファーという牧師がいました。この人は世がこぞってマモーンに惑わされ、弱い者が蝋燭の光になびく虫のように権力にすり寄るその時代に、富を「究極以前のもの」と見定めました。それは人間にとって実に大切ではありますが、それによって人命が損なわれたり戦争を始める口実になったりしてはいけないというのです。富が富本来の価値を授かるのは、究極的なお方である神に仕えてこそだ、とはっきり断言します。それによって富はマモーンとしての力を失う代わりに、富のもつ本来の役割を再発見されるというのです。その証しとして人の子イエスは実に麗しい「野の花・空の鳥」の物語を語ります。「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」。わたしたちは目の前に金貨を積まれたところで、その金貨がただちに食べ物になるなどとは考えられません。また食糧難の世には「たけのこ生活」といって上等な着物を農村で食べ物に換えてもらうという事態すら生まれました。「栄華を誇ったソロモンでさえ、この花の一輪ほどにも着かざってはいなかった」とあります。ダビデの息子のソロモン王は確かに統一王国を繁栄に導きましたが、それでも美しさは野の花一輪にも及ばないと語ります。日照りの中、暴風雨の中、散ってしまいそうな花びらが、やがて陽の光とともに、滴にきらめく様子をわたしたちは知っています。そこには底知れぬ感動があります。

 今わたしたちの周りでは参議院選に向けて街宣車が走り回っています。あるマイクでは給付金、あるマイクでは減税を叫ぶ声が聞こえます。しかしその背後には、生活保護や医療費をめぐる外国人差別があたかも当たり前であるかのように叫ばれ、暮らしの不安を抱える人々は石を投げつけるかのような言葉をまき散らしています。

 わたしたちはこのような実に危うそうに見える社会にあって、そのような憎しみに駆られそうな人々がイエス・キリストに示された神の恵みに注がれるよう、身も心も神の愛に満ちあふれてまいりたいと願います。イエス・キリストは「人々の噂に惑わされないようにしなさい」と世の終わりに何が起こるか気が気でない弟子たちを冷静に諫めました。「あなたがたは鳥よりも価値のあるものではないか」と人の子イエスが語るのは、いのちの序列を論じているのではなくて、女性であれ男性であれ、様々な多様性をもつ人々であれ、民であれ、こどもであれおとなであれ、特性をもつ人であれすべての人は老若を問わず神の似姿として創造されており、だからこそ主の御前に生きとし生けるものへの連帯責任を無条件に授かるがゆえに尊いとの証しです。マモーンへの囚われは他者への比較と見下し、またはその逆転現象としての妬みや不平しかもたらしませんが、主なる神へと眼差しを向けたとき、人の作った社会の中に暮らしながらも、その社会の枠組みを大きく超えるいのちの広がりに気づかされるのです。わたしたちはイエス・キリストに根を下ろしています。豊かな花と実りを授かりましょう。

2025年7月4日金曜日

2025年 7月6日(日) 礼拝 説教

   ―聖霊降臨節第5主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「神の言葉に打ち砕かれて」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』5章33~37節
(新約8頁)

讃美=21-436(515),522,Ⅱ-171.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が自らの民と結んだ誓いとは何か。今朝の『聖書』では『レビ記』19章12節に「わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。互いに欺いてはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である」と「昔の人の言い伝え」として伝えられる中で文言が変えられていったであろう「聖句」があります。しかしこの「誓い」を考える上で示唆に富む物語が『旧約聖書』『士師記』にあります。『士師』とは「裁き司」とも呼ばれますが「士」「師」と漢字を分け、その文字のつく職業を考えますと合点のいくところです。いずれも目に見えない特別な信頼関係を前提にしなくては成立たない、いのちに関わる職種であり、『旧約聖書』の物語ではイスラエルの民がまた国の体をなさなかったころ、パレスチナの土地の豊かさの虜となり神を見失い、異民族からの干渉を受けますと民の中から召し出されるのが士師と呼ばれる人々がいます。士師の采配によって民衆は神の約束を思い出し、群れには秩序が回復するが、またその秩序が乱れると新たな士師が現れるといった次第です。

 その中にエフタという人物がいます。エフタは遊び女のこどもでしたから、家督を継げず、その時代のならず者、イスラエルの民の部外者(アウトサイダー)とともに日々を過ごしていました。この部外者集団のもとにイスラエルの民の長老がやってきて、武力で干渉してきた異邦の民と戦って欲しいと願います。エフタは「あなたたちはわたしをのけ者にし、父の家から追い出してではありませんか」と抗議しますが、終には長老の願いを聞き入れ、異民族の中でも力のあるアンモン人と戦うと決意します。しかし相手は容易に屈しません。そこでエフタは主に誓いを立てます。「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、わたしがアンモンとの戦いから無事帰るとき、わたしの家の戸口から迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を焼き尽くす献げ者といたします」。果たしてアンモン人はエフタの軍門に降り、勝利の喜びに満ちた凱旋を祝いエフタの家から出て来たのは、父の勝利を祝う実の一人娘でした。エフタは衣を引き裂きながら「取り返しがつかない」と嘆きます。しかし娘はその誓いを受け入れ、友とともに二ヶ月のあいだ山々をさまよい、父の命じるままにされたとのことです。

 アブラハムが息子イサクを神に献げる物語と根本から違うのは、アブラハムの場合、主なる神の命令に従ったに過ぎず、いわゆる人身御供を望まなかったのに対して、エフタは自ら神に誓い、その悲劇を自ら招いてしまったところにあります。イスラエルの民には戦いへの勝利は喜びでしたが、エフタは人として最も尊くかつ基となる家族を勝手に担保にし、その結果に衣を引き裂き涙するばかりでした。人の子イエスがこの物語を知らないはずはありません。人の立てる誓いは完全ではなく、時に互いの都合のかけひきでもあり、その陰で涙する者が必ずいるはずだとの理解。

 だからイエス・キリストは語るのです。「『天にかけて誓うな、天は神の玉座』。『地にかけて誓うな、地は神の足台』。『エルサレムにかけて誓うな、そこは大王の都』。『頭にかけて誓うな。髪の毛一本すら白くも黒くも出来ないから』。あなたがたは『然り』には『然り』、『否』には『否』とだけ言いなさい」。

 しかしこの破れにまみれた誓いよりも、「然り」には「然り」、「否」には「否」と答えるほうが、よほど困難な時と場合があります。何らかの力関係があったときに、本来は「否」と言うべきところを「然り」と答えてしまう。また反対に「然り」と言うべきところを「否」と答えてしまう。人の子イエスが身柄を拘束され、大祭司の家でと連れていかれる夜、鶏が三度鳴く前に、ペトロはその関わりを問われましたが「然り」と言うべきところを「否」と答えてしまうのです。思えば誓いに関しても、「否」か「然り」かどうかを答える場面にしても、わたしたちは十全に向きあうことなく、自分の身にその責任を負わずに、他人のせいや諸般の事情のせいにしてはいないでしょうか。ここにわたしたちが実際に身に帯びている罪そのものがあります。それは遺伝するものでもなく、因果応報でもありませんが、わたしたちが破れを抱えた人間であるその身の程を忘れると、それこそ取り返しのつかない過ちに繋がりかねません。

 しかし人の子イエスの声は、そのようなわたしたちに「もう一度やり直してご覧なさい」と静かに語りかけます。『マタイによる福音書』では、様々な過ちの結果自らを遠ざけていった弟子に向けて「ガリラヤへ行きなさい」と語りました。それこそ、救い主を前にして粉々に打ち砕かれた人々が、新たにイエス・キリストとの再会を果たす場所です。そしてその後には、キリストが自らを通して証しされた神の愛による希望がいつまでも消えずにわたしたちを照らしています。世にある責任をそれとして尊び担う中で、神の愛は時にはさわやかな風となって、わたしたちのいのちを潤してくださいます。神がお立てになった誓いはとこしえに立ちます。その誓いは決して揺るぐことはありません。

2025年6月27日金曜日

2025年 6月29日(日) 礼拝 説教

  ―聖霊降臨節第4主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「掘り起こされた塩、闇を照らすともしび」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』5章13~16節
(新約6頁)

讃美=21-505(353),21-504(285),21-26.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

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【説教要旨】
 食塩と申しますと、(株)日本たばこ産業塩事業センターの規定では「食塩」とは塩化ナトリウムが99パーセント以上の商品を指します。ただしこれは精製の結果生じた物質を基準にして定めた数値。1997年以降、塩の販売が自由化に踏み切ってから様々な塩が販売されています。抗がん剤や透析で腎臓を患っている方には勿論厳禁ですが、他方では「塩分控え目」の調味料には添加物が含まれます。これも決して安全な食品とは言えません。天日製塩や釜焚製塩は海水を素朴な仕方で乾燥したり煮詰めたりしますので天候に左右され生産量も安定しません。だからこそ、塩=塩化ナトリウムではなく、様々な天然ミネラルも含んでの結晶こそがはじめて「塩」だと言えます。

 さて『新約聖書』の舞台では塩はどのような用途で用いられ、この塩を真っ先に手にしたのは誰でしょうか。初期の共和制ローマの中産階級や無産市民の場合、手当てとして塩があてがわれていました。貴重品でもあり、持ち運びが可能でしたのでそのように用いられていたと申します。『新約聖書』成立の時代には貨幣が流通しますが、それでも現金のない場合には塩も併せて用いられたと申します。ヨルダン川が流れ込むところには「死海」があり、そこには天然塩の塊がいたるところにありましたから、天然資源の採掘場として死海周辺はローマ帝国には貴重な場所だと言えます。逆に言えば、土地の人々は鉱山奴隷の犠牲のもと天然資源を収奪されていました。

 それでは地域の人々はどのようにして塩を手に入れたというのでしょうか。もちろんそのような事情ですから金銀の代わりにというよりは鶴嘴や鍬をもって地面から懸命に掘り出したことでしょう。木陰は涼しい土地ですが陽射しは強く身体の水分は汗としてすぐに失われてしまいます。猛暑の中身体を動かした方であればシャツに汗が含む塩分が白く残る様を御覧になったかと申します。ですから肉体労働に従事する人々にはとりわけ健康を維持するためには水だけでなく岩塩に含まれるミネラルが不可欠だったに違いありません。畑を耕しながら舐める塩の味は散漫な注意力を引き締めてくれますし、ぼんやりとした気持ちに活を入れてくれます。

 また防腐効果についても人々は経験則から学んでいたに違いありません。あらゆる保存食に必要とされたのは塩分、そしてその塩気です。山羊や羊などの家畜も健康を保つためか好んで塩を舐めようとします。どうして人の子イエスは、塩になぞらえて神のわざを伝えようとしたかと言えば、粗製な塩しか入手できない暮らしを前提とした人々がいればこそであったのではないでしょうか。神の愛のわざは人々の交わりのなかに反映されます。そのような反映がなければ、例えば『ヤコブの手紙』が指摘するように、教会の交わりの中にこの世の尺度が安易に持ち込まれ、教会ならではの味つけが失われてしまう事態を招きます。『マタイによる福音書』が成立した背景の教会の危機でもありました。わたしたちの教会では?と各々問いかけられている思いがいたします。

 さらに「ともしび」と申しますといかにも煌々と闇夜を照らすかのイメージがありますが、福音書の世界で用いられる「ともしび」の場合、今でいう蝋燭のような灯りは用いられません。皿に入れた植物油に布の切れ端を浸してつけるような辛うじて暗がりを照らすぼんやりとした灯りに過ぎませんでした。しかしだからこそ部屋の中の燭台において、その光が暗がりのなかで何とか最大の光量となるように人々は工夫したことでしょう。隙間風が吹けばすぐ消えてしまいそうになる灯り。しかしそのような灯りがあるお陰で、わたしたちは不安や恐れから解放されてまいります。さらに『マタイによる福音書』は6章22節で語ります。「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身は明るい」。「ともしび」には、照明器具としての役割だけでなく、神の力に活かされているわたしたちの喜びが重ねられます。「濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」。わたしたち現代人はあまりにも人工的な濃い味、宇宙空間からも見える富める国の輪郭を照らすほどの強い光に縛られて、そのありがたみが分からなくなっているようです。

 イエス・キリストが語りかけたのは、その時代には決して裕福な暮らしを過ごしてはいない人々でした。そのような人々にこそイエス・キリストは「わたしを見つめていなさい」と語りかけたのだと強く思います。

 外見上どのように見えたとしても、あるいは自らの可能性を決めつけたとしても、主なる神はわたしたちの頑なさを砕いてくださいます。そしてわたしたちにある「よき塩」を掘り出し、また「ともしび」が消えないよう絶えず手をかざしてくださいます。イエス・キリストとわたしたちの絆とはそれほどまでに堅いのです。

2025年6月21日土曜日

2025年 6月22日(日) 礼拝 説教

   ―聖霊降臨節第3主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「神には決して『無駄』はない」
稲山聖修牧師

聖書=『使徒言行録』17章30~34節
(新約248頁)

讃美=21-405(225),21-516,21-26.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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【説教要旨】
 今朝わたしたちは神の愛の力に押し出されてイエス・キリストの教えと生き方を伝え、種々の困難を経ながら、その困難が重なるほどに広まる交わりを描いた『使徒言行録』を開いています。とくに使徒パウロがその生涯で第二回目の宣教の旅の途中、立ち寄ったギリシアの都市アテネでの出来事が記されています。

 『使徒言行録』の眼差しは使徒の働きによる初代教会の形成とその広まりに関心を寄せてはおりますが、その背景にはその時代には教会のわざが今日のような時に大々的なものではなかったことが記されます。ウェストミンスター大聖堂やノートルダム大聖堂などこの箇所には登場しませんし、教会が地域の重要なインフラとして機能しているわけでもありません。むしろこの時代ではギリシアの哲学や思想の影響が極めて強く、文字の読み書きのできる人々の心をつかみ、その雰囲気にもなっていました。パウロはその渦巻きの中心にあたる都市アテネに飛びこみます。

 ところで古代ギリシアが民主制を敷いていたという理解がありますが、それは今日の民主制とは全く異なります。労働は奴隷に任せる一方で政は市民が話し合い重要事項を決定するというしくみ。それが古代ギリシアの民主制でした。話し合いの広場であったアレオパゴスという広場にパウロは赴くのです。場に居合わせているのはストア派やエピクロス派といった世との関わりを実に消極的に捉える人々でした。この人々には肉体は精神が乗り越えるべき欲の根源であり、その肉体を精神が自在に制して初めて魂の救済が定まるという理解に立っていました。パウロはその町で、苦難のなかで十字架刑に処された後、霊肉ともに死の闇から復活されたイエス・キリストに根を降ろして活かされる喜びを語ろうとします。しかし絶えず理解を求める多くの人々には新しいいのちへの飛躍ともいうべき復活の出来事を告げ知らせるメッセージに躓いてしまいます。

 確かに復活という出来事はわたしたちには有無を言わせず迫る出来事でもあります。しかし他方で人生のすべてに説明がつくというのもいささか浅薄な気がいたします。散々言葉を紡いだ挙句、その最後には「理屈ではない」というお話は、時に詭弁の誹りを免れませんし、人の心を激しく動かしもいたしません。『聖書』の言葉はその意味では実に丁寧で、当事者として言葉にできない出来事を後から振り返りながら物語として懸命に紡ぐという姿勢を一貫して崩しません。パウロは律法学者として『新約聖書』もなく、壮麗な大聖堂ももたなかった時代のキリスト教徒を弾圧するためシリアの都市ダマスカスに赴く途中、雷に打たれたかのように自らの名を呼ぶキリストに「目が見えなくなる」という仕方で出会い、目覚めました。その体験に根ざす喜びを何ら臆せずにアレオパゴスに響かせ語るのです。

 このアテネでの伝道を、後の世、とりわけ現代の人々のなかには「失敗した」と結論づける者がいました。「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った。それで、パウロはその場を立ち去った」。しかし『使徒言行録』はパウロの働きを「成功した」とも「失敗した」とも語りません。そのような成果主義では推し量れない時が静かに訪れていました。

 それは「パウロについて行って信仰に入ったアレオパゴスの議員ディオニシオ」「ダマリスという女性やその他の人々」がいたという事件です。ギリシアの都市は城壁がありました。そのなかで様々な市民の特権が保証されていたのです。もしこの「議員や女性、その他の人々」が心の壁を越えていったとするならば、ディオニシオもダマリスもそれまで持っていた特権をすべて投げうって、キリストに従う道を選んだこととなります。奴隷に支えられた自由な市民生活というこれまでの支えは通じない世界に飛びこみました。もはや特権階級でもなく、奴隷でもない人々。世にある人々の目からすれば得体の知れない教えに導かれていったとの誤解を多く受けたことでしょう。しかし人が売り買いされるなかで得た仮初めの自由よりも、この人はもっと広くもっと天高い世界へと羽ばたく自由を授かりました。

 わたしたちはそうとは気づかないまま自らの常識や倣いでもって『聖書』を読み込もうとします。そのときに「理解できない」「分からない」という理由でもってその扉を閉じてしまう時もあります。アテネの市民の大多数がそうでした。けれどもむしろ、わたしたちには「理解できない」「分からない」からこそ『聖書』の言葉とともにあゆみたいものです。復活の出来事が示すいのちの連なりや重さは人の理解を超えています。しかし神がなさるわざに一切の無駄はありません。若くても齢を重ねても「人生曰く不可解」だからこそ胸は高鳴ります。『聖書』の言葉を胸に秘めながら出会う日々。キリストを通した神の愛のわざのなか、人の言葉で記された『聖書』は神の言葉になるのです。

2025年6月13日金曜日

2025年 6月15日(日) 礼拝 説教

  ―聖霊降臨節 第2主日礼拝―


時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「イエスは必ず生きづらさを分かちあう」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』11 章25~30 節
(新約20頁)

讃美=21-351(66),Ⅱ.191,21-26.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
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【説教要旨】
 大分前、春から夏にかけての話になります。帰宅いたしますと、伴侶が韓国のチジミを夕食に出してくれました。実に瑞々しい香りがいたしました。尋ねますと、付近の公園にセリの群生地があって、そこから摘んできたとの話でした。現在、伴侶は緊張した場面では一度に二つの単語までしか話せません。何かを話してそれが誤解をもたらさないかどうかが不安で仕方がないとのことでした。けれども、それでも一人草むらや自分で手を入れたプランターで採れたハーブを用いては、黙々と家事をしながら礼拝に出席する備えをしているようです。

 伴侶に限らず、生きづらさを抱えた人は教会員の方々にもおられるでしょうし、こども園の職員や保護者にもおられることでしょう。ましてやこの物価高のなかでどのように暮らせばよいのか思案しているうちに心身のバランスを崩したり、職場の人間関係に行き詰まったりする人は後を絶ちません。なぜ電車の人身事故が絶えないのでしょうか。「人間関係を言い訳にするなど甘すぎる」との言葉も聞こえますが、果たしてそうなのかと考えます。種々の生きづらさや心の病はその人個人の問題というよりも人間関係に内在しており、個人の態度や根性といった言葉では必ずしも十分には表現しきれないように思われるからです。もしそのような言葉が用いられるとするならば、それは何らかの差別的な態度を示しているようにも思えます。

 わたしたちは聖日礼拝で『聖書』を開きます。そしてそこでイエス・キリストの生き方に触れ、またその教えに問いを投げかけられます。しかし他方でイエス・キリストの生き方に従おうとする人は世にあって何らかの生きづらさをすでに抱えている人か、またはあえてその生き方に巻きこまれた人に絞り込まれてまいります。それは何かの選民意識やエリート意識に基づくのではなく「そうせずにはおれなかった」という意味での選びに基づいています。自分で選んだとの自分を中心にした選択での生活は長続きしませんが「そうせずにはおれなかった」というあゆみの方が、周囲の交わりに支えられているだけに思いのほか主にある生涯を全うするかもしれません。

 本日の箇所で人の子イエスはまず天の父をほめたたえます。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父の他に子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」。父の他に子を知る者なく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいないと語るイエス・キリスト。『マタイによる福音書』の書き手集団が示そうとしているのは、父なる神こそがメシアを示すのであって、世にある人々にそれは隠されているという話です。平たく言えば「メシアの秘密」となるのでしょうが、この話に即するならば、どれほど教えを語ろうとも、人々を癒そうとも、神の愛を証ししようとも、時が満ちるまでは「キリストは誰か」という重大事は常に隠されているという話です。人の子イエスはこの孤独のなかで父なる神をほめたたえ、神とともに苦しみぬいたのです。そしてその孤独とは、イエスと出会い、交わりを授かった人々の苦難でもあります。「この苦しみには何の意味があるのか」。耐えがたい生きづらさを抱えて一人佇む人に向けてイエス・キリストは語りかけます。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」。イエス・キリストはわたしたちに「疲れた者、重荷を負う者はわたしのもとに来なさい、休ませてあげよう」と語っても、全ての重荷から解放するとはひと言も申しません。そのようなインスタントな安っぽい恵みについては触れません。しかし、あなたを疲れさせ、重荷となる重圧の代わりに「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と話します。軛とは二頭の牛や馬が御者の手綱から離れないように肩にかけられる枷を示します。イエス・キリストが、わたしたちの重荷をともに担ってくださっているのです。その姿はどのようなものか。それは突如ローマ兵に無理矢理十字架の横木を担がされたキレネ人シモンのごとくであります。わたしたちは、すでに有無を言わせない仕方で、イエス・キリストの軛をともに担っています。それこそがわたしたちが生きづらさをイエスと分かちあい、生きづらさを通して新たな出会いと交わりを育む鍵となります。「それは無理だ」と怖じ惑う必要はありません。イエス・キリストが示した神の愛である聖霊のわざを通して、わたしたちは大切な人の生きづらさを排除するのではなく、そうだねと肯定できるのです。アーメンとの呟きが静かな喜びとともに湧いてまいります。

2025年6月3日火曜日

2025年 6月8日(日) 子どもの日(花の日)ペンテコステ礼拝 ライブ中継

―聖霊降臨節 第1主日礼拝―

―子どもの日(花の日)ペンテコステ礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「神様の愛に背中を押されて」 
稲山聖修牧師

聖書=『使徒言行録』2 章1~4 節 
(新約214 頁)

讃美=(改)こどもさんびか106,
「ワワワいっしょに」,21ー81,
(改)こどもさんびか114.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は、今回は「ライブ中継」
のみとなります。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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2025年5月30日金曜日

2025年 6月1日(日) 礼拝 説教

―復活節 第7主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「キリストに祝福される世界」
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』24章44~53節
(新約161頁)

讃美=158,21-530(403),21-26.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
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方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 ある人が地上の生涯を全うしたとき、わたしたちはその人が亡くなったとはあまり申しません。どのような道筋であれ、その場合は「天に召された」という表現を用います。実に言い尽くしがたい荘厳な響きをもちます。

 この「天に召される」という表現と、イエス・キリストの昇天とは全く異なる次元に立ちます。イエス・キリストの場合は、自ら世に遣わされ、救い主として人となり、地上の生涯を十字架で苦しみの極地のなかで終えられ、葬られた後に復活されて、そして自ら天に昇るという意味で「天に召される」のではなく「天に昇る」と唯一無二の仕方で書き記されます。しかし『ルカによる福音書』また『使徒言行録』に記されるキリストの昇天の様子を視覚的にそのまま表現したところで、却ってその書き手集団が伝えようとしているところが何であるのか、却って見失うような気がしてなりません。

 まずわたしたちは、世に遺された弟子たちの立場にあわせて「キリストの昇天」の出来事に思いを馳せてみましょう。イエス・キリストは、魂だけではなく心身ともに併せて復活されました。それは本日の箇所の直前に「わたしは亡霊ではない」と弟子に語りかけながら、復活を喜ぶ弟子たちから差し出された焼き魚を食べたとの記事から分かります。この箇所での焼き魚とは、ガリラヤ出身の人々が長旅をする折に携行していたお弁当であり、もっとリアルな言い方をすれば旅人が食する目刺しのようなものです。つまりイエス・キリストが正真正銘弟子のもとに帰ってきた証しとなるわざをいたします。さてその次にイエス・キリストは自らが『旧約聖書』に記されたメシアであると宣言します。このときに弟子の心の眼が開きます。これまで弟子を慄かせていた「救い主の受難と十字架での死、そして復活の告知」はようやく喜びのメッセージ、すなわち福音となります。そしてあえて弟子をエルサレムの都へと留まらせ、神の国が訪れるその行く末にいたる伝道の豊かな可能性を述べます。そしてベタニアのあたりまで行かれ、手を上げて表向きには弟子を祝福しながら天に昇るという流れになります。

 わたしがなぜ「表向きには」と申したかと言うと、この時点でイエス・キリストによる祝福は、弟子の器を溢れて全世界に及んでいるものだと受けとめたからです。確かにイエス・キリストの姿は、もはやかつての人の子イエスのように地上にはありません。一見すれば「人の子イエスはいなくなってしまった」という深い挫折さえあってよさそうなものですが、弟子はみな神殿の境内に戻り、神をほめたたえていた、とあります。それは、すでにイエス・キリストとの深い関わりが定められているところから来る安心感ではないでしょうか。

 これまで弟子は人の子イエスの言葉の意味も、その行う癒しのわざの真意も分からないまま、十字架への道にいたってはほぼ全員がイエスのもとを離れるという無様な姿を晒しました。その遺体をひきとったのはファリサイ派の議員でイエス擁護の立場にいたアリマタヤのヨセフであり、弟子ではありませんでした。その胸に深く刺さるような痛みと後悔のもとにのみ弟子が留まっていたのであれば、『使徒言行録』に記されるところの世界宣教、そして今日まで続くそのわざは起きるはずがありませんでした。

 イエス・キリストが世から人の手の及ばなくなるところに行かれるところで授けられた祝福。それはこの争いに満ち、悲しみに満ちた世界への祝福となります。本来は祝福に値するところではないはずのところに及ぶイエス・キリストの祝福はすべての疑いを打ち破ります。そして残虐な衝動、人格を認めない歪みから人を解き放ちます。その意味で申しますならば、福音とは絶えず世にある囚われから解き放たれて、キリストの祝福を週ごとに、日毎に自覚するところから始まるのではないでしょうか。神の愛の深い関わりがそこにはあります。

 人は変わり、世は移ろい、教会もまたその姿を少しずつ変えてまいります。そのようなわたしたちが天を仰いで見つめるなかで感じるのは、かつて弟子達もまた同じ姿で頭を上げたという、その追体験です。イエス・キリストの姿が地上より失われてから、弟子はその存在を感じつつ、やがて起きる聖霊降臨の出来事へとその舞台を移します。時にそれは亀裂に満ちている乾ききった大地に潤いの雨が降り、豊かな川の流れとなります。時によってそれは激流によって流された橋に代わって天には虹がかかり、必ず主の平和が訪れるとの約束を示します。沈黙を余儀なくされていた人と人との間に、豊かな語らいが再び芽生えてまいります。誰も好き好んで人を傷つけ殺めるなどの行為はできないものとして神は人を創造されています。その神の良心の種を、主イエスは今も撒いておられます。人の手の及ばぬところへの祝福は、聖霊の働きとして今もなお関わり続けているのです。

2025年5月23日金曜日

2025年 5月25日(日) 礼拝 説教

―復活節 第6主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「人の子イエスの祈り」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』6 章5~15 節
(新約132頁)

讃美=308,21-512(326),21-29.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
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【説教要旨】
   加持祈祷によって手に負えなくなった病を癒そうとする。また心病んだ人の具合を癒すためにまじないを行う。いずれも日本社会では今も残るところの、しかし表立っては姿を見定めがたい民間療法にも似た振る舞いがあります。いずれにいたしましても医療技術が今日のようにではなく、また医療技術からは排除され追い詰められた人々が群がる場所が今でもあります。

  そのような人々にとって今日「神」という言葉がどれほどの響きをもつというのでしょうか。もちろん戦争によって多くの犠牲のうちに前途の展望を絶たれ、焼け跡に佇む人々には「大丈夫、神さまがいてくれる」との言葉は格別の響きをもったことでしょう。しかし現代のわたしたちの身近に暮らす人々にその声はどれほどの力をもって迫るというのでしょうか。年齢を問わず部屋にひきこもる人々にその言葉は通じるというのでしょうか。

  人の子イエスが群衆と弟子に教えられた祈りとは、その時代におきましても、現代におきましても、そのあり方を根底からひっくり返すわざでした。6章の5節では、それまでの教えを踏襲して、他人の承認を拒むところの祈りです。「偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている」。承認欲求を満たすために限られた祈り。当時でいうところの「偽善者」とは形式化された祈祷書をもとにして祈りを献げるサドカイ派を始めとした祭司階級の人々に見られがちな祈りでした。かつてモーセとアロン、また預言者たちがイスラエルの民のために血肉を振り絞るように献げた祈りとは異なる、生活や暮らしの流れとは全く関わりのない祈祷は呪文と同じ。人々に畏怖の念を与えこそすれ、神との関わりにいのちを吹き込み、その関わりを活きいきとさせるわざにはなりづらいところがあります。せいぜい何かの合図といったところではないでしょうか。反対に人の子イエスが伝えようとした祈りとは他人の目には触れないところの祈りです。本来であればエルサレムの神殿にも大祭司しか立ち入れない至聖所という場所があり、そこで聖職者が祈りを献げるわざが尊ばれていたのですが、本日の聖書箇所からするとエルサレムの神殿の至聖所もその機能が十分には果たせていなかった可能性もあります。さらに人の子イエスの祈りは、神に人の願いを叶えてもらおうとして献げるものでもなさそうです。神が人を救うのであって、願いを叶える便利な神を人が作ったわけではないからです。

  イエス・キリストが伝えた祈り。それが本日の箇所、「主の祈り」の雛形ともなる教えの内容となります。この箇所で人の子イエスは、一度も「神」という言葉を用いません。あまりにも祈祷文の中で書き記された言葉は、人々の生活文脈に適さないどころか、理解適わず、暮らしに全く響かなくなっていたとも申せます。その代わりに用いられたのが「父」という言葉。現代からすれば種々の批判に晒されそうな文言でも、その時代に立てばなるほどと膝を叩ける言葉です。本当のところ、言葉のニュアンスは「お父ちゃん・おとん」。現代に較べてはるかに肉体を酷使した時代、治安の悪かった時代。公私ともに父親が家族のために犠牲となる場面は今以上にあったと思われます。またローマ帝国の軍隊では、キリストが十字架を担ぐ際にキレネ人シモンを徴用したように、旅に出た父親が問答無用で拉致される事件も多かったことでしょう。現代以上に母と子だけの家庭が多かった世にあって「父」とはいかなる存在だったか。そう言えば人の子イエスの父ヨセフも静かに福音書の表舞台から姿を消していきます。「父ちゃん」という言葉から、心から希望を必要とする人々と『旧約聖書』に記されたアブラハムの神との関係の再構築が行われます。もはや祈祷文ではなく、人々の暮らしそのものが祈りとして祝福され、そのままの姿で聖化されていきます。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる」との一文はさらに決定的です。他人から受けた痛みや苦しみを「神なるお父ちゃん」に棚上げするならば、日々の暮らしの中で深く負い目を抱えていながらもお父ちゃんである神は憎しみから解き放ち、前を向かせ、抱きしめてくださるとの理解に繋がります。そうなのです。本日の箇所で描かれた「お父ちゃん」である神とは『ルカによる福音書』15章に描かれる「放蕩息子の譬え」で描かれる父親としての神でもあります。さまざまな事柄に挑戦しながらも失敗を重ね、物乞い同然の姿で家に戻ってきた息子を、誡め通りのあゆみをたどった兄とともに、兄弟同士のわだかまりを温かく宥めながら豊かな交わりをともにする父親なのです。そのような「父なる神」を人の子イエスは示しました。ひきこもりの襖を開けてその懐にとびこんでいきましょう。

2025年5月15日木曜日

2025年 5月18日(日) 礼拝 説教

  ―復活節 第5主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  


説教=「悩みごとをうけとめるには」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』14 章1~9 節
(新約132頁)

讃美=21-466(404),520,21-29.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 悩みごとを抱えて夜も眠れないという方が本日の礼拝にはおられるかもしれません。また中継動画をご視聴の方にもおられるかもしれません。親の行く末、子の行く末、わが身の行く末などを案じればきりが無いと言われる人もいるかもしれません。ただし事実ここしばらくのゴールデンウィーク明けと申しますのは、心療内科クリニックがフル稼働せずにはおれない時を迎えています。『牧師閉鎖病棟に入る』『街の牧師 祈りといのち』『弱音を吐く練習』と連続してベストセラーをものしている王子北教会の沼田和也牧師は自ら心を病みながらもそれまで社会はおろか教会の会衆席にも座る場所のなかった人々に光をあて、悩みをめぐって言葉を紡いています。
沼田牧師の選んだ道とは「悩んではいけない」と単純に思い悩みや心の病を否定するところからは始まりません。むしろ悩みを抱え続けているその態度に主なる神から託された価値を見出そうとします。弱音もこぼれましょうし、周囲も巻きこむことでしょうが、それでも思い悩みを否定するのではなく、また『聖書』にそう書いてあるからと悩むわざそのものを否定はされません。むしろ自ら抱え込むほかなかった悩みを、イエス・キリストを通して神に棚あげするというあり方も考えられるというのです。

 精神医学者の野田正彰さんは青少年犯罪者の生育環境の共通点として、仏壇や神棚など手を合わせる場所が屋内にないと指摘されますが、沼田和也牧師のお考えは野田さんの逆を行きます。わたしなりの理解に留まりますが、神棚に献げられるのは榊やお札、盛塩などでしょうが、そのように神棚に「清らかなもの」を献げるのではなく、「思い悩み」「思い煩い」という実に重たい、くさい臭いがしようがベトベト汚かろうが背負わされたどす黒い塊を委ねてしまえというのです。そして後は敢えてそのまま放置するのも一つの道であると語っているように思います。

 悩みごとをうけとめる人が自らを客観視するため良心的な精神科医と対話するのはよくあることですが、ただの対話ではなかなか客観視は難しいところ。その苦しみは『聖書』の世界では「悪霊に憑かれた」と表現されるのでしょうが、「苦しみを分かちあう」という道筋を示してくださったのが他ならぬイエス・キリストです。

 本日の『聖書』の箇所の続きには、「わたしが父の内にあり、父がわたしの内におられることを信じないのか」との言葉が続きます。わたしたちの思い悩みをイエス・キリストがうけとめ、キリストの苦しみをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が受けいれられるという、イエス・キリストとわたしたち、そして父なる神がお互いに苦しみを担い、いつか善きものに変えてくださるとの約束が記されています。
どのようにわたしたちを苦しめる者や原因があったとしても、そのような苦しみや悲しみもまた主なる神の知るところです。いわんやそれが神罰だというような理解は『聖書』には描かれてまいりません。だからこそ刑務所に服役されている人も、重い借金を抱えている人も、入院されている人も、そのただなかで、時には世代を経て主なる神に向けて顔をあげる時を備えられます。今解決できない案件を急いで解決しようと悶えなくてもよいのです。

 思えばイエス・キリストの癒しの物語や譬え話に登場する人々は、さまざまな人間的な破れを抱えています。徴税人であり、もともとは相応の財産をもってはいたものの、度重なる診察費で貧困生活を強いられるようになった流血の停まらない女性、仕事の効率からすれば放置した方がよいのにも拘わらずひたすら迷い出た一匹の羊を追い求める羊飼い、銀貨を無くした女性、大勢の金持ちが献金をこれ見よがしにする中で銅貨一枚を献げる女性、重い皮膚病に罹患し事実上の隔離を余儀なくされている人々、悪霊に憑かれたと言われ長らく墓場で暮らしていた人々。中風を患い仲間に戸板で運ばれてきた人、視力を失い、聴覚を失い、言葉を失った人々。誰もが救いの絵をギリシア人の感覚で美しく描こうとするならば、みな不要であると排除されていった人々です。しかしそのような人々の痛みや苦しみをわがこととしてお引き受けになったのがイエス・キリストです。「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げものとした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる」。『イザヤ書』53章の「苦難の僕」の詩です。眠れられない夜が続くならば、服薬も大切ですが、祈りの中イエス・キリストに課題を棚上げするのはいかがでしょうか。それこそ「委ねる」あり方と表裏一体のわざです。悩みを恐れず、病を恐れず、あゆみを重ねてまいりましょう。

2025年5月8日木曜日

2025年 5月11日(日) 父母の日礼拝 ライブ中継

―復活節 第4主日礼拝―

――父母の日礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
演奏とメッセージ
オカリナ演奏:佐々木一真先生 
マリンバ演奏:可児 麗子先生 

メッセージ=「森の詩(うた)からの調べ」

聖書=『ルカによる福音書』12 章 22~25 節
(新約132頁)

讃美= 312.こどもさんびか132,21-29.
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2025年5月2日金曜日

2025年 5月4日(日) 礼拝 説教

―復活節第3主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「愛するために生き直す」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』12 章38~42 節
(新約23頁)

讃美=21-327(151). 
21-464(534).21- 29(544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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【説教要旨】
 『旧約聖書』の記事には、少なからず都市、時には世界が滅亡するという物語が描かれます。現代人からすれば現象からすれば自然災害であったり戦争の結果に破壊されたりという理解へとつながるのかもしれませんが『旧約聖書』の書き手はそのように出来事を年表形式で淡淡と書き記すのではなくて、主なる神からの何らかのメッセージが込められているとして描かれます。もとよりその滅亡の出来事が他人事であれば感情移入のない記録文も可能でしょうが『旧約聖書』ではすべてが当事者の目線で描かれているという点では読み手や聴き手を引き込む力をもっています。「天地創造」を含む物語では「ノアの箱舟」、「族長物語」では「ソドムの滅亡」、預言者の物語では「イスラエル王国」「ユダ王国」の滅亡、さらには「エルサレム」の滅亡までが極めて精緻に描かれます。いずれにしても「滅び」とは神の備えた道からその判断や生き方が次第に逸れていく人々の行着くところとしても描かれているとの一面があります。

 しかしそのような物語が続く『旧約聖書』で極めて異彩を放つのが『ヨナ書』です。『ヨナ書』に細かく立入って語りかける人の子イエスがこの書物に言及するのは、イエスもまた『旧約聖書』に通じていたところを証明する記事でもあります。『ヨナ書』とはアッシリア帝国の都ニネベを救えとの主なる神の言葉を聴きながらもその命令に抗い逃げようとする預言者ヨナの味わう旅とその体験を描いています。わずか四頁ほどの物語ですがその中には『新約聖書』に流れ込む神の愛が記されています。神が救えと命じた都ニネベは、かつてアッシリアがヘブライ人の王国を滅ぼした際、実に残虐に振舞った人々の住まう街として知られていました。成年男子は全身の生皮を剥がされ城壁に貼られ、女性は辱めを受けます。その結果生じたのがサマリアの人々だとされました。ですから預言者ヨナからすれば万死に値する街、滅びに値する街として憎悪の的でしかなかったはずです。しかしヨナが嵐の海で舟の外に放り投げられ、大魚に呑まれて三日目に到着したその都を回りながら悔い改めると、ニネベの街の人々は悔い改め、王もまた救いを求めて生き直そうとします。その姿を見て神はニネベの街を滅びから救うのですが、預言者ヨナには合点がいかず、神と激しく議論するという内容です。

 おそらくはバビロン捕囚以降、ことごとく強大な異邦の民の支配のもとにあって、いつの間にか歪んだ選民意識に捕らわれ始めた古代ユダヤ教の一部の人々と、『旧約聖書』に記されるように、神は自らに似せて創造された「人」をあまねく救われるとの葛藤が人の子イエスの舞台にいたっても続いていたことでしょう。その中での問答として「先生、しるしを見せてください」との言葉が律法学者やファリサイ派の人々から出たに違いありません。しかし人の子イエスは「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるし以外にはしるしのほかにはしるしは与えられない」と語ります。そして自らの弔いの時と魚に呑まれたヨナの時を重ねて、神の国の訪れの時にはニネベの人々もまた「よこしまで神に背いた時代の者たち」を罪に定めると述べるのです。「悔い改め」という言葉は誤解を招く場合もありますのでわたしは本日「生き直す」と言い換えてみます。この「生き直し」というチャンスがある限り、わたしたちはいのちの儚さや虚しさに溜息をつく必要は全くないのです。「誤った道をたどったわたしたちが悪い」のではなくて「誤った道をたどったからこそ、今のわたしたちには生き直すチャンスが豊かに備えられている」との喜びが生まれてきます。その「生き直し」の喜びを示してくださるのがイエス・キリストであり、ソロモンの知恵を尋ねに遠く旅してきたシェバ(エチオピア地方)の女王はユダヤ教徒ではない「諸国の民・異邦の民」でありましたが、だからこそそこにもまた神の祝福が豊かに臨んでいるとのメッセージをイエス・キリストは喜びにあふれて語ります。人の子イエスの語る神の愛はあらゆる境を越えてどんなに愚かだといわれようとも、そのようなわたしたちに恵みに満ちた生き直しのチャンスを与えてくださります。
人々を安全・安心な暮らしに導くはずの法律やコンプライアンスが厳密になるほどに、わたしたちの日常はどこか窮屈になるような印象も覚えます。また過去に罪をおかした人が安定した職業に就き社会復帰を果たすわざも決して簡単ではありません。身体も弱り前途に否定的になり、パニックや悪循環に捕らわれもするわたしたちです。けれどもそのようなときに「誰かを愛するために生き直す」「神に愛されているから生き直す」というチャンスを授かる実に豊かな時が備えられているとの『聖書』の言葉に確信をもって新しい週を迎えましょう。

2025年4月25日金曜日

2025年 4月27日(日) 礼拝 説教

―復活節第2主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「買収を拒む兵士たちの姿」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』28章11~15節
(新約60頁)

讃美=21-325(148),21-326(154),21-24(539).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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【説教要旨】
 人の子イエスの埋葬された墓に封印をして厳重な警戒にあたったものの、イエス・キリストの復活の出来事にすべてを台無しにされ「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」番兵たちの姿がありました。喜びではなく絶えず恐怖によって支配されたその判断力は主体性を失い、新たな命令を求めてエルサレムに戻ります。イエス・キリストに出会った女性たちが弟子のもとに到着するより先にエルサレムに戻ったとされるのも、番兵の狼狽ぶりを表わしています。祭司長も長老もその圧倒的な出来事を前にして即答できず、多額の金を与えて「『弟子たちが夜中にやって来て、寝ている間に死体を盗んで行った』と言え。総督の耳に入ってもうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう」と兵士を買収した上で虚偽報告の命令を重ねます。予想もしない出来事を前に言葉を失った名もない、いつでも斬り捨てられる番兵を人間扱いしていない、神の愛とは対極の姿が描かれているようにも映ります。

 実際にこのような虚偽報告や虚偽申告を強要される犯罪は、巧妙な詐欺が身近なところにある以上わたしたちとも無関係だとは断定できません。つい相手を信用したことで人生を棒に振ってしまった人々をわたしたちは直接ないし間接的に知っています。そしてそこには物事を多角的に検証する余裕のないところまでに追い詰められてしまった悲しみを観るのです。イスカリオテのユダでさえ無実の人の子イエスが十字架で処刑される不条理さに耐えきれず銀貨三十枚を手放しました。しかし他方で番兵は金を受け取り虚偽の噂を流すこととなりました。この人々は物事の判断の根を神以外に求めた態度ゆえに自由に語り、動き、仕える充実さと喜びを失いました。とは言えローマの兵士やエルサレムの警護にあたった番兵とはこのような者ばかりだったのでしょうか。

 ひと口に兵士と言ってもそこには個々人の織りなす多様な姿を福音書は描き出します。その描写は決して一様ではありません。人の子イエスが十字架で叫びをあげ息を引き取ったその折、処刑の現場監督でもあった百人隊長、そして見張りを担当した者はその姿を見て「本当にこの人は神の子だった」と呟きます。『マルコによる福音書』では百人隊長ひとりとなりますが、この言葉には地上の生涯にあったイエスに「あなたはメシアです」と答えたペトロとは根本的に異なる態度が示されます。古代ユダヤ教でのメシアは手に架けられて十字架刑で処刑・殺害されるなどあってはなりません。処刑の場に弟子の姿が描かれないのもそのような理由あってかと考えます。しかしかの百人隊長は十字架で息をひきとった救い主の姿を前にして「本当にこの人は神の子だった」と呟くのです。多くの罪人の処刑に立ち会ってきたこの下級将校である百人隊長の言葉の重みは別格です。

 また本日の福音書の8章では別の百人隊長が自らの僕の癒しを人の子イエスに懇願します。その真摯な態度に感心したイエスは「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰をみたことがない」と語ります。イエス・キリストの愛はすでに支配者と圧政を受けている者の末端で苦しむ者双方に及んでいるのです。『使徒言行録』では言わずもがな、キリスト者となるローマ帝国の兵士や将校は後を絶ちません。

 もしもこの番兵たちがその後ピラトから復活したイエス・キリストを追跡するか、さもなければ失われたイエスの亡骸を捜せとの命令を受けたとするならば物語はどのような展開を見せるでしょうか。厳重に封をした墓が弟子に暴かれたのであればそれは番兵の失態でしょうし、極刑に処せられた者の遺体であれば監視者自身が処分されてもおかしくありません。もし番兵が復活したイエスの姿を追い求めていくとするならば、それはいつの間にか祭司長や長老たちの買収への囚われから離れて、イエス・キリストに従うわざへとそのあゆみは変えられ、清められていくものと確信します。もはや番兵たちの判断の尺度は買収の時に受け取った僅かな金子にではなく、出会った人々の語る復活したイエス・キリストの物語に根ざしてまいります。

 最近では若い世代で将来に「お金持ちになりたい」との夢を抱く人々が少なくないといわれるようになりました。金融関係や証券取引、仮想通貨も流行しています。しかしタブレットほどの大きさの金塊を見たとしても、わたしたちの心はそれほど動くでしょうか。それを私物化したいと思うでしょうか。『使徒言行録』でペトロは語ります。「わたしには金銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。きらびやかな財宝よりも強靭な力をわたしたちはイエス・キリストから授けられています。「ディール」という語が独り歩きしがちな世界をイエス・キリストの復活の出来事は揺り動かします。

2025年4月17日木曜日

2025年 4月20日(日) 礼拝 説教

  ―復活節 第1主日礼拝―

―イースター礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「復活の挨拶は『おはよう』」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』28 章1~10 節

讃美=146.21- 575. 
讃美ファイル3番「主の食卓を囲み」.
21- 24(Ⅰ539).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 イエス・キリストの復活の物語ほど、それぞれの福音書の個性が浮き彫りにされる箇所はないと言えます。『マルコによる福音書』の最古の写本では復活のイエス・キリストの姿は直接描かれず、扉の破られた墓を舞台に白い長い衣を着た若者の証言が記されます。『ルカによる福音書』ではエマオという村への途上、復活したイエス・キリストはそうとは知らない弟子と対話しながら旅路をともにし、そのあゆみはやがて『使徒言行録』へと引き継がれます。『ヨハネによる福音書』では墓の外に立ち涙を流すマグダラのマリアに姿を現わします。それぞれの信仰共同体のイエス・キリストの決定的な出来事が露わにされます。それでは本日の『マタイによる福音書』の物語はどこに特徴があるというのでしょうか。

 それは人の子イエスの墓が総督ピラトの合意のもと祭司長の命令により番兵に厳重に封印された墓である、という前置きです。『マタイによる福音書』ではヘロデ王という暴君のもとで救い主の誕生をなきものとするために多くの幼子たちが虐殺された記事があり、絶えずヨセフとマリア、幼子イエスは世の圧政に苦しむ人々と道筋をともにします。そして十字架での死の後に葬られるその最中にも世の圧政は未だに滅びることなく、表向きにはローマ帝国を味方につけた暴君が勝利したかのように映ります。

 しかしその闇に満ち、失意に満ちた静寂は、どのような世の権力でも抗えない力によって打ち破られます。安息日が終り朝日の光に明け初めるころ、大地震が起きたと記されます。その時代には地震とは天地の主なる神のみ可能なわざであると考えられていました。いわば天地もその時代には当然とされていた為政者による圧政も覆されたのです。それが「主の天使」が「天から降って近寄り」「石をわきへ転がした」と今まさに起きている事態として記され墓を封じる蓋が開きます。圧政と権力による封印もこの場面では無力です。これまで『マタイによる福音書』で天使が登場する場面とはクリスマス物語での人の子イエスの父ヨセフの夢の中、そして荒れ野での誘惑を退けた後に仕えるという仕方で描かれましたが、この箇所では「白い長い衣を着た若者」ではなく「天から降ってきた天使」の姿が描かれます。「その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」とは、かつて人の子イエスが山の上で誡めの授与者モーセ、そして神の言葉を預かる預言者エリヤと語らった際に表現される「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」と記事が重なります。反対に番兵たちは恐怖のあまり震えあがり「死人のようになった」とあります。キリストの復活を前にして世の圧政が完全に無力化された事態が示されます。そしてその場にいたマグダラのマリアと恐らくはイエスの母マリアにこの天使は復活の出来事を語りかけ、弟子に「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」と、イエス・キリストと弟子の出会いの原点となった場所へと導きます。そして「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び」と他の福音書にはない言葉が続きます。復活の謎や畏怖について語る福音書の箇所は多いのですが、喜びを語る場面は本日の箇所に絞られます。人の子イエスが葬られた墓は女性たちには過ぎ去りました。このようなあまりにも非日常の出来事が次々と描かれるなかで、この二人の女性の前に復活したイエス、イエス・キリストがその行く手に立ち「おはよう」と至極日常的な、おそらくは十字架で殺害される前にはいつもそうだったように交わした挨拶とともに語りかけるのです。女性たちも弟子もガリラヤへ赴き、イエス・キリストと語らいます。復活の出来事を前にして無力になった兵士たちは、相も変わらずエルサレムで祭司長から買収され、虚偽申告を強要されます。その姿こそが死に体も同然というものです。神の愛の力はこのように圧政に甘んじる者たちを裸同然にしてまいります。総督ピラトもヘロデ大王もその例外ではありません。

 この復活の出来事の証言があるからこそ、出来事そのものから50年ほど経た福音書の書き手の時代の教会に関わる人々は、あまたの迫害にありながらも、この圧政はやがて終わりを告げるとの希望を抱くにいたります。わたしたちもまた、個人の力では如何ともしがたい暴力を伴う政治や不公正な世にあってなおも活きいきとした希望に包まれているものと確信できます。さまざまな身体的な限界を覚えながらも、なおも神の愛の証しを立てることができます。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だからあなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい」と復活したイエス・キリストはわたしたちに今も語りかけます。絶えずガリラヤの原点に立ち返り、日々いつもともにいる復活のキリストに背中を押されて、主なる神を讃美し、この日を祝いましょう。