2025年8月22日金曜日

2025年 8月24日(日) 礼拝 説教

      ―聖霊降臨節第12主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「蛇のように賢く鳩のように素直であれ」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』10 章16~23 節
(新約18頁)
讃美=21-494(228),21-540(403),21-24
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 福音書の成立には、人の子イエスとその弟子が語り伝えた神の愛による世の統治が、その時代の人々の思う通りには訪れてはこなかったという事情があります。神の計画とは人の思いを超えて実現していくさまを、わたしたちは断片的であるにせよ体験しているからこそ、本日の礼拝に招かれておりますが、わたしたちはむしろそのような体験を賜った神に深く感謝を献げるところです。教会の交わりに頑なだった家族がその生涯を全うする直前に洗礼を授かる場面に、わたしは牧師として幾たびも立ち会いました。

 しかし福音書の世にありましては、そのような日々の平安にさえ遠いなかでただただ神の愛による統治を願わずにはならないのっぴきならない、そして現在のわたしたちとは程遠い事情がありました。それは、まずは人の子イエスを救い主と仰ぐ人々の交わりを敵視する古代ユダヤ教からの暴力を伴う排除、次いで貧しく、さらには仮に人身売買される奴隷の身の上にあったとしても時のローマ皇帝を決して神として跪かなかったがゆえに叛逆罪に問われ、見世物のように殺害されていった日常です。遠藤周作の小説『沈黙』よりも厳しい排除と差別が続くなかで、人々は「アーメン、わが主よ、来たりませ」とイエス・キリストの再臨を待ち望んでいました。
しかし『旧約聖書』の種々の物語にもあるように、神の約束とは思いもよらない仕方で、しかも数世代を経て実現するとの性格を帯びる場合もあります。わたしたちが神を利用するのではなくて、神の導きにわたしたちが身をゆだねた時に初めて拓かれる道があります。

 そのような困難な世にあって授けられた希望の道を、人の子イエスは「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」との言葉で示します。「蛇」という言葉からわたしたちは好き嫌いの分かれる不気味な生き物を連想しがちですが、『聖書』では「知恵」や「癒し」を与える象徴としても用いられています。わたしたちは「天地創造物語」で描かれるところの、エバとアダムを誘惑し、神との信頼関係を破壊する機会をもたらす存在として理解しがちですが、逆に言えばあの「蛇」という言葉には、古代ヘブライ人が味わった、想像を絶するような高度な文明に動揺する人々の様を看て取れます。そのような人々、とくにヘブライ人を虜囚としたバビロニア王国の人々が暗に「蛇」だと呼ばれた可能性もあります。確かにその生態は今も人間を驚かせるところから、それが知恵の象徴だと言われるのも無理はないと考えます。

 しかしそのような知恵を「福音書」ではあくまでもイエス・キリストの語るところの知恵だとします。そしてその知恵とは「鳩」のような素直さとともにあって初めてその本来の力を発揮するというのです。一見対照的に映るがゆえに『聖書』にはダブルスタンダードが記されているかのように誤解しがちなわたしたちですが、この箇所で記されているのは困難に満ちた世に活かされるためには、イエス・キリストを核とした喜びに満ちた交わりが不可分であると示します。洗礼者ヨハネのもとで救い主としての働きを始めるにあたり、人の子イエスに神の霊が「鳩」のように降って来るのを見たと申します。『旧約聖書』「天地創造物語」にさかのぼれば「洪水物語」で箱舟にその災いの終わりを告げる「神の平和」の象徴としても用いられます。この素直さと繊細さあればこそ、時に捕食関係にあるとして理解されがちなこれら被造物は、神への素直さに根ざした知恵として世にある真贋を見抜き、密かに響く神の声を聴き分ける力を弱さの中から汲みだす象徴として深く結びつくのです。

 報道では充分な知識のないまま身ごもった未成年の女性が、授かったばかりのいのちを認められずに殺害し、公園に埋めていくという凄惨な事件を聞きました。身代金目当ての誘拐事件に代わって、相談口があれば十分防げたはずの事件が後を絶ちません。かつて道端で呻く傷だらけのホームレスを敢えて無視して大学のキャンパスへと通学しなくてはならなかったいたたまれなさ、自分は「よきサマリア人」にはなれないとの悔しさに身を震わせた時代、今は早朝の大衆食堂で水商売の仕事明けに騒ぐ若い男女から勧められた好意としての一皿の食事を断りながら、同じ世代の集う教会やこども園、大学に身を置く者として、やはりこれもまた自らが虐げられている立場にあることすら気づかない、その若者たちの目を塞ぐ様々な構造や差別に対して憤りを覚えてよいのだとの声を聞く日々です。問題はその怒りをどのようにして人を支えるエネルギーに変えていくのか。その道筋を祈り求めてもいます。自分の身を守ることで精いっぱいだったはずの初代教会の人々が、愛のわざに励み続けた知恵と素直さを尊びたいと願います。神の国の訪れを、福音を賜物に応じて証ししながらともに待ち望みましょう。