―聖霊降臨節第10主日礼拝―
時間:10時30分~説教=「病の人を招く主イエス・キリスト」
稲山聖修牧師
聖書=『マタイによる福音書』9章9~13節
(新約15頁)
讃美=21-371,21-402(502),21-24(539)聖書=『マタイによる福音書』9章9~13節
(新約15頁)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
お互いに甚大な被害を与える現代の戦争には勝者はおりません。しかしそれでも勝利を収めたと自認する国ではその戦争で負傷したり病に罹患した復員兵を迎える家族に何らかの補償をいたします。負傷や生命の代償として当事者には名誉の勲章が授けられる場合もあります。
しかし最も過酷なのは敗戦後に帰る家も焼け家族もちりぢりとなり、深い傷跡を顔や手足に残し、または風土病に罹患しすっかり病気がちとなった人々があげられます。もちろん戦災孤児は言うに及びませんが、かつて英雄として奉られた特別攻撃隊の生き残りの暮らしは「特攻崩れ」として荒み、酒浸りになり、薬物に溺れて身を持ち崩す人も多かったと聞きます。戦闘で顔面を失った人々が日々の賄を得た手段とは「見世物小屋」での「化け物小屋」で働く人もいました。かつては人々に旗を振られて送られて、今は人々から恐怖と侮蔑の目で見られます。それは戦後の高度経済成長期にも深くて長い影を落とすものでした。
本日の聖書の個所ではおそらくはガリラヤに戻った人の子イエスが通りがかりに収税所に座っている徴税人マタイに「わたしに従いなさい」と声をかけ弟子とするところから始まります。『マタイによる福音書』の書き手集団とは別の人物ですがそれでも何らかの関係を想像するには十分な名前です。その後イエス・キリストはマタイの家で食事をいたします。そこには徴税人や罪人も大勢つどい人の子イエスや弟子たちと同席したのです。
この「徴税人や罪人も大勢やって来て」というくだりなのですが、徴税人はまだしも「大勢の罪人」と呼ばれる各々の姿が思い浮かばずにみなさまは苦しむところではないでしょうか。ただしイエスの弟子を批判するファリサイ派の人々による「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」との言葉から、おぼろにではあるにせよその姿が浮びあがってまいります。すなわちその社会規範からは遠くかけ離れ、絶えず遠ざけられた人々が律法に厳格なファリサイ派からすれば許容これ能わずといった具合だったのでしょう。
昨日は長崎の原爆忌でしたが、広島と長崎に共通するのは路面電車が走っているというところです。つい20年ほど前までは手足や首に原爆固有の火傷を負った人がごく普通に電車に乗り降りしていたとのことでしたし、銭湯に行けば人皆傷だらけの身体を晒して湯船に浸かっていたと聞きます。しかしその理由を尋ねる者はだれもいなかったと申します。その人自らが何か悪さをしたという意味に限られず、人々に負の記憶を連想させるために社会から見放されていった人々もまた「罪人」として疎外されてしまっていたのではないでしょうか。
その裏づけとしてはファリサイ派の問いとも批判ともつかない言葉に対して向けたイエス・キリストの言葉に明らかです。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」との言葉には、人の子イエスのもとに集っていた「罪人」とは「病人」との意味も併せ持っていたという点です。ファリサイ派の求めるのは義人、すなわち「健康な人」であって、その集いへの参加を人は誇ることができます。しかし徴税人マタイの家には何の取り柄もない病人が集うのであり、その集いを人前で決して誇ることはできません。しかしその交わりの中で罪人とも呼ばれる「病人」、何も誇れない人々にこそ主なる神の祝福に満ちた交わりの回復と慈しみ深い安らぎが臨むのではないでしょうか。
戦争が終ってから少なくとも20年間、場合によれば高度経済成長期の恩恵の及ばぬ影で、人知れず差別に堪える他なかった人々がいました。広島や長崎出身というだけで就職面接や結婚を断られた人々がいました。また、両親を失い上野駅の地下で心ならずも盗みを働かなくては生きていけなかったこどもたちは、大人になり結婚相手にすら老いてなお身の上を語れない方々もいます。さらには戦後なおも残る機雷や不発弾でいのちを失った方々も数知れません。『エゼキエル書』37章に記された「枯れた骨」として今なお放置されている遺骨となった身内を忘れられない人々がいます。広く世間では「心の病」の源として扱われてきたそのような辛い経験を、イエス・キリストが見逃すはずがないのです。戦後は決して終りません。キリストに連なる教会もまた、今なお続く傷や病を癒す場なのだとわたしたちは確かめます。イエス・キリストは平和の主であり、多くの傷に苦しむ人々、空腹の友と一緒に宴を囲まれます。その交わりこそがわたしたちの出発点であり、神の愛につつまれる統治の先取りであると確信しましょう。天に召された方々ともわたしたちはこの礼拝で交わり続けるのです。