2021年7月16日金曜日

2021年7月18日(日) 説教(在宅礼拝用です。当日10時半より、対面式の聖日礼拝をいたします。)

説教:「仕える者のための奉仕」

稲山聖修牧師
  

聖書:マタイによる福音書8章5~13節
(新約聖書13ページ)

讃美:301(1.3), 354(1.4), 二編171

可能な方は讃美歌をご用意ください。

ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ中継を致します。


ライブ中継のリンクは、
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方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】

「ローマの平和」。それはローマ帝国が卓越した軍事力で地中海を囲む全域にもたらした平和であり、今日にいたるまでそのような広域国家をわたしたちは見たことがありません。地中海を内海としてとりこんだ国が現れたのは有史以来、『新約聖書』の舞台となった時代が初めてでした。それを可能にしたのは他ならない兵士たちの足でした。「歩けない兵士が何の役に立つのか」。その訓練の第一段階として5時間で32㎞、次は12時間で64㎞、甲冑を着て5時間32㎞の徒歩があったと申します。第二段階は木刀による訓練、槍投げとその受けとめ、障害物訓練を武装フル装備で行い、仕上げに部隊の陣構えの変化を叩き込む日々を送っていました。「歩けない兵士が何の役に立つのか」。あるローマ帝国の将軍の言葉が兵士に求められる資質のすべてを示しています。

 そのようなローマ帝国の軍隊で、表向きにはあってはならない物語が本日の箇所で描かれます。「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」。カファルナウムからそれほど遠くないところにはフィリポ・カイザリアという街があります。「カイザリア」と名乗る街には必ずローマ帝国の駐屯地があります。その駐屯地と関係があったのでしょうか、ローマ帝国の百人隊長がイエスに乞い願ったというのです。軍人は支配する側の立場、人の子イエスは人としては支配される側に立っています。大局的な視点に立てば、ローマ軍は武力による侵略者であり、人の子イエスを含むその地の人々との間には歴然とした関係性が生じています。軍人であるからには力を顕示して、統治が可能なように押さえつけていなくてはなりません。百人隊長はその立場を棚上げして人の子イエスのもとに助けを乞い願うという、本来の立場としてはあってはならない振舞いに及んでいます。ですから「わたしが行って、いやしてあげよう」という申し出を感謝しながらも辞退しなくてはなりません。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言だけおっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」。一見しますとこのやりとりの中、百人隊長は自分の権限を人の子イエスに誇示しているようにも思えます。確かにうわべではそのように見えます。しかしこの下級将校、参謀本部付ではなく数多の戦場に赴いたこの下級将校は、自分が率いる部下のいのちに関する全責任を担っていると自覚しているのです。自ら手柄を立てるより、一人の兵士とてともに生きて帰らねばならないとの意志と使命感に満ちています。だからこそ中風に罹患した自らの部下、すなわち今日でいえば、度重なる行軍のせいもあったのでしょう、脳の血管障害を起こして寝たきりになってしまった部下のため、「歩けず何の役にも立たなくなった」部下のため、自分のいのちを顧みずにイエス・キリストに懇願しているのです。イエス・キリストは自分の申し出を断ったからと言って、その願いを却下したでしょうか。決してそのようには接しませんでした。

 「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天のアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」。イスラエルの民と異邦人との関係の逆転現象が、この負い目に圧し潰されそうな百人隊長との出会いを通して語られます。百人隊長が身体を思うように動かせなくなってしまった部下に、献身的に仕えている事実を、キリスト自ら見抜いておられるのです。『律法』に記された誡めは、身体が思うように動かせて始めて守ることが可能です。それが転じて誡めに執着するだけの人々は自らの救済にのみこだわり、他者の救いに目が届きません。転じて百人隊長の願いは実にシンプルです。自らの地位や手柄より僕の回復を選び、部下とともに生きて故郷に帰る道を望んでいるのです。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」。イエス・キリストのこの言葉は、僕の癒しだけを示しているのではありません。百人隊長のこれからの道、明日の道への祝福でもあると、果たしてわたしたちは気づいているでしょうか。

 本日の礼拝では洗礼式が執り行われます。わたしたちが思いをともにしたいのは、主がその方をキリストを通して受け入れられるまでの道のりが、ご本人にとっても、わたしたちにとっても癒しと平安の道であり、希望の道であり、祝福の道であるという事実です。礼拝とは、そのような祝福のもとにあると確かめる神の御前に立つ交わりです。