2021年7月22日木曜日

2021年7月25日(日) 説教(在宅礼拝用です。当日10時半より、対面式の聖日礼拝をいたします。)

説教:「招かれたのは誰か」

稲山聖修牧師

聖書:『マタイによる福音書』9章9~13節
(新約聖書15ページ)

讃美:333(1,4), 270(1,3), 二編171
可能な方は讃美歌をご用意ください。
ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

諸事情により今朝の礼拝中継は休止いたします。ご視聴希望の方はメッセージ動画をご覧ください。新しい一週間が神様の祝福のもと始まりますように!

【説教要旨】
『マタイによる福音書』に登場するマタイという名の徴税人。福音書ではこのような同じ名前を持ちながらも別人として描かれる場面が少なくありません。徴税人といえば『ルカによる福音書』のザアカイが教会やキリスト教主義の学校では知られているかもしれませんが、いったいどのような職業だったのか。簡単に言えば「嫌われる仕事」でした。わたしたちの場合、税金は月ごとの手当から天引きされたり、または郵便局の窓口に納めにいく場合が殆ど。あくまでも公共の福祉という道筋で還元されて始めて税が本来の性格を伴うこととなります。

 しかし『新約聖書』に描かれる徴税人といえば、ローマ帝国の支配の末端、占領地域での税の取り立てを収税所だけでなく積極的に居宅訪問をして行なっていたと考えられます。クリスマス物語の冒頭にありますように、イエスの母マリアと父ヨセフは住民登録をするためベツレヘムを目指しますが、マタニティ姿の女性が長旅すること自体が危険極まりない旅路です。それを押してまで登録を要請された理由としては、登録されたデーターベースを用いてローマ帝国が税金を徴収する手はずになっており、逆に登録されなくては宿無しとしての処罰に甘んじなくてはならなかった可能性があります。徴税人にはそのような無宿者を探し出す役目もあったかもしれません。さらに徴税人の手当は税額に上乗せされ言い値で集められたと言いますから、金持ちの徴税人ほど権力を笠に着て同胞であるはずの住民から不当に取り立てていたのでしょう。ただの金銭欲だけではこのような仕業ができるはずもありません。同胞への何らかの恨みつらみがあってのことだったのではと思います。そこにローマ帝国がつけ込んで徴税の下請けをさせていたと考えます。占領国への反抗心を互いに憎み合わせることで分散するという手法です。

 しかし本日の箇所で徴税人マタイは主イエスの招きに素直に応じます。理由は記されませんが、マタイは「招く」というわざそのものに驚いたのかも知れません。お金を集める度ごとに罵声を浴びたとしても、それが何だと思えなくては徴税人の仕事はつとまりません。そのマタイが突き放されるのではなく、招きの声を聞いたのです。マタイの喜びが相当なものであったことは、その後の態度から分かります。あろうことかイエスは弟子とともにマタイに招かれて食卓につくのです。それだけでなく仲間の徴税人や「罪人」としてただ漠然と表現されるばかりの、その時代の地域生活共同体で人間扱いされなかった人々を集めて振る舞いを始めるのです。一見すればどこにでもありそうな、しかし当人また関係者からすれば説明のつかない、起こり難い出来事を書き手はのびのびと描きます。  しかしそのようなイエス・キリストの立ち振る舞い、またマタイの備えた食事の席に心ない言葉が水を差します。しかも質の悪いことにその言葉は直接イエスにではなく、弟子に向けられます。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」。ともに食卓を囲むのかという疑問が呈せられるのです。実はこの問いかけは初代教会の中ですでに生じていた問題でもありました。『ヤコブの手紙』では、時が経ち教会の交わりが奴隷・女性・徴税人のような人々が主人・当時の一家の大黒柱・徴税人の組織の上司といった層の広がりと厚みを帯びてくる中で、キリストを中心とした交わりとは異なる雰囲気が教会に持ち込まれます。「立派な身なりの人」は特別席に招かれ、「貧しい者」は「そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」との分断が度々行われていました。当然教会の外での常識に根ざした倣いが持ち込まれます。つまりこのような分断された交わりの中で、奴隷と主人が食卓をともにするなど全く論外で「常識に欠けたもの」として見なされていくのです。しかしそのようなあり方に染まる教会を手紙の書き手は叱ります。それは書き手の個人的な義憤には基づいていません。「救い主イエスに真っ先に招かれたのはこの人々だ」とのメッセージがすでに共にされていたからです。『マタイによる福音書』にある徴税人マタイの物語にある漠然とした「罪人」は、もはやすでに単なる罪人ではありません。歪みや痛みを抱えながら、至らなさや生きづらさを抱えながら日々を歩むわたしたちの姿もまたそこには映し出されています。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい」。殻に堅く閉じこもり、自分は正しいと言い続けることの何と骨の折れることでしょうか。イエス様に無理矢理「あなたは正しい」と言ってもらうためにわたしたちは教会に集っているのではありません。条件を問わない「わたしに従いなさい」とのメッセージに惹かれ、そしてよろこびを覚えて、わたしたちもまた「招かれている」のです。