2021年7月8日木曜日

2021年7月11日(日) 説教(在宅礼拝用です。当日10時半より、対面式の聖日礼拝をいたします。)

 -聖霊降臨節第8主日礼拝-


説教:「装われたやさしさを見抜く神」
稲山聖修牧師

聖書:『マタイによる福音書』7章15~29節 
(新約聖書12ページ)

讃美:164(1,3), 494(1,3), 二編171
可能な方は讃美歌をご用意ください。
ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

なお、礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ中継を予定しておりましたが、

今日はYouTubeの関係でライブ配信が不可能になりました。

申し訳ありませんが、
今日は、メッセージ動画のみ配信いたします。

【説教要旨】

教会の交わりとは、そこでイエス・キリストの御名が尊ばれている交わりである限り、イエス・キリストを軸とした交わりが育まれる、癒しと支えと養いとなるところです。しかしモーセの「十戒」に「主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」とあるように、イエス・キリストの御名がみだりに用いられるところでは、その交わりはときに現状維持と自己弁護に終始することがあります。また本来は神に謙り、祈るはずの教会が、神との関わりになしに、各々の賜物をキリストとの関わりなしに「戦力」と称する場合があります。しかしそのような集団の蓋を開けてみれば、肩身の狭い思いをしている人がいたり、黙って去っていく人がいたり、装いのもとでの圧力、今ではそのような圧力をマウントと申しますが、これに疲れ果て、いつの間にいなくなる人々がいます。神の名を用いてさえ人は戦争を始めることができるように、キリストの名をみだりに用いて私的な思いを押し通そうとする傲慢さがあります。これは初代教会の時代から絶えず問われてきた課題でした。ただし、その場で見る限りでは、なかなかその課題が分かりませんから質が悪いといえば悪いのです。わたしたちはその場限りの状況しか分からず、あるいは消耗したり疲れたりしたくないあまり、つい見て見ぬふりをするのです。

人の子イエスが発する警報は、まず預言者を装う者に向けられます。預言者を装う者は実に心地よい言葉を語ります。聞く者が心地よくなる言葉を語りつつ言い寄ってきます。そして手をとり、聞く者をどこかへと連れていってしまいます。心地よい言葉には責任が伴いません。要するにそこで語られるのは偽りの癒しと平和であり、視野の狭い判断が広く共有され、人々は砕かれることなく行く当てもないところに連れていかれてしまいます。国の滅亡を経ての民の救いを説いたエレミヤは石を投げられ、滅亡など経なくても安全だと語ったハナンヤは民から受け入れられました。しかしアブラハムの神が立てた預言者はエレミヤだったのです。判断の先送り、現状維持を伴う安全神話に道を誤った人々のいかに多いことでしょうか。外見は羊であっても、中身は別ということが世には多々見受けられます。

さらにイエス・キリストが発する警報は、偽預言者だけに向けられるのではありません。「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」。人の子イエスの語る「かの日」に叫ぶ人々の声は全てこれ己の業績の申告に留まり、したがってキリストに次のように告知されます。「そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」。誰が救われるかは分からないからこそ、わたしたちはイエス・キリストに全て身を委ねていこうとするのです。その委ねるありかたの中で、初めてわたしたちはキリストに立つリアリズムを体得します。

『新約聖書』には『ヤコブの手紙』という書簡があります。「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる人になってはいけません」と主にある交わりを諫めています。「信仰義認」を標榜するルターからは「藁の書簡」として軽んじられてはいましたが、その内容は決して侮れません。もともとはイエスが癒やし、慰めた奴隷や病人、徴税人、女性といった社会の最末端また排除されていた人々によって成り立っていた教会が、次第に交わりを広げ、奴隷の主人や徴税人の上司をも招くようになった結果、教会には経済的な格差をめぐる問題が持ち込まれてしまいます。ある人は用意された椅子に座り、ある人は足下に座るか立ったまま。献金は神に献げるのではなく納める、払うという誤解が広がる。その結果、先ほどの状況が生じたのです。諫める声は「舌」を制御できない、そして富に酔いしれている人々に対しても向けられます。「ご覧なさい。畑を借り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています」。キリストを見つめる生き方が社会を変えるのではなく、この世の理屈が教会に無批判に持ち込まれたとき、病んだ教会の交わりがどのような集団に陥るのか。『ヤコブの手紙』は直截的に描きます。

 11年前の東日本大震災以降、わたしたちは多くの自然災害に直面してまいりましたが、現在、数々の災害は本当に天災だったのかとの指摘を聞きます。それは、知らないところで行われた、盛り土や不法投棄、安全性を確かめない開発の結果など、経済一本鎗の政策で進められてきた暮らしのしわ寄せを、無名の人々に押しつけた人災だとの指摘もあります。わたしたちもいつ「被災者」にならないとも限りません。しかし聖書はキリストにあって何をすべきかを示しています。「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈り、ともに御言葉に立ち返りましょう。