2021年7月1日木曜日

2021年7月4日(日) 説教(在宅礼拝用です。当日10時半より、対面式の聖日礼拝をいたします。)

「神が約束を果たすとき」  
説教:稲山聖修牧師  
聖書:『マタイによる福音書』7章1~14節 
(新約聖書11頁)

讃美:240(1,3), 392(1,4), 二編171.
可能な方は讃美歌をご用意ください。
ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ中継を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
イエス・キリストに病の癒しを求めてガリラヤ・デカポリス・エルサレム・ユダヤ・ヨルダン川の向こう岸からやってきた無名の人々。そしてその人々と寸分違わない姿の弟子たち。弟子たちだけでなく、その声は人々にも届いたことでしょう。それは人の子イエス自ら味わってきた苦難の中で授かった知恵であり、その知恵をイエスは惜しげもなく分かち合います。しかし人々や弟子たちの身体の具合も人の子イエスはご存じです。イエスに救いを求める人々は、日々の暮らしに汲々とするだけでなく、各々の職場や暮らしの現場で追い詰められています。決して日々の暮らしにゆとりがあったとは言いがたい人々です。それは弟子とて何ら変わるところはありません。

 追い詰められた暮らしが続けば、そこには歪んだ一生懸命さというものが生まれます。誰もその一生懸命さをあれこれ言うことはできません。けれどもその歪みは、言葉や行いによる暴力という仕方で周囲の人々に圧力をかけては傷つけます。傷つけられた人は涙を流すだけに留まらず、次第に心を頑なにし、外部との交わりと絶っていきます。「ひきこもり」という言葉が用いられるようになって久しいですが、この言葉に当てはまる欧米圏の言葉はなく「わびさび」と同じようにそのままの表記で用いられているとのことです。ファリサイ派や律法学者とは異なる頑なさがここに生まれますが、事態は追い詰められた暮らしの中での話ですから一層深刻です。追い詰められればどうしてもわたしたちは「自分たちは頑張っている」「これ以上何ができるのか」と言ってしまいますし、本来の自分が向き合うべき責任を別のところへと責任転嫁してしまう場合もあるからです。

 けれども人の子イエスは、そのような人たちを前にして、また同じ列から出た弟子を前にして次のように語ります。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」。ときに偽善者との厳しい言葉を用いながらも、神聖な言葉、真珠のような言葉を人々に伝えようとします。仮にその言葉が踏みにじられ、イエスさま自ら唸り声とともにかみつかれようとしてもです。それはイエス・キリストが、この無名の人々そして弟子たちが歪んでいるところ、欠けているところに少しでも伸び代を見いだしていたからではないでしょうか。「求めなさい、そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」。信頼しない人々には、このような言葉はかかりません。適当にあしらわれてご機嫌をとられて、気持ちよくされて帰らされるのが関の山です。決して諦めてはいけない。何を諦めてはいけないといえば、キリストを通して、まなざしを隣人に向けるのを諦めてはいけないというのです。人を裁けば不平や不満が出ます。それは人を決して育むことはありません。むしろ神さまに求めなさいというのです。人にしてもらいたいと不平をこぼすなら、あなたがたがまずそのことをしてあげなさいというのです。それが『律法』と『預言者』、すなわち『旧約聖書』に記された神の約束の完成だというのです。その約束の完成は、命に通じる門であり、実に狭いものであるにも拘わらず、わたしたちには決して閉ざされてはいないというのです。

 弟子を始めとした人々にはどのように聞こえたことでしょう。「自分には無理だ」との諦めがあったでしょうか。「そんなことは不可能だ」とのため息があったでしょうか。もちろん、そのような諦めやため息はきりがなかったに違いありません。けれどもだからこそ、イエス・キリストはわたしたちとともにいてくださっているのです。心身ともに病み疲れ果てているとき、身体を動かすのも人と話すのも嫌だという時があります。そのようなときにわたしたちは涙とともに祈ります。聖書の世界の祈りとは、単なる願かけではありません。神に向かって己の無力さや生きづらさを訴え、時には置かれた状況に嘆く声を伝えます。歪んだ一生懸命さの中にありながら、その歪みの原因も分からず、どうしてこうなったのかとひたすら訴え続けるのです。神さまはその声を必ずお聞き届けになります。そしてわたしたちに聖書の言葉を通して問いかけることでしょう。「あなたの言うことはよく分かった。気持ちも悲しみも存分に分かった。そしてこれからどうするのか」と。神さまから向けられる「そしてこれからどうするのか」という問い。牧師の考えでも、牧師からの問いかけでもなく、御言葉からの問いかけに耳を澄ませている中で「まだまだこれからだ」との思いが湧いてきます。神の愛の力が注がれている証拠です。神様の約束はそのように実現します。祈りましょう。