2015年11月1日日曜日

2015年11月01日「眠りについた人々の初穂」稲山聖修牧師

聖書箇所:コリントの信徒への手紙Ⅰ.15章12節~24節

 主のもとに召された兄弟姉妹とも守る礼拝。私たちは遺影を前にして沈黙する。しかし世の終焉の地や道筋や姿を問わず、遺影に映る兄弟姉妹は主の御手の中で安らぎを備えられている。主のもとにおられる兄弟姉妹と今この場にある私たちはともに主が創造された被造物である点で今なお変わらないところは忘れてはいけない。東アジアの生活文脈と決定的に聖書が異なる点は「死人の復活」を語って止まないところ。それはイエス・キリストの出来事として受け入れることによって初めて開示される永遠のいのちへの扉である。この扉と関わりにより、死は滅びではなく、世の完成にいたるまでの眠りとしての暫定的な意味しか持ちえない。私たちのいのちの被造物としての制約は、神の国の訪れによって究極的には突破される。その突破の先駆けが十字架に架けられたイエス・キリストの姿であり、墓を出でて弟子たちと語らうキリスト・イエスの姿である。主のみもとに召されたいのちは、今や神ご自身が世に刻まれた、かけがえのない歴史となり、今を生きる私たちの背中を力強く押して止まない。
 本日の聖書の箇所で目を留めるところは15章22節。「アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになる」との箇所。パウロに従うならば復活とは旧約聖書との関わりの中で聴き取られるべき。例えば、創世記3章3節に記される記事。「女は蛇に答えた。『わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました』」。蛇の仕掛けた誘惑に人が陥る場面で記された、この「死んではいけない」との呼び声が今を生きる私たちに分かち合われる。これは神の絶対的な宣言だ。キリストの復活によってアダムもまた命の息吹を新たに吹き込まれる。「アダム」とはヘブライ語で「人間」をも意味するからだ。この生と死の逆転は、死人の復活という「あり得ない出来事」を「すでに起きた出来事」として指し示す。主イエスは、死を滅びには留まらない新たないのちにいたる眠りへと大転換する。この転換の出来事を通じて、主のもとにある兄弟姉妹が遺した証しは、いのちの勝利を讃美している。