2015年10月25日日曜日

2015年10月25日「主よ、どうか助けたまえ」稲山聖修牧師

聖書箇所:使徒言行録9章1節~19節

 11月第1主日はローマ・カトリック教会では「諸聖人の日」。この日と宗教改革記念日は深く関わる。ルターが当時のローマ・カトリック教会の贖宥状(しょくゆうじょう)に対する問題提起『95ケ条の論題』を書き送った日付がその記念に定められる。善行を積み天国の聖人の功徳を教会への献金と引き換えに分けてもらい、天国に入る前段階である煉獄での清めに資するという考えへの問題提起が総論をなす。こうした「行為義認」に対する「信仰義認」というルターの主張はパウロ書簡なしには考えられない。ルターは幾度も審問を兼ねた討論に召喚され遂には破門。帝国議会では自著の撤回を迫られ「われここに立つ。主よ、どうか助けたまえ」と述べたという。
本日の聖書の箇所では生命の危機と隣り合わせの中でサウロがキリスト者として目覚めた様子が描かれる。後のパウロ、則ちファリサイ派出身のサウロはイエスがメシアであることを律法から緻密に論証する。だからといって初代教会からの違和感は消えない。他方、転向者としてサウロはかつての仲間からは命を狙われる。今やサウロは世にある安息の場所を失った。
私たちも各々の場所で、真摯に隣人に向き合い新たな事柄を始めようとする際には、様々な排除を覚悟しなければならない場合がある。交わりが分断された時代、居場所を失う人は増えるばかり。その中で、私たちはますます主にある交わりを育むことが求められる。それは教会の教勢拡大という観点のみからは論じられない。あくまでも主なる神から賜ったセーフティーネットワークに連なる者として、聖書の御言葉とともに声なき声に耳を傾けるところから始まる。沈黙の中で私たちは世の苦しみや悲しみとともに、主の御声を聴きとる力を授かる。そしてキリストの肢体であり、神の国の先取りとしての交わりの集合体でもある教会が逃れの場となる。フィリピの信徒への手紙の「わたしたちの本国は天にあります」とのパウロの言葉は、人の世の離散の姿を指摘するのではなく、教会が神の国を待ち望む共同体であることを示す。この世の国家と教会が証しする神の国との間には、主の賜物として緊張が不可避。その緊張関係の中で教会は絶えず改革されていく。私たちも主なる神の恵みの中で日々新たにされる。「主よ、どうか助けたまえ」との声を日々の祈りに重ねながら。