2015年10月11日日曜日

2015年10月11日「いのち」牛田 匡神学生

聖書箇所:詩編139編13~18節

 昨日の土曜日は、「命のつながり」というテーマで「こひつじカーニバル」がありました。7月に保育園にやって来たヤギの「ゆきちゃん」に動物のお友達を見つけようということで、豚、七面鳥、羊、牛、ニワトリ等々、子ども達が扮する様々な家畜達が登場し、友達になってくれました。フィナーレでは福島県の「希望の牧場」の牛さんからのお手紙が届きました。そして保育園の子ども達も「希望の牧場」や東北の震災で困っている方々へのお手紙を書いて、みんなでポストに投函した所で、今年のカーニバルは幕を下ろしました。
「希望の牧場」は福島第一原子力発電所から直線距離で、わずか14kmにある牧場で、原発事故によって牛達は被爆し、出荷する事が出来なくなりました。牛達は出荷出来ませんので経済価値はゼロですが、それでも牧場の方々はそんな牛達を、自身が被爆しながらも、飼育し続けて来ています。その牧場の様子は絵本にもなっていて、保育園の子ども達もお話を聞いて来ました。
 本日の詩編139編は私達に「命は誰のものか」という事を明確に教えてくれています。「私の内臓を造り、母の胎内に私を組み立てて下さった」「私は恐ろしい力によって、驚くべき者に造り上げられている」そして私達への神様の御計らい、御心というものは、あまりにも尊く、数多く、計り知れないと書かれています。世界中の全ての「命」が、神様によって、日々生かされています。人間の目から見たら一見価値が無いように思われても、生きている意味が分からないように思われても、神様の目から見て無駄な「命」などあるのでしょうか。「命」とは、社会的に役に立つか否かという事ではないはずです。私達全ての命を造られたのは神様であり、神様こそが私達一人一人の命の目的、「使命」をご存知です。ですから、人間が勝手に命を価値判断する事は出来ませんし、またしてはいけないのだと思います。何故なら「命」は私達のものではなく、神様のものだからです。
 私達は今日も神様によって生かされている「命」として、自他の「命」に丁寧に向き合い、つながり合って生きる事。私たちに出来る事なすべき事は、ただそれだけなのだと思います。今日も自分に与えられている「命」、同じく周りの方々にも与えられている「命」を、お互いにお大事にし合いながら、生かされて行きましょう。神様はそのように私達を生かして下さっています。