2024年9月5日木曜日

2024年 9月8日(日) 礼拝 説教

   聖霊降臨節 第17主日礼拝― 

時間:10時30分~




説教=「神の地境をまもる者」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』10 章 1~6 節
(新共同訳 新約186頁)

讃美=    461,21-412(234).21-27(541)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
本日の『ヨハネによる福音書』10章1~6節では、羊の群れ、羊飼い、羊の囲い、そして門番というその時代の牧畜のありかたが具体的に記されています。羊の群れは囲いによって保護され、そしてその囲いは門番にまもられています。さらに羊たちもまた繊細な感覚で羊飼いの声を聞き分けて誰に導かれるべきかを知っています。羊飼いが羊を追いかけて捉えようとしなくても、羊は自らの足で羊飼いの後を追ってまいります。反対に、門を通らないで他のところを乗り越えてくるのは「盗人」「強盗」と見なされて、羊たちは決してついて行かず、逃げ去るとの話です。人の声なら誰でも構わずついていくのではなく、深い信頼関係を結んだ羊飼いを識別して後をついていくのです。続く箇所では人の子イエスは「わたしはよい羊飼い」と語ります。イエス・キリストのもとでは誰もが神の平和と慰めを授かります。

他方で本日の箇所からは「盗人」や「盗賊」の姿も描かれます。初代教会の交わりに様々な噂を流して分断を誘い、混乱を起こすものもまたわたしたちの現実として記されてもいると覚えるべきでしょう。『旧約聖書』『申命記』はイエス・キリストに連なる『律法』の誡めが記されています。その中でも本日は『申命記』19章14節「あなたの神、主があなたに与えて得させられる土地で、すなわちあなたが受け継ぐ嗣業の土地で、最初の人々が定めたあなたの隣人との地境を動かしてはならない」に注目します。地境、すなわち隣人との土地の境を侵してはなりません。この箇所に則するならば、現在パレスチナでイスラエルが行なっている領土拡張の争いはその掟に反します。事実、ユダヤ教で超保守派と呼ばれる人々は近代国家を規範とするイスラエルを「神の国」としては決して承認しません。

不当に地境を動かされ、追い出された羊飼いや羊たちはどこへ逃れればよかったのか。この問いをもまた『ヨハネによる福音書』は伏線としています。『旧約聖書』でエジプト脱出をする他生きる道がなかった、あるいはバビロン捕囚からの解放を待ち焦がれた人々は何に希望を託せばよかったのでしょうか。わたしたちもまた、そのように世をさまようなかで、隣人の助けをいただき、神が定めた地境のもとで、すべての人の救い主であるイエス・キリストにまもられ活かされる喜びと豊かさを分かちあいたいと願います。

2024年8月28日水曜日

2024年 9月1日(日) 礼拝 説教

  聖霊降臨節 第16主日礼拝― 

時間:10時30分~


説教=「風に吹かれてもぶれない根」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』8 章 31~38 節
(新共同訳 新約182頁)

讃美= 85,21-306(Ⅱ.177).21-27(541)
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【説教要旨】
 敗戦後暫くして撮影された写真があります。その写真には古書店の開店を待つために徹夜で並ぶ人々の姿が映っています。様々な言論統制の中で発禁扱いされた書物が再販され、書物をぜひとも読みたいとの好奇心を超えた知識欲をそこには感じます。敗戦直後の大学では教育・研究機関で学生は「真理探究」という言葉を字義通りに尋ねて読書に耽り、現代の教育や産業構造の基礎を築きあげました。『日本経済新聞』の「私の履歴書」というコラムでは実業家が一見すると現職とは直接繋がらない教養を体得した経験がありありと記されています。

 しかし現在では大学でそのような情熱に基づく学生は数としては随分と少なくなりました。所得としては大学に進学しないほうが、生涯賃金が多くなると言われた時代には、高卒で就職する友人を目にしながら「なぜ大学で学ぶのか」と葛藤する学生の姿がありましたが、今は殆どの場合就職に有利となる場としての役割が大半を占めているのが実情です。やりたいことを見つけて情熱を燃やすというよりは、人生の通過点として淡々と過ごす人々が大半です。そのなかで「真理」という言葉が刻まれていたところで何も響かない現実があります。

 しかしその大勢のなかでごく僅かな人々が、生涯にわたる根を求めて苦悩しているのもまた確かです。その苦悩は決して心理学や精神病理学の観点からのみ説明されてはなりません。「真理とは何か」とローマ総督ピラトが問うたとき人の子イエスは黙っていました。その通り神の真理は人の言葉で伝えきれない事柄です。

 本日の箇所でイエスは自らを信じたユダヤの民に語ります。「わたしの言葉に留まるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。この言葉だけとれば、わたしたちにも『聖書』は「高尚な教え」に留まってしまうのですが、ユダヤの民は次のように語ります。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません」。この場に集まっている民は、『創世記』の族長物語に登場するアブラハムの子孫であるところに自らの拠り所を見出しており、「だれかの奴隷になったわけではない」というその時の現状での自らの社会での立場を語っています。つまり一つには血族、そしてもう一つには身分に自らの拠り所を求め、そこに立っていることとなります。実はこれこそが、ユダヤの民自らを縛る要因であることに気づきません。

 血族に基づく共同体にいたしましても身分に基づく共同体にいたしましても必ずその枠に入らない人々を排除するとの性格を帯びます。排除された人々は「真理とは何か」という問いを発する以前に、この現状を何とかして欲しいとの苦しみや悲しみにおかれるものです。日常とかけ離れた「真理」は実に空疎です。人の子イエスの語る真理とは、そのようなものとは異なるようです。

 おそらくそれは、イエス・キリストにつながっているかどうかという一線ではないでしょうか。『ヨハネによる福音書』で尊ばれる言葉とは「イエス・キリストに示された神の愛」です。神の愛が真理を含むという仕方で、わたしたちは断片的であるせよ、人としてのあり方、則ち「真理とはいかにあるべきなのか」との問いへと向かい、さらには「誰とともにいたのか」との発想へと変えられます。「わたしは父のもとで見たことを話している。ところがあなたたちは父から聞いたことを行なっている」。人の子イエスはユダヤの民もまた父なる神との関係を否定はしません。しかしそれはあくまでも誡めという意味での言葉を前提にしています。誡めそのものが神にはなりません。そこには本来のアブラハムがそうであったように、神の語りかけに「アブラハムは主を信じた」という方向転換が伴ってまいります。アブラハムは神の言葉をわがものとしたのではなく、その言葉に従うという態度により困難な旅で滅びることなく一歩を進めることができたのです。「わたしは父のもとで見たことを話している」。主イエスが復活した後の墓を見て恐怖に襲われた女性や、復活そのものを疑った弟子たちもいたように、神の前に立つとのありようはいのちを脅かすわざとの理解がありました。しかしイエス・キリストは父のもとで見たメッセージをその生活すべてを「言葉」として示してくださっています。復活にいたるその姿こそが「神の言葉」です。わたしたちは神の前にあってただただ赦しを乞います。神がわたしたちを抱擁し、抱きしめてくださっているからです。万事窮すとの場に置かれたとき、祈りが赦されています。わたしたちの側から「神頼み」ではない、神がわたしたちの苦しみをともにされます。それこそが神が賜うた真理であり、神の愛です。

2024年8月21日水曜日

2024年 8月25日(日) 礼拝 説教

 聖霊降臨節 第15主日礼拝― 

時間:10時30分~

 

説教=「天にいのちの希望を仰ぐ」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』8 章 12~20 節
(新共同訳 新約181頁)

讃美=   21-494(228),Ⅱ 192.Ⅱ.171
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【説教要旨】
 「いのち尽きる日まで天を仰ぎ 一点の恥じることもなきを 木の葉をふるわす風にも わたしは心を痛めた。星をうたう心で すべての死にゆくものを愛さねば そしてわたしに与えられた道を 歩みゆかなければ。今宵も星が風に身をさらしている」。
 大規模なコロナ禍に節目がつき、キャンパスの芝生に車座となり会話を楽しむ若者たちの傍を過ぎると、そこにはひっそりと詩を刻んだ記念碑があり、今も献げる花が絶えません。『これも讃美歌』として記された川上盾牧師の解説によりますと、作者の尹東柱は、戦前の朝鮮に生まれたキリスト者詩人であり、立教大学と同志社大学に学び、ハングルによる詩の創作を続け、それが「治安維持法違反」として京都府警下鴨警察署により1943年に逮捕・翌年福岡刑務所へ投獄、ポツダム宣言受諾の半年前に27歳で獄死。死因は今なおはっきりしません。その詩作は敗戦直後に発見され、今なお高い評価を受けてわたしたちもその日本語訳を読むことができます。先ほど引用したのは『序詩』であり、1941年11月に創作されています。東京から京都への転校は軍事教練を拒否し配属将校から憎まれての対応だったとも言われています。ただ尹東柱の詩の世界は一般でいう「抵抗の詩人」とは異なるきらめきとも眼差しとも呼べる透明さを感じるように思います。「いのち尽きる日まで天を仰ぎ」これは「死ぬ日まで天を仰ぎ」ともありますが、日本語でいう「死」が中心になっているとは思えません。むしろ「天を仰ぐ」とのその眼差しが、自らの死を予期しながらもその痛みや限界を超えていく橋として、神の眼差しと向き合っているようにも思えます。母語を禁じられる屈辱も、すべての死にゆくものを愛そうとする意志に勝るところはありません。
 本日の『聖書』の箇所では「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」とあります。その意味を理解できない一部のファリサイ派は「そのような自分についての証しは真実ではない」と批判しますが、人の子イエスは「あなたたちは肉によって裁くが、わたしは誰をも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる」と、神に自らを委ねきった人の子として、そして神の子キリストとしての言葉を紡いでいきます。身柄を拘束しようとするファリサイ派にはどのように響いたことでしょうか。
 イエスが臆さずこのように語る姿を見て人々は手出しができませんでした。「イエスが神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された」とあります。「仮庵の祭」ではこの「宝物殿」の近くで、「光の祭儀」が行われました。この背景を踏まえますと、イエス自らがイスラエルの王であるとの宣言をイエス・キリストは高らかに行ったとの理解へと導かれます。『律法』にある「二人」が行う証しとは、イエス・キリストの行う証しには必ず主なる神がともにいるとの確信が記されています。
 現状では、至極一般的な暮らしを続ける限り、冤罪は別としてわたしたちが身柄を拘束されて獄中に置かれるなどということは現時点では考えられません。しかし種々の告発を受けなくても、身柄の拘束を禁じ得ない場はいたるところにあります。例えば突然の病によって入院を余儀なくされ、治療により心身が健やかになるどころか病状が悪化する場合。コロナ禍では誰が悪いというわけでもないのにご家族との関わりまで遮断され一人治療を受けるなか、別の病、例えば認知症を発症してしまう事例も枚挙に限りがありません。当人にはなぜこのようになったのかという理由すら分かりません。抵抗すれば身体を拘束される場合もありました。神への眼差しを遮ろうとする力は、いつの世にも誘惑として、暴力として、圧力として、そして先ほどの詩人に先立つこと2000年も前に、エルサレムで起きた出来事としてわたしたちの健やかないのちを脅かしてまいります。
 しかし、世の渦巻にあっても、イエス・キリストは「わたしは世の光である」と力強く宣言されました。詩人・尹東柱は、世にある時には自らの詩集の出版を考えませんでした。他方で後の世の人は様々な解釈をして議論もしています。天にあるイエス・キリストとともにいる尹先生の思いもお聴きしたいところです。わたしたちも、救い主をお遣わしになった父なる神に背中を押され支えられています。いのちの主が屋台骨としておられます。

2024年8月15日木曜日

2024年 8月18日(日) 礼拝 説教

  聖霊降臨節 第14主日礼拝― 

時間:10時30分~

 
 

説教=「人質にされた女性とイエス」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』8 章 3~11 節
(新共同訳 新約180頁)

讃美=   313,21-505(353),Ⅱ.171
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【説教要旨】
 本日の聖書の個所は絵画藝術や文学などで扱われているところでもあり、よく知られている物語でもあります。当該箇所は後の世からの挿入だとも指摘されますが、挿入されるからにはそれなりの理由があったはずです。朝早く、イエスはエルサレムの神殿の境内に座って教えを説く人の子イエス。そこへ、律法学者やファリサイ派の人々が「姦通の現場」で捕らえたとされる女性を連行し、往来の真ん中に立たせて「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」と、今まさに石打ちの刑の審判が下されるところの女性のいのちと引き換えにして問答が展開します。律法学者やファリサイ派の指摘するように、「姦通」、つまり不倫の現場を抑えられたのであれば、そのような措置も考えられます。しかしそもそも律法学者やファリサイ派たちの訴えが本当なのか、彼らはただ自説を主張するだけで女性の言い分を聞こうとはいたしません。『ヨハネによる福音書』でも女性はただ沈黙ばかり。自ら弁明を試みる様子もありません。上辺では律法学者の言い分は本来正しく、その裁きに従うばかりの女性は、イエスとの出会いにより罪を赦されたとの理解もあるのですが、その理解は正しいのでしょうか。

 実のところは古代ユダヤ教の法廷では、女性の発言は一切証言としては認められていませんでした。ですから、仮にこの場で女性が弁明を試みたとしても誰にも聞く耳をもってもらえず「真ん中に立たせられる」という、まさしく人々から石を投げられる場にあって誰からも身を守られるわけでも、何にも頼ることも赦されず、問答無用の状況に立たされていました。女性が極貧の出身であろうと、やもめであろうと、口の利けない女性であろうと、律法の解釈の正当性はすべて周囲の人々の喧噪でどうにでもなってしまいます。もはやここまで来ると、女性のいのちは言葉を操る術を心得ている人々のなすがままにされてしまいます。なぜこの女性はこの場に連行されてきたのでしょうか。福音書の書き手集団は明確にその意図を記します。「イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである」。女性は一部の律法学者やファリサイ派が、人の子イエスの身柄拘束とあわよくば殺害するための口実として人質にされています。モーセの戒めよりも先んじて編集された『創世記』では神にかたどられて創造されているはずの女性の人命が、このような仕方で損なわれてよいのかとの討議は行なわれません。恐怖に黙する女性の態度は、ピラトの前で沈黙するキリストの姿を先取りするかのようでもあります。

 さて、この場でイエスは指で地面に何か書き始められた、とあります。人の子イエスは何を書き始められたのでしょうか。福音書には明確に示す言葉はありませんし、これは原典にあたってみても変わりません。ただ文脈を考えるならば、律法は人のいのちを殺すものなのか、活かすものなのか、と思索していたようにも読みとれます。律法学者としての経歴をもつパウロの理解に則するならば、「律法はわたしたちをキリストへ導く養育係」であり、もしこの場で全ての人々にイエスがキリストとして示されず、あくまで隠されていたとしても、メシアへと導く「養育係」としての解釈の余地はあったはずです。この場面で女性を引きずり出してきた男性の思惑での律法の解釈はまことに醜悪で歪んでいました。だからこそ人の子イエスの「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女性に石を投げなさい」との言葉に慄いた傲慢な人々は、一人またひとりと立ち去るほかありませんでした。いのちを司るはずの律法をめぐる歪みに、己が歪みを突きつけられ、立ち去るほかなかったのです。誰もいなくなった後に、人の子イエスは語りかけます。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」。人の子イエスは女性を「女」とは呼ばず敬意をもって「婦人よ」と呼びかけます。これは新共同訳ならではの意訳ですが、決して的外れではないと思われます。なぜなら人の子イエスはこの女性もまた神に息を吹き込まれた「人間仲間」としてフラットな関係を結んでいるからです。それでは「これからは、もう罪を犯してはならない」との女性へのメッセージは何を示しているというのでしょうか。

 イエスはここで女性に対して罪の赦しとともに免責条項としてこの言葉を発したとは思えません。罪を犯したかどうかを確かめる術は律法学者の証言以外には物証がないのがその理由です。むしろ「罪を犯すな」との言葉は「誰をも盾にするな」という意味でわたしたちに向けられています。戦後、長らく口をつぐんできた女性の群れがいます。それは男性の責任だと言わねばなりません。『聖書』は人を活かすためにあるとイエスは語ります。

2024年8月7日水曜日

2024年 8月11日(日) 礼拝 説教

  聖霊降臨節 第13主日礼拝― 

時間:10時30分~



説教=「神の愛は人の道をはっきり照らす」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』7 章 45~52 節
(新共同訳 新約180頁)

讃美=  21-521(344),171,Ⅱ.171
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【説教要旨】
 本日の『聖書』の個所では、人の子イエスの教えに慄いた群衆の間に対立が生じ、分裂するなかで、イエスに怯え、殺意すら抱く一部の祭司長やファリサイ派の人々の狼狽ぶりと、かつて夜半にイエスのもとを訪れた律法学者ニコデモの姿が描かれます。ニコデモは「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」と語り、イエスの主張の正当性は『律法の書』に厳密に則して判断しなくてはならないと主張する他の学者たちとは一線を画しています。同調圧力に屈しない力を人の子イエスから授かった証し人の姿を見る思いがいたします。さまざまな仕方でユダヤ教の正典である『律法の書』の解釈をねじ曲げようとする人々がいる一方で、イエス・キリストのあゆみもまた『旧約聖書』の解き明かしの延長にあり、さらにはその完成であるとの証しを試みているようです。
 しかしわたしたちは本日の場面のニコデモのように『聖書』の言葉に根ざし、思慮を重ねた上で発言し、態度を整えているとは概して言いがたい日々を過ごしています。ただしニコデモもまた初めての出会いから少しずつ変えられて人の子イエスを弁護しようとの勇気をようやく神から授けられるにいたりました。もしも『聖書』の解き明かし、各々のキリストへの向き合い方、また教会のあり方が、世の支配に歪められるというならば、わたしたちはいったいどのように向きあうというのでしょうか。
 おそらくわたしたちは、世の風に打ちのめされながらも真摯に生きようと試みるのではないでしょうか。不器用だと言われながらも、要領が悪いと言われながらも、それでも祈りを忘れない生き方を選ぶのではないでしょうか。身に覚えのない言葉を受けたとて、その態度は変わりません。先に召された人々との関わりが記憶にあれば、その記憶が実は使徒パウロの記す、心に帯びた「イエスの焼き印」となりわたしたちの行く道を照らします。そこに敵対する人々がいたとしても、わたしたちはその人たちの顔を見つめて、憎悪を向ける虚しさを知ります。そしてそこにわだかまりがあったとしても、そのモヤモヤを主なる神に委ね、幾年月が費やした実りとしてそのわだかまりが晴れて、互いに受けた傷を癒す交わりを育むことができます。京橋駅や森ノ宮駅の屋根を支える鉄骨には米軍の戦闘機による機銃掃射の跡が今も残っていますが、その跡を眺めながらもそう願いたいのです。
 民間人の暮らす地域を焼夷弾で爆撃するという、米軍による無差別爆撃は3月10日の東京大空襲から始まった、と言われています。2時間で10万人が亡くなるというその数は、世界史上類を見ない惨劇でした。ただこの空襲に及んだ爆撃機は、高度2000メートルの飛行命令と対空武装をすべて外されていたことを知る人は少ないのです。3月10日から8月15日正午までのわずか五ヶ月で日本の内地の都市は殆どが焼け野原になりましたが、他方で485機の爆撃機が失われました。1機につき搭乗員は11人。脱出したパイロットのうち救助されず、日本の本土で待ち受けていたのは、復讐の念に燃える群衆や警防団、それを扇動する憲兵でした。
 敗戦後BC級戦犯の追及を恐れて、パイロットの殺害に及んだ人々は互いを密告し、デマを流すという混沌に巻き込まれていきました。問題はどのような場面においても戦時なら戦時、平時なら平時の国際法なり軍法会議が適応されなくてはならないところです。空襲の犠牲となった日本人や朝鮮人だけでなく、群衆に殺害されたパイロットもまた戦争の犠牲者です。中国の故事成語に「一将功成って万骨枯れる」との言葉があります。将軍のひとつの手柄の陰には無数の犠牲があるとの意味です。核兵器の使用も含めての本土の空襲作戦を立案したカーチス・ルメイ将軍は戦後に勲一等旭日大綬章を日本政府から贈られました。その意味でいえば、誇らしげに飾られる勲章の裏には、戦争中の混乱が今日まで及ぶ血塗られた十字架のような一面をも帯びていると言えましょう。
 わたしたちがこの季節に願うのは、祈りの言葉として内容はごくささやかな願いです。「天のわたしたちのお父さん、あなたの名前をあがめさせてください。あなたの国がきますように。あなたの御旨が天にあるように、地にも実現させてください。わたしたちに日々の糧を、今日もおあたえください。罪を犯す者を赦すように、わたしたちの罪をも赦してください。試練に遭わせないでください。悪より救い出してください。すべての支配と力と栄光は、すべてあなたのものだからです」。律法学者ニコデモもこの祈りに連なる未来を、キリストを通して備えられました。イエス・キリストは自らの犠牲によりすべての人を活かし、復活の先駆けとなったのです。

2024年7月31日水曜日

2024年 8月4日(日) 礼拝 説教

  聖霊降臨節 第12主日礼拝― 

 ―――平和聖日礼拝――― 

時間:10時30分~




説教=「秘めた悲しみに宿る平和への願い」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』7 章 1~9 節
(新共同訳 新約176頁)

讃美=  21-495(310),531,讃美ファイル 3
「主の食卓を囲み」(全節),Ⅱ.171
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【説教要旨】
 本日の『聖書』の個所では、ガリラヤを巡る最中、ユダヤ人から危険視された人の子イエスが、無益な衝突を避けて宣教の地より遠ざかるなかで「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしているわざを弟子にも見せてやれ。公に知られようとしながら、人知れず行動するような人はいない。自分を世に示せ」と時を見極めない肉親から求められる一方「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。世はあなたがたを憎むことはできないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行なっているわざは悪いと証ししているからだ。あなたがたは仮庵の祭に上って行くがよい。わたしはまだ、わたしの時が来ていないからだ」と答えてガリラヤに留まられたとの物語が記されます。「仮庵祭」とは太陽暦の10月ごろに行なわれる古代ユダヤ教の祭で、収穫を祝うとともに、イスラエルの民が出エジプトの最中にイスラエルの民が荒れ野で天幕を張り暮らした出来事を記念する祭で、毎日シロアムの池の水を黄金の器にくみ神殿に運び、朝夕の供え物とともに祭壇に注ぐ行事が行なわれたと現在では言われています。『ヨハネによる福音書』9章1節には見えない人が人の子イエスの奇跡によって目を開かれた場としても記されますが、今朝の箇所ではむしろイエスが兄弟から心ない言葉を投げかけられる場面が強調されます。「兄弟たちはイエスを信じていなかった」との言葉が強調されます。これは他の福音書にはない人の子イエスと肉親との確執でもあり、おそらくは『ヨハネによる福音書』成立にいたるまでのキリスト者の苦しみの一つではなかったかと思われます。肉親との軋轢を抱えながらイエス・キリストとの関わりを尊んだ人々には、キリストへの服従とは上辺での喜びばかりには留まらなかった証しでもあります。

 本日は平和聖日礼拝です。あの戦争が終ったからといって、当事者の生涯にきれいさっぱり節目が着いたなどとは決して申せません。むしろ殆どの戦争当事者がその悲しみを言葉にしないまま天に召されていくという時代を迎えています。

 従軍経験者がすでに天に召された中で初めて言及される人々の群れが幾つかあります。それは敗戦時にいたるまで心身に障がいをおもちの方々がどのような風に吹かれることとなったのか、また日々の過酷な戦闘経験の中で人の心がどのように荒んでいくのか、さらには戦後そのような仕方で人生を遮られた人々が歩まずにはおれなかった道です。映画やドラマでは決して描かれない世界がそこにはあります。名パイロットとされた人物が、敗戦後には酒浸りに陥り、内臓疾患で亡くなる。大戦中に無謀な作戦を立案し、多くの生き残りの怨嗟の的となりながら虚勢を張り虚しく老後を過ごす。交通インフラの鉄道が艦載機の機銃掃射に遭い家族で自分一人が生き残る。大陸での軍務により精神的外傷によって戦後は教員になるものの、何かあると生徒に懲罰といって教育の名の下に暴力を振るう。反社会勢力の資金源となる薬物は実は戦時下には合法的な疲労回復剤だった。身も心も傷つきながら、無秩序の中を生きようとする中で、とうとう正気を失い座敷牢や離れに閉じ込められたこども。

 このような荒んだ世にあって天から繰り降ろされた神の愛の糸を握りしめて、人としての心を取り戻すべく礼拝に集った人々がいました。生き残った罪責感と相俟って、十字架のイエス・キリストに家族を重ねて、二度と戦乱を起こさないと誓った人々は、静かに時代から声を潜めつつあります。

 現在、数多の神学校で牧会に赴こうとする人々が減少しているとの話を聞きます。学術的な研究は『聖書』と関わる限り、その世界現代に「翻訳」して身近な事柄と関連づける上では大いに助けになります。ただしそれは『聖書』と関わり、イエス・キリストと関わることなしには、恐らく将来にはAIにとって変わるような、無機質なデーター収集と何ら変わりの無い作業になってしまうことでしょう。

 わたしたちに求められるのは、様々な思い悩みに直面しながら、そして平和を憂いながらも『聖書』を開き、その中で「真の平和とはいかにあるべきだったのか」「これからどう生きたらよいのか」と『聖書』の言葉に問い尋ねるわざです。それは時を超えて今こそわたしたちに求められる「真理に根を降ろす」わざです。かつて栄養失調で苦しんだこどもたちは現在ではどこにいるのか。放置されたお年寄りは現在ではどこにいるのか。交わりから排除され道端に項垂れた人々はどこにいるのか。平和の時が訪れるまで、わたしたちは見極める力をイエス・キリストから授かりたいと願います。今こそ祈りつつ真摯にイエス・キリストを尋ね求めましょう。

2024年7月25日木曜日

2024年 7月28日(日) 礼拝 説教

       聖霊降臨節 第11主日礼拝― 

時間:10時30分~


 

説教=「イエスはいのちのパンである」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』6 章 41~52 節
(新共同訳 新約176頁)

讃美= 399,21-18(Ⅱ.1),21-29(544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 人には語れない事柄があるように、教会や日本基督教団にも語りづらい事柄があり、それを言葉にするときに深い痛みを伴わずにはおれない場合があります。日本基督教団の場合は1967年に当時の日本基督教団鈴木正久総会議長の名で「第二次世界大戦下における日本基督教団の責任についての告白」が記されています。その条項をめぐってさまざまな解釈が火花を散らした時代もありましたが、もうひとつの事柄としては1950年代半ばから北海教区で行なわれた「北海道特別開拓伝道(北拓伝)」がありました。それは当時の産業エネルギーであった石炭の採掘場、すなわち北海道の炭鉱街に教会を設立し牧師を派遣し、伝道活動に必要な全経費を当初の一年間は全額日本基督教団が負担、その翌年は半額といった具合で減額していく分、牧師を軸として開拓伝道を行なうというものでした。その結果どうなったかといえば、付帯事業の設立に成功した幾つかの例外を除き、石油への産業エネルギーへの転換に伴い廃坑が相次ぎ、窮乏した牧師一家・教会員も離散、教会が消滅する事態にいたったと言われます。もちろんその困難の中で支えあった牧会者の絆には実に強いものがあり、牧会を退いた仲間とも交わりを維持し続けた者もいたと恩師からは聞きましたが、行方不明者も少なくなかったとも仰せでした。

 ただしかし、人は人生のどこかで切羽詰まった暮らしを経ずには、これは絶対に外してはならないという事柄と、これはこだわらなくても大丈夫だとの見極めの基準が学び得ないとも言えるかもしれません。わたしたちは種々の経験から絶対に外してはならない事柄として「イエス・キリストの使信」との見極めがありますのでありがたいところではありますが、今の世におきましては人としてのいのちの拠り所、善悪の判断の根拠があまりにもぼやけ、生きづらい時代になっているとは言えないでしょうか。テレビの報道が正しいとは誰も言わなくなった反面、情報の洪水の中で事柄の見極めが困難となり、人々の心が気づかないまま病んでいくような時代でもあります。そしてそれは身体の満腹さが常態化するほど深刻になってまいります。

 その意味でも本日の『聖書』の個所で「わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった」と人の子イエスが語るのは、イエスを救い主だとは認めないユダヤ教の人々にも、わたしたちにも深い問いを投げかけます。「あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが死んでしまった」とある引用元は『出エジプト記』や『民数記』です。ユダヤ教の正典のひとつ『律法』における神の審判は滅びる者と救われる者との対照が鮮烈で読むに堪えないときもあり、教会の交わりの要である復活信仰も直接には描かれません。しかし本日の箇所のイエス・キリストの教えについて見方を変えますと、論争上の敵対者であれ、自らを「いのちのパン」として差し出しているようにも思えます。そしてその出典を、その時代のユダヤ教のもうひとつの正典『預言者』に求めているところからも、ただ先祖の行いを踏襲する、繰り返すというのではなく、復活の出来事を通して開かれた未来に足を踏み入れ、「世を生かす」ために働く源となるようにとのメッセージが隠されています。返す刀で『旧約聖書』を否定し、神が創造したこの世界を、身体も含め否定的に理解するその時代のギリシア系の考え方に対する強烈な一撃となります。身体は神の霊の宿る神殿として大切にされるものです。

 時が満ちて身体が世を活かされたしるしばかりになったとしても、その生きざまというものが教会員のみなさまの血肉になっていると考えます。「年齢は決して減るものではない」とのお言葉も交わりの中で賜りました。これはご高齢の方だけでなく誰もが実感するところです。けれどもだからこそ、わたしたちを養ってくださるイエス・キリストにすべてを委ねたいと願うのです。その願いに破れがあり、ひび割れがあったとしても、加齢という現実がその人の未来を拓き、そして究極にはイエス・キリストへの復活へとつながることで、わたしたちが聖礼典以前の問題として「いのちのパン」に養われたかどうかが問われてまいります。『聖書』の言葉さえただのスローガンに留まるならば、他者を排除する方便に容易にすり替わります。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」とはそのすり替えへの歯止めであるにも拘わらず、です。

 イエス・キリストはわたしたちのために自らの身体を献げてくださいました。それはわたしたちが限りある時間の中におかれ、様々な過ちを経ながらも、やがて神自らが創造された人そのものの姿に立つためです。神は自らにかたどってわたしたちを創造されました。そして今も「活きよ」と語り、キリストを通して愛されています。