―聖霊降臨節 第14主日礼拝―
時間:10時30分~説教=「人質にされた女性とイエス」
稲山聖修牧師
聖書=『ヨハネによる福音書』8 章 3~11 節
(新共同訳 新約180頁)
讃美= 313,21-505(353),Ⅱ.171
本日の聖書の個所は絵画藝術や文学などで扱われているところでもあり、よく知られている物語でもあります。当該箇所は後の世からの挿入だとも指摘されますが、挿入されるからにはそれなりの理由があったはずです。朝早く、イエスはエルサレムの神殿の境内に座って教えを説く人の子イエス。そこへ、律法学者やファリサイ派の人々が「姦通の現場」で捕らえたとされる女性を連行し、往来の真ん中に立たせて「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」と、今まさに石打ちの刑の審判が下されるところの女性のいのちと引き換えにして問答が展開します。律法学者やファリサイ派の指摘するように、「姦通」、つまり不倫の現場を抑えられたのであれば、そのような措置も考えられます。しかしそもそも律法学者やファリサイ派たちの訴えが本当なのか、彼らはただ自説を主張するだけで女性の言い分を聞こうとはいたしません。『ヨハネによる福音書』でも女性はただ沈黙ばかり。自ら弁明を試みる様子もありません。上辺では律法学者の言い分は本来正しく、その裁きに従うばかりの女性は、イエスとの出会いにより罪を赦されたとの理解もあるのですが、その理解は正しいのでしょうか。 実のところは古代ユダヤ教の法廷では、女性の発言は一切証言としては認められていませんでした。ですから、仮にこの場で女性が弁明を試みたとしても誰にも聞く耳をもってもらえず「真ん中に立たせられる」という、まさしく人々から石を投げられる場にあって誰からも身を守られるわけでも、何にも頼ることも赦されず、問答無用の状況に立たされていました。女性が極貧の出身であろうと、やもめであろうと、口の利けない女性であろうと、律法の解釈の正当性はすべて周囲の人々の喧噪でどうにでもなってしまいます。もはやここまで来ると、女性のいのちは言葉を操る術を心得ている人々のなすがままにされてしまいます。なぜこの女性はこの場に連行されてきたのでしょうか。福音書の書き手集団は明確にその意図を記します。「イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである」。女性は一部の律法学者やファリサイ派が、人の子イエスの身柄拘束とあわよくば殺害するための口実として人質にされています。モーセの戒めよりも先んじて編集された『創世記』では神にかたどられて創造されているはずの女性の人命が、このような仕方で損なわれてよいのかとの討議は行なわれません。恐怖に黙する女性の態度は、ピラトの前で沈黙するキリストの姿を先取りするかのようでもあります。
さて、この場でイエスは指で地面に何か書き始められた、とあります。人の子イエスは何を書き始められたのでしょうか。福音書には明確に示す言葉はありませんし、これは原典にあたってみても変わりません。ただ文脈を考えるならば、律法は人のいのちを殺すものなのか、活かすものなのか、と思索していたようにも読みとれます。律法学者としての経歴をもつパウロの理解に則するならば、「律法はわたしたちをキリストへ導く養育係」であり、もしこの場で全ての人々にイエスがキリストとして示されず、あくまで隠されていたとしても、メシアへと導く「養育係」としての解釈の余地はあったはずです。この場面で女性を引きずり出してきた男性の思惑での律法の解釈はまことに醜悪で歪んでいました。だからこそ人の子イエスの「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女性に石を投げなさい」との言葉に慄いた傲慢な人々は、一人またひとりと立ち去るほかありませんでした。いのちを司るはずの律法をめぐる歪みに、己が歪みを突きつけられ、立ち去るほかなかったのです。誰もいなくなった後に、人の子イエスは語りかけます。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」。人の子イエスは女性を「女」とは呼ばず敬意をもって「婦人よ」と呼びかけます。これは新共同訳ならではの意訳ですが、決して的外れではないと思われます。なぜなら人の子イエスはこの女性もまた神に息を吹き込まれた「人間仲間」としてフラットな関係を結んでいるからです。それでは「これからは、もう罪を犯してはならない」との女性へのメッセージは何を示しているというのでしょうか。
イエスはここで女性に対して罪の赦しとともに免責条項としてこの言葉を発したとは思えません。罪を犯したかどうかを確かめる術は律法学者の証言以外には物証がないのがその理由です。むしろ「罪を犯すな」との言葉は「誰をも盾にするな」という意味でわたしたちに向けられています。戦後、長らく口をつぐんできた女性の群れがいます。それは男性の責任だと言わねばなりません。『聖書』は人を活かすためにあるとイエスは語ります。