2020年9月24日木曜日

2020年9月27日(日) 説教(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝も行われます。)

「追いかけてくるイエスの愛」
『ヨハネによる福音書』10章22~30節
説教:稲山聖修牧師

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「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。『ヨハネによる福音書』10章7節は聖書の言葉の中でもよく知られています。ところで羊飼いと申しますと、羊の群れを導くために羊飼いは常にその先頭に立つ構図で描かれている絵画が少なくないのですが、羊飼いの働きとは実際のところどのようなものなのでしょうか。

 羊飼いを英語で綴ればShepherdとなります。特定の犬種に限らず牧羊犬の場合でもこの名が用いられます。牧羊犬を用いて羊飼いが羊の群れを導く場合にどのような動きをするかと申しますと、絶えず群れの回りを走り回り、時には群れの行く手を遮りながら、羊飼いの目指すところへと導こうとするのです。

 『ヨハネによる福音書』10章ではイエス・キリストは自らを羊飼いに重ねて論じるところが多いからこそ、実際の羊飼いの動きに思いを馳せてみたいのですが、時に羊飼いは、羊の群れが自ずから進もうとする行く手を阻むこともあるところには目を注がなくてはならないでしょう。羊飼いが羊の群れを阻むとき、また牧羊犬を用いて遮ろうとするとき、羊の群れと羊飼いは決して同じ方向を見てはおりません。牧羊犬は嗅覚と聴覚、羊飼いは研ぎ澄まされた視力で、羊の群れのかたちを整えてまいります。そこには絶えず群れの行く手に目を注ぎ続ける「牧歌的」という言葉からはほど遠い働きがあります。言わんや、イエス・キリストは自らを「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と仰せなのですから、イエス・キリスト御自身にしか見えない視野をわたしたちは歩むほかないわけであります。これはイエス・キリストに絶大な信頼を置くと同時に、大きな戸惑いをももたらします。イエス・キリストの導く先が分からない場合、わたしたちはおいしそうに見える足下の草に気をとられてしまうからです。

 本日の聖書の箇所では、足下の草地に気をとられ、導かれる行く手を見失ってしまった人々の声がまず記されます。季節は冬。冬のエルサレムには雪も降ることもありますが、それは春が近づけばの話。からからに乾燥する中で迎える冬の寒さは身に堪えるところです。身体を刺すような空っ風の中で、描かれる人々は答えが欲しいのです。今すぐ分かる答えが欲しいのです。「良い羊飼い」に開かれている展望を尋ねようとする余り、いつのまにかそれが苛立ちと憎しみになってしまうのです。「いつまで、わたしたちに気を揉ませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」。もし羊飼いに従う羊であるならば、このような激情に駆られて羊飼いに迫るとは考えられません。人々がイエスに望むメシアとは単に願いを叶えてくれるだけの「自分に都合のよいメシア」に他なりません。人々は足下に生える草を食べさせてくれればよく、遠方を見渡しながら道を拓く必要などありません。けれども羊飼いに従わない羊たちがその所行を続けるのであれば危険を察知することも、牧草地が荒れ果ててしまうことも知らないままに捨て置かれる結果に繋がりかねないのです。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行なうわざが、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う・・・」。この言葉に激昂したユダヤ人たちはあろうことか神殿の境内でイエスの殺害を試みます。しかしイエス・キリストは彼らの手を逃れて、去って行かれたと、後の箇所には記されます。

 本日わたしたちは、この箇所で捨ておかれてしまったかのように思える羊の群れに重ねられた人々の姿を思い起します。なぜイエス・キリストを殺害しようとしたのか。救い主に向けられた苛立ちと憎しみに、頑なな羊の姿が見え隠れします。しかしこの群れもまた「羊のためにいのちを捨てる良い羊飼い」の姿を十字架に仰ぐこととなります。そして復活したイエス・キリストに示された神の愛に追われて、それこそ牧羊犬に追われるかのように、足下の草むらよりももっと大切ないのちの源へと導いてくださります。よい羊飼いは羊たちの頭を強引に押さえつけ、下げさせるのではなくて、その場で羊の軛を外して顔を上げさせるのではないでしょうか。そのためにはたとえ人の設けた行く手を遮ってでも、イエス・キリストはわたしたちに道を示してくださるに違いありません。コロナ禍の中、存立の危機に直面している教会は少なくありません。だからこそわたしたちは教会のありようを公正に問うことができるのであり、それはわたしたち各々が暮らしの根をどこに降ろしているのかを確かめるわざに繋がります。「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びない」。イエスの愛に追いかけられる。それは同時に、恐怖や不安、憎しみから解放されることをも意味します。聖書の言葉に尋ねながら「良い羊飼い」に従ってまいりましょう。


2020年9月17日木曜日

2020年9月20日(日) 長寿感謝の日礼拝メッセージ(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝も行われます。)

「羊飼いイエスの声を聴き続けて」
『ヨハネによる福音書』10章1~6節 
説教:稲山聖修牧師

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 わたくしどもの教会では敬老の日のある週の始まりとなる聖日礼拝に「長寿感謝の日礼拝」を献げております。この「長寿感謝」という言葉には何重もの意味が重ねられております。いわゆる「敬老の日」に含まれる、健康が守られてご長寿をお祝いするという意味に加えて、人生の経験を土台としながらも単なる人生経験とは似て非なる、いや全く異質であるイエス・キリストとの出会いを重ねてこられたことへの感謝、そしてこの世の波風、歴史の激流の中でイエス・キリストを見つめて歩んでこられたことにより、スローガンとしてではなく物静かでありながらも堅実な証しとして後に続く者のキリストに従う道を開拓してくださった働きへの感謝の思いであります。「御礼を言われることなどしてません」と呟く方ほど実りは豊かであって、数多の困難をキリストを羅針盤にして乗り越えてこられた歩みに触れて、わたしたちは己のいたらなさと未熟さを静かに感じ入ります。
 
 本日の聖書の箇所、『ヨハネによる福音書』10章1節〜6節までには次のような記事が記されます。「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」。わたしたちは概して羊は導き手がいなければ群れをまとめることができずまとまりを欠き、狼などの餌食になってしまう家畜であるとその愚かさを強調して聖書を読み込みがちなのですが、本日の箇所では決してそのようには描かれてはおりません。羊は羊飼いの声を聞き分けるとあり、さらに羊飼いは羊一匹一匹を名前で呼ぶというのです。耳たぶにタグ付されたコード番号でもなく「あの羊、この羊」という曖昧な表現でもなく、名をつけてその名を呼ぶとは、一匹一匹にその羊ならではの関係性が成り立っているのだと言えましょう。極限まで効率化された酪農の場合、例えばヨーロッパの場合、牛は鉄パイプに縛りつけられ胃瘻で餌を流し込まれ機械のように扱われる場合もあります。そのようなあり方とは正反対の姿がこの羊には重なります。羊たちが羊飼いを信頼するからこそ羊飼いはその役目を全うできることとなります。それでは強盗や盗人が羊の囲いに入った来た場合にはどうなるというのでしょうか。羊は盗人や強盗に連れ去られるのでしょうか。決してそうではありません。「しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者の声を知らないからである」。つまり「逃げ去る」という仕方で抵抗の余地が残されているのです。
 牧師もまたイエス・キリストを前にしては数多の羊の一匹であると同時に羊飼いとしての役割を授かっております。ただし羊飼いにも種々様々な者がおります。旧約聖書、とくに『ゼカリヤ書』では「よい羊飼い」と「悪い羊飼い」という区分けをします。とくに預言者の書で「悪い羊飼い」として扱われるのは『エゼキエル書』34章ではこう記されます。「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は羊を養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、過酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりとなった」。羊は盗人の声を聞き分けることができました。強盗の声も聞き分けることもできました。しかし力尽くで支配しようとする「悪い羊飼い」のもとでは仮に逃げ果せられたとしても、その後にたどった道は過酷でした。だからこそ『エゼキエル書』ではその過酷な道のりの果てに神自らが羊飼いとなって養うと語り、『ヨハネによる福音書』ではイエス・キリスト自らが「わたしは羊の門」「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てる」とあるのです。主なる神はわたしたちを決してうち捨てられたままにはされません。
 2020年度には5名の兄弟姉妹が長寿感謝式にあって主なる神より祝福を授かり、18名の方々がその列に加わります。本物の羊飼いの声を聴き続けてきた腹を括った方々の証しがあります。この間、戦争があり、引揚があり、廃墟からの復興があり、数多の出会いと別れがあり、経済成長を支えながらも、それに伴う世の常識の流転がありました。そして東日本大震災と新型コロナウィルス感染症の影響によって大きく変わる今の世があります。その中でご自身やご家族にもその波を受けながら羊飼いの声の真贋を聞き分け、進む道筋を違わなかった方々の歩みがあります。組織としての教会への帰属意識や時の長さだけではこの歩みは不可能です。イエス・キリストとの出会い、祈る中での神の愛への全幅の信頼。今日の祝福を目の前にしたわたしたちは、その歩みに続こうと思いを新たにするのです。

2020年9月11日金曜日

2020年9月13日(日) 説教メッセージ(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝も行われます。)

「真理はあなたたちを自由にする」
『ヨハネによる福音書』8章31~36節
説教:稲山聖修牧師

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台風が過ぎ、風もそれほど強くは吹かないだろうとの見立ての中、敢えて雨戸を閉めずに布団に横たわります。朝日が差し込むか、それとも目覚ましのアラームが鳴るかして目覚めます。朝の光を浴びれば目覚めずにはおれません。そんな当たり前のように思える朝ですが、考えてみれば何億年もの昔から繰り返されてきたリズムでもあります。冬になれば日の出前に目覚めますが、冬は冬で明けの明星が泉北ニュータウンではひときわ明るく輝きます。これもまたわたしたちのいのちのリズムでもあります。

いのちに基づかない真理は、聖書の中では描かれません。いのちと関わりのない真理と申しますのは、わたしたちとは無縁であります。神ご自身が真理であるといったとき、わたしたちにどのように向き合っておられるのか、それがわたしたちにとって大切な真理となります。それでは「真理はあなたたちを自由にする」と言ったとき、それはわたしたちとどのように関わっているというのでしょうか。ときに真理という言葉は、わたしたちの日常では荒唐無稽であるだけでなく、暮らしの安寧を脅かしかねないものとして遠ざけられもします。旧約聖書では神の顔を直接仰いだ者や十戒を刻んだ箱に触れた者は死んでしまいます。嘘をつけない人が馬鹿をみる、まっすぐに生きようとすれば出る杭となる、あるいは相手に失礼を働いたということで絶縁されてしまう。銀行員が組織の不正を暴くドラマが盛り上がってはいるけれど、もし同じことをしてみたらその人は失職するに違いありません。お役所でも正しさを大切にする思いを重んじていれば、やがて心が蝕まれ自死に追いつめられいく。真理がそのようなものであるならば、わたしたちはむしろ嘘の世界に身を委ねていたいと思うのです。安寧を貪りたいと思うのです。その時の状況次第で勝ち馬に乗ってゆけば幸せになれるだろう、その嘘を敢えて呑み込みながら生きていくことが大人のあり方だと思っています。それが現実だと思っているのです。

けれども聖書のメッセージはそのようなありかたに「本当にそれでよいのか」と問いかけます。『マタイによる福音書』10章では「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」。神の前には真理との関わりで公正さが求められます。それは杓子定規なものではなくて、互いが尊敬し合える関わりをもたらす公正さです。『ルカによる福音書』では「不正な管理人の譬え」の小見出しのもと、財産を無駄遣いしているとの告げ口を聞いて会計の報告の提出を迫る主人を前にして管理人はいつ解雇されても構わないように主人に借りのある者を一人ひとり呼んで借入の証文に手を加えます。万一失業しても自分を家に迎え入れる友人をつくるためです。「油百パトス」を「五十パトス」に、「小麦百コロス」を「八十コロス」に、という具合です。管理人の行いは杓子定規に見れば明らかに不正なのですが、借入として計上されているのが現金ではなく油であったり小麦であったりするのがポイントです。いずれも経年劣化するものであり、結果として管理人が手を入れた数値は劣化した品目として相応であるという可能性も出てまいります。減価償却という考え方はわたしたちには身近です。むしろ管理人の知恵は、主人の振る舞いとして公けにされその信頼度を高めていくところにつながります。神の真理は交わりをもたらします。恐怖や不安の軛から解放します。しかしこの発想は杓子定規な考え方にはまり込んでいる人々に理解されたでしょうか。おそらくそうではなかったからこそこのイエス・キリストによる譬えが福音書に記された可能性もあります。

「真理はあなたがたがを自由にする」。『ヨハネによる福音書』のこの言葉は「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」との『マタイによる福音書』の言葉と不可分です。わたしたちが恐れているのは何事でありましょうか。新型コロナウイルスによる感染症でしょうか。それともその感染が発症した場合に被るところの様々な中傷でしょうか。「幻なき民は滅ぶ」と旧約聖書『箴言』29章にあります。さまざまな恐れは現実としてそこかしこにあるのは周知のとおりですが、わたしたちが囚われるべきは恐れではなく、喜びと自由をもたらす神の真理です。神の真理に根ざした現実こそが、わたしたちの現実であり、移ろいゆくこの世の、一人ひとり異なる現実を教会に滑り込ませてはわたしたちは身動きがとれなくなります。それは天空のリズム、いのちのリズムから離れた枷と軛以外の何物でもないからです。泉北ニュータウン教会は何よりも神の現実に立つのであり、人の思いに囚われた虚構に立ってきたのではありません。神の公平さに堅く立って、然りには然り、否には否として向き合い、いのちを活かす道を開拓する時が、今まさに来ています。

2020年9月3日木曜日

2020年9月6日(日) 説教(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝もございます。)

「二人が行なう証しは真実」

『ヨハネによる福音書』8章12~20節

説教:稲山聖修牧師

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 大型旅客機のパイロットの場合、操縦士・副操縦士の二人が操縦桿を握ります。長時間のフライトの場合、食事はそれぞれ別メニュー。片方が万一食中毒になっても別のパイロットが健康体で適正な判断を下すためのしくみです。一国の指導者である大統領もフライトの場合は大統領・副大統領別々の飛行機に搭乗します。航空機事故やテロも想定しての配慮だと言います。

 キリスト教文化圏ではこのような発想の源を聖書に求めます。まずはイエス・キリストが宣教のために遣わす弟子が常に二名であること、その根拠は聖書を辿るならば旧約聖書『申命記』19章15節にある「いかなる犯罪者であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の立証によって、相手の不正を証言する時には、係争中である両者は主の前に出、そのとき任に就いている祭司と裁判人の前に出ねばならない」という条項です。人間は神の前には常に破れを抱えています。不完全であり、失敗を犯すリスクを抱えています。だからこそ、人生を遮る性格を伴う裁判を行なう場合には、複数の証人がいて初めて正当なものであると見なされるのです。

 新約聖書の場合、イエスが二人一組で弟子に宣教のわざを託して遣わすという場面になりますと、場面は裁判の舞台である法廷で真実を解明するというよりは、イエス・キリストに従い、その教えとわざを広め、交わりを育むために求められるパートナーシップに変容してまいります。それは福音書に記される数々の癒しの奇跡物語が明らかにしているところであり、パウロもまたバルナバという仲間とともに伝道のわざに励んだのでありました。パウロとバルナバは決して「つるんでいた」のではありません。神の証しのわざを立てる必要にして充分なパートナーシップを湛えていたといえるでしょう。神の正しさとは、イエス・キリストに遣わされた交わりとして波紋のように広がっていくのであり、決して独りよがりに、そして個人が振りかざす言葉ばかりの「唯一の正義」には決して留まりません。イエス・キリストが啓示した神は、旧約聖書に記されたところの「主なる神」であります。しかし主なる神の働きかけが愛のわざとして人々に働きかけるとき、人間の側からすれば必ず多様性、つまり多様なスタイルをとる「真実」となります。なぜならばわたしたちが見て取ることのできるのは「真理の断片」に過ぎないからです。神の側からすれば正義はひとつです。しかしわたしたち破れを抱えている人間からすれば、正解は決してひとつではなく多様な姿をとります。三位一体の神という時に分かりづらく響くキリスト教の神理解も、聖書の解き明かしとしては決して疎かにはできない考え方であり、何よりも正解はひとつではないことを証ししているのではないでしょうか。

 それではイエス・キリストのパートナーとは誰であったのでしょうか。これが本日の聖書箇所の肝となる問いかけです。律法学者が問うには「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない」。つまりイエス・キリストは極めて独善的な人物として映っているからして、真実ではないとの指摘にいたるのですが、イエス・キリストは答えます。「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしは一人ではなく、わたしをお遣わしになった父が共にいるからである」。福音書の物語をたどりますと、わたしたちからすればイエス・キリストは絶えず孤独の中で苦しみつつ祈りを献げていたようですが、今日の聖書の言葉では決してそうではないと語りかけています。イエス・キリストには、父なる神がともにおられる「インマヌエル」の神として描かれているのです。あくまで父なる神との関わりの中で、イエス・キリストはそのわざを成し遂げてゆかれるという救い主の歩みが記されるのです。だからこそ次の言葉が迫ってまいります。すなわち、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」。なぜでしょうか。そこには必ず父なる神と御子イエス・キリストとの関わりを土台にした、隣人との交わりが備えられるからであります。その度台に根ざしてこそ、わたしたちの暮しのありよう、即ち、『ヨハネによる福音書』での「肉の欲(考え)」また「人の欲(考え)」と呼ばれる世界もまた祝福されるのです。また同時にその儚さをも神に祝福されたものとして受け入れることができるのです。人の姿しか目に入らない場合、わたしたちは隣人を傷つけ、その内面に土足で足を踏み入れていることに無自覚ですらあり得ます。しかし神と結ばれているキリストを軸とすることで、まことの善悪の分別を体得し他者を活かす知恵を備えられます。しっかりとした足取りで9月の歩みを始めましょう。


2020年8月27日木曜日

2020年8月30日 説教(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝も行われます。)

「書き込まれた新たな物語」

『ヨハネによる福音書』8章 3~11節

説教:稲山聖修牧師

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本日の箇所では、姦通の現場、今日の言葉で言えば不倫の現場で捕らえられた女性の姿が描かれます。イエス・キリストの振る舞いとしてまことに劇的な場面ですが、実は『ヨハネによる福音書』にのみ記されている物語でもあることを、わたしたちはつい忘れてしまいます。しかもこの物語は『新共同訳聖書』の括弧が示すように、最古の写本には記されてはおりません。後の世に書き込まれたこの物語は、福音書全体の中でどのような役割を果たしているのでしょうか。

物語の場面は都エルサレム、神殿の境内。「そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女性を真ん中に立たせた」。姦通、つまり不倫の現場で取り押さえられたということは、これは現行犯であります。物語の字面を追ってまいりますと、613ある『律法』の誡めの根幹をなす十戒の第七の誡めに触れることとなり、字義通りにとれば死罪にあたります。真ん中に立たせられるという事態は、女性にはもはや逃げる余地がないことを示しています。また該当する罪状への判決が出れば、直ちにこの女性はエルサレムの都の外に引きずり出されて石打の刑に処せられる段取りです。それは律法学者やファリサイ派の人々の言うとおりです。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の書で命じています。ところで、あなたはどうお考えですか」。「イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである」と『ヨハネによる福音書』の書き手は記すのですが、このワンフレーズによって、女性を形容する一文に大きな疑問が生じていることにみなさんはお気づきでしょうか。「不倫の現場で捕らえられた」。不倫の現場で捕らえられたからには、その現場に律法学者やファリサイ派が偶然居合わせたこととなりますが、これはあまりにも不自然です。また不倫の現場で捕らえられたのであれば不倫の相手がいるはずです。しかしその相手となる男性は姿を見せません。『旧約聖書』に描かれる不倫の事件としては、ダビデ王とバト・シェバの判例があります。王妃のいる身でありながら、忠実な家臣ウリヤの伴侶バト・シェバを見初めたダビデは不倫の関係を結びます。その事件をもみ消すためにウリヤを生還不可能な戦場に送り込み戦死させ、バト・シェバを側室に迎えるという話です。この物語ではバト・シェバに神の責めが及ぶのではなくて、ダビデ王自らに神の責めが向けられるという構成になっています。バト・シェバは決して裁きの場に引出されて死罪を申し渡されることはありません。バト・シェバは悲しみを背負った女性として描かれます。その物語を踏まえても、女性だけが引出されるのは不自然極まりないのです。かがみ込んでイエスが地面に書いていたのは、神の名であったのか、それとも誡めであったのかは分かりませんが「彼ら」すなわち律法学者は「しつこく問い続けた」とあります。立たされた女性は黙ったまま。これは明らかに「自白」なき裁判。セオリー無視の偏った裁きであることが分かります。

ところでこの場での女性と申しますのは、福音書が描く古代ユダヤ教の世界におきましては、公の場での発言を赦されてはおりませんでした。その限りでいえばこの女性は、仮に最貧困層が置かれた女性がなすすべもなく身体を売るという仕方で生計を立てるほかなく、またその貧しさの故に無作為に身体を引きずり出され、イエス・キリストを訴える口実として利用された可能性もあります。汚れ仕事に従事しているからには今さらここで身の潔白を証明する人もおらず、本人も生きる希望を失っていたのであれば、早く楽になりたいと沈黙するしかありません。しかしイエス・キリストは訴える口実を探しているはずの律法学者たちへ逆に問いかけます。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女性に石を投げなさい」。不倫に限らず613の誡めを破っていない者、律法を完成した者のみがこの女性に石を投げよというのです。期せずしてこの言葉は女性を取り囲む人々に突き刺さります。『旧約聖書』で描かれる神はイスラエルの民を愛しているからこそ律法を授けたのであって、人々を傷つけいのちを奪うための剣を与えたのではないのです。律法を完成した者であれば、この女性を責め立てるなどするはずがありません。今日の難民も含む寄留者、孤児、そしてこの女性のような寡婦の暮しを支えよという誡めはモーセ五書、すなわち『律法』には罰則規定以上の力を帯びて記されます。誰もいなくなった境内の片隅で「誰もあなたを罪に定めなかったのか」と身を起こしたイエスは女性に問います。ようやく女性は口を開きます。「主よ、誰も」。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない」。イエス・キリストは自らとの関わりの中で新しい生き方を促します。今やこの名もない女性は疑いから解放されました。恐怖から解放されました。慰み者という道具としての扱いから解放され「誰もわたしを罪に定めなかった」という事実のみを、誡めを完成した救い主イエス・キリストの前に告白しているのであります。これまでの悲しみを癒して余りある深い絆がそこには生まれています。

書き込まれた新たな物語が『ヨハネによる福音書』に組み入れられた背後には、人として扱われなかった女性たちへの眼差しがあったでしょう。今や男性本位ではない、女性自らの眼差しで構成される物語が福音書全体を彩ることに至りました。


2020年8月21日金曜日

2020年8月23日(日) 礼拝説教(自宅・在宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝も行われます。)

「キリストの<杭>となる勇気」

『ヨハネによる福音書』7章45~52節 

説教:稲山聖修牧師

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 かつて終戦にいたるまで、出征兵士を送り出すにあたり、寄せ書きをした日章旗を贈る慣わしがありました。もしその中に「支那の子供を愛してください」とのメッセージが記されていたとするならば、わたしたちは何を思うというのでしょうか。北海道本別町の歴史民俗資料館には「支那の子供を愛してください」という一文について話を続ける語り部の細岡幸夫さん(89歳)がおられます。細岡さんによれば、このメッセージを書いたのは上美里別尋常小学校で教鞭をとっていた川原井清秀さん。細岡さんが小学校三年生の担任でもあった川原井先生。戦後しばらく経った後、川原井先生の寄せ書きを見て衝撃を覚えたと申します。細岡さんにとって川原井先生はどちらかというと浮いた感じのする先生であったそうです。川原井先生はクリスチャンでした。日の丸への寄せ書きは「極端なことをいうと、このメッセージは非国民的な言葉だということで、処罰されても不思議ではなかった」そうです。川原井先生は大正5年生まれ。8人兄弟の6番目として育ったものの、7歳から12歳までの間に母親ときょうだい5人が結核で亡くなるという幼少期を過ごした後、師範学校在学中の17歳の折に受洗されたと申します。生徒をあまり𠮟ることはなく、𠮟ったとしても「自分の手を胸に当てて瞑目していた」という先生。語り部の細岡さんは語ります。「これが本当の、平和を願う本当の短い言葉だと思います。分け隔てなくこどもを愛するということ。本当にこの言葉は永久に遺していかなくてはならないと思います。特にこどもたちに観て欲しい」。日章旗を受けとった男性は戦後無事に復員されたそうですが、川原井先生は終戦直後に急性肺炎で28歳で逝去されたと申します。穏やかな川原井先生が「支那の子供を愛してください」と出征兵士に贈った言葉。勇ましい言葉が居並ぶ中で日章旗に打ち込まれたキリストの<杭>がそこにあったと言えるのではないでしょうか。

 とは言え、出る杭は打たれる、と申します。教会に連なる方で公立中学・高校に勤務される方の中には、日本国憲法にある思想・信条の自由に基づき世の国々より大きな神の国を仰ぐという意味で国歌斉唱の際には起立されない方もいます。天皇制の問題もあるでしょう。これは大阪府の公立学校で懲戒処分の対象にされます。そのように生きる教会員の方がこの場にいたとするならば、わたしたちはどのように向き合うというのでしょうか。「あなたとわたしは関係ない」と言うべきでしょうか。わたしたちはボンヘッファーが逮捕前、ドイツ軍の戦勝報道を街頭で聞く中、群衆が右手を掲げたときに「まだ時は来ていない」と仲間に語りかけたように関わるかもしれません。なぜなら<反対する>という態度以上に「子供たちを愛してください」と呼びかける方が、より大きな力をもっているように思うからです。もちろん同調圧力の強い組織や共同体で出る杭となるのには実に勇気が要るもので、その労は測りかねます。

 しかし本日の聖書の箇所でファリサイ派の律法学者であるニコデモは「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめた上でなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」とイエス・キリストへの憎悪に湧き、捕縛するために下役を遣わした祭司長や同僚であるはずのファリサイ派に抗議いたします。すでにニコデモは『ヨハネによる福音書』3章でイエス・キリストへの出会いを経ています。3章でニコデモは議員の一人として描かれます。すなわち、相応の政治力ももった律法学者です。その彼がキリストのもとを訪れたのは夜であり、新しく生まれるとはどういうことなのかと語らいます。人目を憚るように救い主をのもとを訪ねたニコデモが、今朝の箇所では明らかに誰の目にも分かる仕方で、イエスの逮捕と裁判の不備について明言するのです。思わず口走ってしまったのかもしれませんが、彼に向けられた言葉は「あなたもガリラヤ出身なのか」という実に危うい状況を示すものです。イエス・キリストとの関わりは、ただただ安心立命を求めるものではありません。時には勇気をもって、またはわれ知らずしてイエス・キリストの杭になってしまう道が開かれる場合もあります。新型コロナウイルスへの感染の報せが近づく今、その恐怖心が転じて、感染を疑われた者は降りかかる差別に慄かずにはおれないという現状があります。そんなことは止めましょうという人にも言葉礫が投げられる場合もあるでしょう。しかしそれを恐れていては、わたしたちは何も出来ないのです。時に沈黙は不当な振る舞いに及ぶ人々を黙殺するのではなく、人々の苦しみを黙認してしまうことになりはしないでしょうか。ニコデモはキリストの苦しみを見過ごせませんでした。十字架から降ろされるイエス・キリストの骸を同じ議員であるアリマタヤのヨセフとともに受けとめてまいります。このときニコデモは明らかに「出過ぎたキリストの杭」となっています。キリストに根ざす出過ぎた杭は神の愛を証しします。「支那の子供たちを愛してください」。出過ぎた杭は決して打たれません。恐れず主なる神を仰ぎましょう。

2020年8月14日金曜日

2020年8月16日(日) 礼拝メッセージ(自宅・在宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝も行われます。)

 「時が来て癒される家族のつながり」

『ヨハネによる福音書』7章1~9節

説教:稲山聖修牧師

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 小学校4年生ごろのお話です。午後4時ぐらいになるとふらっとわが家にやってくる男の子がいました。何をするというわけでもなく、例えばその時間のあたりになると放送が始まるこども向けのテレビ番組を一緒に観た後、日によっては一緒にライスカレーを囲む。時にはおうちでお母さんが心配しているでしょ、大丈夫なのと母は言うものの、二日後にまた来る。同じように時間を過ごし、少し多めに作り大皿に盛ったコロッケを一緒に食べる。そんなことが三か月ほど続いた後ピタッとその男の子はこなくなりました。なぜ三か月という時間が思い出せるかというと、一緒に観ていたテレビ番組の四分の一、ワンクールを終えたことが後から分かったからであります。どちらかといえばマラソン選手のような体格でいつも似たようなTシャツを着ていました。暑いときに玄関から上がった時には母親が自宅で風呂に入れて服を洗濯することもあったようでした。突如として来なくなったその男の子。仮にY君くんとしておきましょう。どうして来なくなったのと母に尋ねたところ「昔はよくああいう子がいたの。あんたらはご飯を食べるときにはちゃんと手を合わせるんだよ」とこども心にはわかりづらいことを語気を強めて言うのでまた叱られたかと思い、箸を止めてしまったのを覚えています。1942(昭和17)年生まれの母には見えたはずです。親御さんからは何の挨拶もなかったそのYくんは多分、家に誰もいない鍵っ子であったか、家にいるのがつらくて仕方がなかったか、何か理由があったのではないか。今でいう児童養護施設の代わりに孤児院という言葉のあった時代でした。

 新型コロナウイルス感染症拡大対策で盛んに「ステイホーム」が叫ばれましたが、家にいるのがつらかったり、何らかの事情から自宅以外の場所で安心できたはずのこどもが暴力に遭ったという話は、PCR検査陽性者数以上にはメディアでは報道されません。親子と申しましてもあり方はばらばらです。殺人・傷害事件の最大の可能性は親子や係累関係にあるとの数値もあり、血のつながりがあるからといって家族が幸せであるかどうかは別の話になります。

 そういたしますと『創世記』にあるカインとアベルの物語は何らかの比喩的な表現でもありながら現代でも俄然現実味を帯びてきます。また「族長物語」で兄エサウが弟ヤコブに抱いた憎悪、ヨセフに兄弟が抱いた殺意、『サムエル記』でダビデの娘・息子たちの間に起きた諍いの物語は地面から現れわたしたちの足首を握って放そうとはいたしません。『ヨハネによる福音書』にあります今朝の物語にいたしましても事情は変わりません。故郷にいながら「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしているわざを弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい」。殺意と憎悪が渦巻くエルサレムへと、なぜ兄弟たちはイエス・キリストを追い出そうとするのでしょうか。しかしその圧力にも拘わらずイエス・キリストは答えます。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。世はあなたがたを憎むことはできないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行なっているわざは悪いと証しているからだ。あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである」。『ヨハネによる福音書』ではこのように記した後、「こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた」と一旦筆を置きます。他の福音書でも故郷でナザレでのイエス・キリストへの無理解が描かれておりますが、今朝の箇所ではさらに一歩踏みこんで、兄弟たちが実に邪険にイエス・キリストを扱っているようです。そこには血のつながりはありながらも「世はあなたがたを憎むことはできないが、わたしを憎んでいる」という、神との関わり方に基づく世の態度の違いが鮮やかに描かれています。血のつながりもある家族もまたイエス・キリストには世に属する、救い主を受け入れようとはしない群れとなり得ます。けれどもイエス・キリストはそのような、針の筵になっているはずの故郷ガリラヤに「まだ、わたしの時は来ていないから」と言って留まり続けます。忍耐を続けます。それは来るべき時、すなわち民衆にとどまらずご自分に関わる全ての眼差しを自分の欲得にではなく、また名誉欲にでもなく、丘の上に立つ十字架に転じさせ、神の救いにいたる道へと向けさせるためであり、罪という名の洞穴に閉じ籠り、本来は支え養うべきいのちを傷つけ、神の恵みを前にしてなおも抵抗する人々に「戦いは終わった。神の愛にすべてを委ねて出てくるように」との講和条約を結ばせるためであります。昨日はポツダム宣言受諾の日でありましたが、その後も南の島に立て籠って戦う将兵もいました。大陸では引揚の際、足手まといになるという意味だけでなく生き延びる可能性を少しでも広げるために残留孤児となったこどもがいました。救い主の言動に無理解であったイエスの兄弟ヤコブは、後に初代教会のわざに殉じました。傷を負った全ての家族に神の平安と癒しを乞い願います。