2020年8月21日金曜日

2020年8月23日(日) 礼拝説教(自宅・在宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝も行われます。)

「キリストの<杭>となる勇気」

『ヨハネによる福音書』7章45~52節 

説教:稲山聖修牧師

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 かつて終戦にいたるまで、出征兵士を送り出すにあたり、寄せ書きをした日章旗を贈る慣わしがありました。もしその中に「支那の子供を愛してください」とのメッセージが記されていたとするならば、わたしたちは何を思うというのでしょうか。北海道本別町の歴史民俗資料館には「支那の子供を愛してください」という一文について話を続ける語り部の細岡幸夫さん(89歳)がおられます。細岡さんによれば、このメッセージを書いたのは上美里別尋常小学校で教鞭をとっていた川原井清秀さん。細岡さんが小学校三年生の担任でもあった川原井先生。戦後しばらく経った後、川原井先生の寄せ書きを見て衝撃を覚えたと申します。細岡さんにとって川原井先生はどちらかというと浮いた感じのする先生であったそうです。川原井先生はクリスチャンでした。日の丸への寄せ書きは「極端なことをいうと、このメッセージは非国民的な言葉だということで、処罰されても不思議ではなかった」そうです。川原井先生は大正5年生まれ。8人兄弟の6番目として育ったものの、7歳から12歳までの間に母親ときょうだい5人が結核で亡くなるという幼少期を過ごした後、師範学校在学中の17歳の折に受洗されたと申します。生徒をあまり𠮟ることはなく、𠮟ったとしても「自分の手を胸に当てて瞑目していた」という先生。語り部の細岡さんは語ります。「これが本当の、平和を願う本当の短い言葉だと思います。分け隔てなくこどもを愛するということ。本当にこの言葉は永久に遺していかなくてはならないと思います。特にこどもたちに観て欲しい」。日章旗を受けとった男性は戦後無事に復員されたそうですが、川原井先生は終戦直後に急性肺炎で28歳で逝去されたと申します。穏やかな川原井先生が「支那の子供を愛してください」と出征兵士に贈った言葉。勇ましい言葉が居並ぶ中で日章旗に打ち込まれたキリストの<杭>がそこにあったと言えるのではないでしょうか。

 とは言え、出る杭は打たれる、と申します。教会に連なる方で公立中学・高校に勤務される方の中には、日本国憲法にある思想・信条の自由に基づき世の国々より大きな神の国を仰ぐという意味で国歌斉唱の際には起立されない方もいます。天皇制の問題もあるでしょう。これは大阪府の公立学校で懲戒処分の対象にされます。そのように生きる教会員の方がこの場にいたとするならば、わたしたちはどのように向き合うというのでしょうか。「あなたとわたしは関係ない」と言うべきでしょうか。わたしたちはボンヘッファーが逮捕前、ドイツ軍の戦勝報道を街頭で聞く中、群衆が右手を掲げたときに「まだ時は来ていない」と仲間に語りかけたように関わるかもしれません。なぜなら<反対する>という態度以上に「子供たちを愛してください」と呼びかける方が、より大きな力をもっているように思うからです。もちろん同調圧力の強い組織や共同体で出る杭となるのには実に勇気が要るもので、その労は測りかねます。

 しかし本日の聖書の箇所でファリサイ派の律法学者であるニコデモは「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめた上でなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」とイエス・キリストへの憎悪に湧き、捕縛するために下役を遣わした祭司長や同僚であるはずのファリサイ派に抗議いたします。すでにニコデモは『ヨハネによる福音書』3章でイエス・キリストへの出会いを経ています。3章でニコデモは議員の一人として描かれます。すなわち、相応の政治力ももった律法学者です。その彼がキリストのもとを訪れたのは夜であり、新しく生まれるとはどういうことなのかと語らいます。人目を憚るように救い主をのもとを訪ねたニコデモが、今朝の箇所では明らかに誰の目にも分かる仕方で、イエスの逮捕と裁判の不備について明言するのです。思わず口走ってしまったのかもしれませんが、彼に向けられた言葉は「あなたもガリラヤ出身なのか」という実に危うい状況を示すものです。イエス・キリストとの関わりは、ただただ安心立命を求めるものではありません。時には勇気をもって、またはわれ知らずしてイエス・キリストの杭になってしまう道が開かれる場合もあります。新型コロナウイルスへの感染の報せが近づく今、その恐怖心が転じて、感染を疑われた者は降りかかる差別に慄かずにはおれないという現状があります。そんなことは止めましょうという人にも言葉礫が投げられる場合もあるでしょう。しかしそれを恐れていては、わたしたちは何も出来ないのです。時に沈黙は不当な振る舞いに及ぶ人々を黙殺するのではなく、人々の苦しみを黙認してしまうことになりはしないでしょうか。ニコデモはキリストの苦しみを見過ごせませんでした。十字架から降ろされるイエス・キリストの骸を同じ議員であるアリマタヤのヨセフとともに受けとめてまいります。このときニコデモは明らかに「出過ぎたキリストの杭」となっています。キリストに根ざす出過ぎた杭は神の愛を証しします。「支那の子供たちを愛してください」。出過ぎた杭は決して打たれません。恐れず主なる神を仰ぎましょう。