2020年9月17日木曜日

2020年9月20日(日) 長寿感謝の日礼拝メッセージ(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝も行われます。)

「羊飼いイエスの声を聴き続けて」
『ヨハネによる福音書』10章1~6節 
説教:稲山聖修牧師

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 わたくしどもの教会では敬老の日のある週の始まりとなる聖日礼拝に「長寿感謝の日礼拝」を献げております。この「長寿感謝」という言葉には何重もの意味が重ねられております。いわゆる「敬老の日」に含まれる、健康が守られてご長寿をお祝いするという意味に加えて、人生の経験を土台としながらも単なる人生経験とは似て非なる、いや全く異質であるイエス・キリストとの出会いを重ねてこられたことへの感謝、そしてこの世の波風、歴史の激流の中でイエス・キリストを見つめて歩んでこられたことにより、スローガンとしてではなく物静かでありながらも堅実な証しとして後に続く者のキリストに従う道を開拓してくださった働きへの感謝の思いであります。「御礼を言われることなどしてません」と呟く方ほど実りは豊かであって、数多の困難をキリストを羅針盤にして乗り越えてこられた歩みに触れて、わたしたちは己のいたらなさと未熟さを静かに感じ入ります。
 
 本日の聖書の箇所、『ヨハネによる福音書』10章1節〜6節までには次のような記事が記されます。「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」。わたしたちは概して羊は導き手がいなければ群れをまとめることができずまとまりを欠き、狼などの餌食になってしまう家畜であるとその愚かさを強調して聖書を読み込みがちなのですが、本日の箇所では決してそのようには描かれてはおりません。羊は羊飼いの声を聞き分けるとあり、さらに羊飼いは羊一匹一匹を名前で呼ぶというのです。耳たぶにタグ付されたコード番号でもなく「あの羊、この羊」という曖昧な表現でもなく、名をつけてその名を呼ぶとは、一匹一匹にその羊ならではの関係性が成り立っているのだと言えましょう。極限まで効率化された酪農の場合、例えばヨーロッパの場合、牛は鉄パイプに縛りつけられ胃瘻で餌を流し込まれ機械のように扱われる場合もあります。そのようなあり方とは正反対の姿がこの羊には重なります。羊たちが羊飼いを信頼するからこそ羊飼いはその役目を全うできることとなります。それでは強盗や盗人が羊の囲いに入った来た場合にはどうなるというのでしょうか。羊は盗人や強盗に連れ去られるのでしょうか。決してそうではありません。「しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者の声を知らないからである」。つまり「逃げ去る」という仕方で抵抗の余地が残されているのです。
 牧師もまたイエス・キリストを前にしては数多の羊の一匹であると同時に羊飼いとしての役割を授かっております。ただし羊飼いにも種々様々な者がおります。旧約聖書、とくに『ゼカリヤ書』では「よい羊飼い」と「悪い羊飼い」という区分けをします。とくに預言者の書で「悪い羊飼い」として扱われるのは『エゼキエル書』34章ではこう記されます。「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は羊を養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、過酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりとなった」。羊は盗人の声を聞き分けることができました。強盗の声も聞き分けることもできました。しかし力尽くで支配しようとする「悪い羊飼い」のもとでは仮に逃げ果せられたとしても、その後にたどった道は過酷でした。だからこそ『エゼキエル書』ではその過酷な道のりの果てに神自らが羊飼いとなって養うと語り、『ヨハネによる福音書』ではイエス・キリスト自らが「わたしは羊の門」「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てる」とあるのです。主なる神はわたしたちを決してうち捨てられたままにはされません。
 2020年度には5名の兄弟姉妹が長寿感謝式にあって主なる神より祝福を授かり、18名の方々がその列に加わります。本物の羊飼いの声を聴き続けてきた腹を括った方々の証しがあります。この間、戦争があり、引揚があり、廃墟からの復興があり、数多の出会いと別れがあり、経済成長を支えながらも、それに伴う世の常識の流転がありました。そして東日本大震災と新型コロナウィルス感染症の影響によって大きく変わる今の世があります。その中でご自身やご家族にもその波を受けながら羊飼いの声の真贋を聞き分け、進む道筋を違わなかった方々の歩みがあります。組織としての教会への帰属意識や時の長さだけではこの歩みは不可能です。イエス・キリストとの出会い、祈る中での神の愛への全幅の信頼。今日の祝福を目の前にしたわたしたちは、その歩みに続こうと思いを新たにするのです。