聖書箇所:使徒言行録23章12~22節
「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しを立てなければならない」。聖霊はパウロの勇気をそそぎ、目の前に立ちはだかる壁を突破する力を備える。その壁とはパウロを暗殺するという謀をもつ集団である。それは「陰謀を企み、パウロを殺すまでは飲み食いしないという誓いを立てた」とあるように、万策を尽してパウロを陥れ、命を奪うという練りに練られた計画性をもつ。表舞台でパウロを排除できなかった人々が、祭司長や長老らという権力者達と、今度は闇の中で破壊的な事柄を綿密に計画する。
私たちは、ここでパウロが主イエスと出会う前に師と仰いだ律法の教師ガマリエルを思い出すべきだ。ガマリエルは語る。「あの者達から手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たのであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ」。
神に逆らう者のたくらみがあるならば、主なる神は必ず逃れの道を備える。旧約聖書では御使いが現れ、主のみ旨に従おうとする者に道を備えてきた。本日の箇所でも御使いのような働きを担う若者が描かれる。その素性は「パウロの姉妹の子」という匿名で記されるだけだ。この若者の働きを通して、パウロは謀を知り先手を打つ。その道筋で、百人隊長と千人隊長がパウロの命を守る。千人隊長にもパウロ暗殺の知らせは心外であったろう。自らの謀を成就させるために、ローマ帝国の千人隊長を手段として利用する動きがあったからだ。
しかし、いのちを殺めたり害したりする事柄にのみ執念を燃やす人々の怨念は決して目的を果たすことはできない。逆にいえばイエス・キリストのゆえに困難に遭う者には、必ず逃れの道が備えられるとの使徒言行録の書き手の確信が記されているともいえる。逃れの道とて安易な道ではない。それゆえに逃れの道が祝福され、新しい信仰の道となると聖書は語る。族長物語も出エジプト記も逃れの物語。イエス・キリストに示された救いの光は、必ずや人の混乱に打ち勝つ。だから私たちは自分を追い詰める必要はない。必ず神は道を備えてくださる。それは争いに満ちた今の世界にも広がる道である。
2016年8月28日日曜日
2016年8月14日日曜日
2016年8月14日 「神から授かる知略と勇気」稲山聖修牧師
聖書箇所:使徒言行録23章1~11節
使徒言行録の世界で古代ユダヤ教を代表する群れ。エルサレムの神殿に根を降ろす祭司階級サドカイ派の聖書の読み方は、自らの財産を守るため戒めを破らずに済む道筋を探す。復活はサドカイ派には邪魔である。他方ファリサイ派は復活も天使も神の力である霊も認める。彼らは民衆に可能な限り寄り添い、会堂で聖書のメッセージを伝えようと励んだ。この違いが囚われのパウロの活路となる。
パウロの身柄を預かる千人隊長はその鎖を外し祭司長と最高法院の招集を命じる。人の目からすればたった一人のパウロの姿勢が千人隊長を動かし、対話のときを備えた。「兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って生きてきました」。使徒言行録では、神と切り離された良心はない。パウロは戒めを破らずキリストの道に従ったと赤裸々に告白する。これによって最高法院に亀裂が生まれる。モーセの戒めを破らずに既得権益を守るべく汲々とする人々へのファリサイ派の葛藤をパウロは突く。その結果ファリサイ派の人々はパウロの味方につく。更には今までパウロの身柄を拘束したローマ帝国の力が、パウロを保護する逆転が生じる。敵対者が味方となりパウロの楯となる。
この実に劇的な箇所で思い起こされるのは主イエスが語った「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい」との言葉。その教えは関わる相手によって態度を変えなさい、とか、教会の内と外で立ち振る舞う行動原理を変えなさいという浅薄なものではない。蛇はエジプトからギリシアにいたるまで知恵を象徴する動物。そして鳩が示すのは平和を目指す聖霊の力。素直な心、繊細な心、痛む心が鋭い洞察力となり、世に各々遣わされた場で主にある兄弟姉妹を守るとの確信が記されている。「主を畏れることは知恵の初め」との旧約聖書の言葉を主イエスは大胆に解き明かした。そしてこの知恵を用いてパウロは危機を脱した。本日はポツダム宣言受諾の前日。大阪・京橋での空襲では大人もこどもも大勢が殺された。地方都市にいたるまで丸焼けにされた挙げ句の果てに本土での戦は沖縄を除いて避けられた。精神論を振りかざせば戦に勝てるなど愚の骨頂。同じ轍を踏まないよう、主を畏れる知恵を祈りつつ各々授かり、道を開拓したい。
使徒言行録の世界で古代ユダヤ教を代表する群れ。エルサレムの神殿に根を降ろす祭司階級サドカイ派の聖書の読み方は、自らの財産を守るため戒めを破らずに済む道筋を探す。復活はサドカイ派には邪魔である。他方ファリサイ派は復活も天使も神の力である霊も認める。彼らは民衆に可能な限り寄り添い、会堂で聖書のメッセージを伝えようと励んだ。この違いが囚われのパウロの活路となる。
パウロの身柄を預かる千人隊長はその鎖を外し祭司長と最高法院の招集を命じる。人の目からすればたった一人のパウロの姿勢が千人隊長を動かし、対話のときを備えた。「兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って生きてきました」。使徒言行録では、神と切り離された良心はない。パウロは戒めを破らずキリストの道に従ったと赤裸々に告白する。これによって最高法院に亀裂が生まれる。モーセの戒めを破らずに既得権益を守るべく汲々とする人々へのファリサイ派の葛藤をパウロは突く。その結果ファリサイ派の人々はパウロの味方につく。更には今までパウロの身柄を拘束したローマ帝国の力が、パウロを保護する逆転が生じる。敵対者が味方となりパウロの楯となる。
この実に劇的な箇所で思い起こされるのは主イエスが語った「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい」との言葉。その教えは関わる相手によって態度を変えなさい、とか、教会の内と外で立ち振る舞う行動原理を変えなさいという浅薄なものではない。蛇はエジプトからギリシアにいたるまで知恵を象徴する動物。そして鳩が示すのは平和を目指す聖霊の力。素直な心、繊細な心、痛む心が鋭い洞察力となり、世に各々遣わされた場で主にある兄弟姉妹を守るとの確信が記されている。「主を畏れることは知恵の初め」との旧約聖書の言葉を主イエスは大胆に解き明かした。そしてこの知恵を用いてパウロは危機を脱した。本日はポツダム宣言受諾の前日。大阪・京橋での空襲では大人もこどもも大勢が殺された。地方都市にいたるまで丸焼けにされた挙げ句の果てに本土での戦は沖縄を除いて避けられた。精神論を振りかざせば戦に勝てるなど愚の骨頂。同じ轍を踏まないよう、主を畏れる知恵を祈りつつ各々授かり、道を開拓したい。
2016年8月7日日曜日
2016年8月7日「神の言葉はつながれていない」稲山聖修牧師
聖書箇所:マタイによる福音書28章11~20節
イエス・キリストの復活の書き手は、同時に抹殺を試みた人々に生じた慄きと混乱を記す。さらに復活を疑う弟子たちもいたと述べる。その描写が却って主の復活を強烈に印象づける。御使いが主イエスの復活を告げるとともに、急いでガリラヤへ行けと命ぜられた女性は、懸命の思いで託された務めを果たす。その最中、手練手管を用いた祭司長たちは番兵からの報告に愕然とする。祭司長と長老は兵士に口止め料を握らせるが、このわざ自体が祭司長や長老には真実が宿っていないことを証しする。さらには夜中にイエスの亡骸が盗まれたと吹聴するが、実のところ弟子は概して小心者であり、そのような振る舞いに及ぶはずもない。
世の権力の破れを明らかにしつつ、物語の書き手は、その眼差しをガリラヤに赴いた弟子に向ける。興味深いことに復活を疑う弟子たちも、イエスがお示しになった山へと登っているのが愛らしい。そして物語は疑いによって耕され深められる主イエスとの絆を描く。世の権力は主イエスの前には取るに足らない。だからこそ、「すべての民をわたしの弟子にせよ」との、あらゆる不正な力に対する勝利者キリストの言葉が記される。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。
ところで本日の聖書とともに、テモテへの手紙2章9節「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません」との言葉を受けて、バルメン宣言の最後のテーゼは語る。「教会の自由の基礎でもある教会への委託は、キリストが天に昇られた後に、キリストの代理として、キリストご自身の御言葉とみわざに説教とサクラメントによって奉仕しつつ、神の自由な恵みの使信を、全ての人に伝えるということである。教会が、人間的な自立性において、主の御言葉とみわざを、自力によって選ばれた何かの願望や目的や計画に奉仕せしめるというような誤った教えを、我々は退ける」。
戦後71年の平和聖日。かの時代の闇は決して私たちの日常からは消え去ってはいない。だからこそ私たちは世の光としての輝きを一層増していく。何者にもつながれない神の言葉は、次世代への最大遺物として主の平和を備える。どのような惨い仕方で眠りについた人も終末には目覚め私たちと食卓をともにする。これが私たちの希望だ。
イエス・キリストの復活の書き手は、同時に抹殺を試みた人々に生じた慄きと混乱を記す。さらに復活を疑う弟子たちもいたと述べる。その描写が却って主の復活を強烈に印象づける。御使いが主イエスの復活を告げるとともに、急いでガリラヤへ行けと命ぜられた女性は、懸命の思いで託された務めを果たす。その最中、手練手管を用いた祭司長たちは番兵からの報告に愕然とする。祭司長と長老は兵士に口止め料を握らせるが、このわざ自体が祭司長や長老には真実が宿っていないことを証しする。さらには夜中にイエスの亡骸が盗まれたと吹聴するが、実のところ弟子は概して小心者であり、そのような振る舞いに及ぶはずもない。
世の権力の破れを明らかにしつつ、物語の書き手は、その眼差しをガリラヤに赴いた弟子に向ける。興味深いことに復活を疑う弟子たちも、イエスがお示しになった山へと登っているのが愛らしい。そして物語は疑いによって耕され深められる主イエスとの絆を描く。世の権力は主イエスの前には取るに足らない。だからこそ、「すべての民をわたしの弟子にせよ」との、あらゆる不正な力に対する勝利者キリストの言葉が記される。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。
ところで本日の聖書とともに、テモテへの手紙2章9節「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません」との言葉を受けて、バルメン宣言の最後のテーゼは語る。「教会の自由の基礎でもある教会への委託は、キリストが天に昇られた後に、キリストの代理として、キリストご自身の御言葉とみわざに説教とサクラメントによって奉仕しつつ、神の自由な恵みの使信を、全ての人に伝えるということである。教会が、人間的な自立性において、主の御言葉とみわざを、自力によって選ばれた何かの願望や目的や計画に奉仕せしめるというような誤った教えを、我々は退ける」。
戦後71年の平和聖日。かの時代の闇は決して私たちの日常からは消え去ってはいない。だからこそ私たちは世の光としての輝きを一層増していく。何者にもつながれない神の言葉は、次世代への最大遺物として主の平和を備える。どのような惨い仕方で眠りについた人も終末には目覚め私たちと食卓をともにする。これが私たちの希望だ。
2016年7月31日日曜日
2016年7月31日「キリストに従う喜びと平和」稲山聖修牧師
聖書箇所:マルコによる福音書10章17~22節
「富める若者」として知られる物語。実のところ富んでいるか否かとの問題は相対的であり、キリストに従うか否かという絶対的な問いが重要。青年の抱えた課題は「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」という主イエスが証しした道に気づかなかった点。そして単なる律法学者の教師と見なし、イエスに「善い先生」と呼びかける他なかった点。優秀な律法学者になるには多くの資産が必要だった。主イエスに従えなかったのはその富が神とは無縁だったからかもしれない。弟子たちは全てを捨てて主に従った。貧しくなること自体に意味はない。キリストに従った結果がどうであれ、神の国の喜びの証人として従うことに尊さがある。この服従への勇気が青年にはなかった。
バルメン宣言第5項の冒頭には、ペトロの手紙Ⅰ.2章17節が記される。「神を畏れ、皇帝を敬いなさい」。皇帝という地上の富と権力を委ねられた者よりも、先に畏怖しなければならない方がいる。それは主なる神である。究極的にいのちの采配を握るお方は皇帝ではなく神。究極は神であり皇帝は究極以前の事柄。この前提に立ち、次の文章が記される。「国家は、教会もその中にある、未だ救われない世にあって、人間の洞察と能力の量りに従って暴力と威嚇の行使をなしつつ、法と平和のために配慮するとの課題を神の定めによって与えられていることを、聖書はわれわれに語る」。バルメン宣言は絶対平和主義には立たない。あくまで「暴力と威嚇」は、法を遵守し平和のために用いられるとの条件においてのみ赦される。続く文章は「教会は、このような神の定めの恩恵を、神に対する感謝と畏敬の中に承認する」。次には「教会は、神の国を、また神の戒めと義を思い出し、その結果、統治する者と、統治される者との責任を思い出す」。統治者を神格化するのではなく、神の国と戒めと義によって制約した上で、統治する者とされる者に責任を想起させるのが教会の役目。「教会は、一切のものを支える御言葉の力に信頼し、服従する」。教会が国家に従うのは、国家が神の国と戒めと義と関わる場合に限られる。
神に創造され、主イエスに導かれ、聖霊に活かされる私たちは、いのちが人の造り上げた政府より必ず上位に立つことを平和裏に承認する。「生きるに値しないいのち」を決める資格など誰にもないのだ。
「富める若者」として知られる物語。実のところ富んでいるか否かとの問題は相対的であり、キリストに従うか否かという絶対的な問いが重要。青年の抱えた課題は「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」という主イエスが証しした道に気づかなかった点。そして単なる律法学者の教師と見なし、イエスに「善い先生」と呼びかける他なかった点。優秀な律法学者になるには多くの資産が必要だった。主イエスに従えなかったのはその富が神とは無縁だったからかもしれない。弟子たちは全てを捨てて主に従った。貧しくなること自体に意味はない。キリストに従った結果がどうであれ、神の国の喜びの証人として従うことに尊さがある。この服従への勇気が青年にはなかった。
バルメン宣言第5項の冒頭には、ペトロの手紙Ⅰ.2章17節が記される。「神を畏れ、皇帝を敬いなさい」。皇帝という地上の富と権力を委ねられた者よりも、先に畏怖しなければならない方がいる。それは主なる神である。究極的にいのちの采配を握るお方は皇帝ではなく神。究極は神であり皇帝は究極以前の事柄。この前提に立ち、次の文章が記される。「国家は、教会もその中にある、未だ救われない世にあって、人間の洞察と能力の量りに従って暴力と威嚇の行使をなしつつ、法と平和のために配慮するとの課題を神の定めによって与えられていることを、聖書はわれわれに語る」。バルメン宣言は絶対平和主義には立たない。あくまで「暴力と威嚇」は、法を遵守し平和のために用いられるとの条件においてのみ赦される。続く文章は「教会は、このような神の定めの恩恵を、神に対する感謝と畏敬の中に承認する」。次には「教会は、神の国を、また神の戒めと義を思い出し、その結果、統治する者と、統治される者との責任を思い出す」。統治者を神格化するのではなく、神の国と戒めと義によって制約した上で、統治する者とされる者に責任を想起させるのが教会の役目。「教会は、一切のものを支える御言葉の力に信頼し、服従する」。教会が国家に従うのは、国家が神の国と戒めと義と関わる場合に限られる。
神に創造され、主イエスに導かれ、聖霊に活かされる私たちは、いのちが人の造り上げた政府より必ず上位に立つことを平和裏に承認する。「生きるに値しないいのち」を決める資格など誰にもないのだ。
2016年7月24日日曜日
2016年7月24日「奉仕は神を讃えるわざ」稲山聖修牧師
聖書箇所:マタイによる福音書20章20~28節
今朝の聖書の箇所はイエスの弟子たちの上昇志向を描く。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人はあなたの左に座れるとおっしゃってください」とのゼベダイの母。主イエスの答えは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」。このやり取りによって弟子の間に軋みと不協和音が響く。為政者はこの情念を用いて組織を造りあげる。強引さのない者や遠回りの道や険しい道を選ぶ者は嘲笑される。しかし主イエスは語る。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうあってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい人は、皆に仕える者となり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」。「仕える者」とはδιακονος、奉仕を意味するディアコニアとの関わりで理解される言葉であり、「僕」とはδουλος、奴隷という意味。支配と権力からは対極にある在り方。それがキリストに従う道。
バルメン宣言第四条項には「教会にさまざまな職位があるということは、ある人々が他の人々を支配する根拠にはならない。それは、教会全体に委ねられ命ぜられた奉仕を行うための根拠である。教会が、この奉仕を離れて、支配権を与えられた特別の指導者をもったり、与えられたりすることができるとか、そのようなことをしてもよいとかというような誤った教えをわれわれは退ける」とある。教会は支配の道具にはならない。あくまでも教会は他者に仕え、世を立ち返らせるために世に仕える。
神への奉仕は神礼拝であり神讃美のわざである。私たちには各々世に活かされた者としての賜物がある。その賜物を用いて主を証しすることが、その場その場におけるところの奉仕であり、讃美であり、喜びである。老若性別・生まれながらの特性は問われない。奉仕は神を讃えるわざ。仕えること、僕となること。キリストに従う道がここに開かれている。
今朝の聖書の箇所はイエスの弟子たちの上昇志向を描く。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人はあなたの左に座れるとおっしゃってください」とのゼベダイの母。主イエスの答えは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」。このやり取りによって弟子の間に軋みと不協和音が響く。為政者はこの情念を用いて組織を造りあげる。強引さのない者や遠回りの道や険しい道を選ぶ者は嘲笑される。しかし主イエスは語る。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうあってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい人は、皆に仕える者となり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」。「仕える者」とはδιακονος、奉仕を意味するディアコニアとの関わりで理解される言葉であり、「僕」とはδουλος、奴隷という意味。支配と権力からは対極にある在り方。それがキリストに従う道。
バルメン宣言第四条項には「教会にさまざまな職位があるということは、ある人々が他の人々を支配する根拠にはならない。それは、教会全体に委ねられ命ぜられた奉仕を行うための根拠である。教会が、この奉仕を離れて、支配権を与えられた特別の指導者をもったり、与えられたりすることができるとか、そのようなことをしてもよいとかというような誤った教えをわれわれは退ける」とある。教会は支配の道具にはならない。あくまでも教会は他者に仕え、世を立ち返らせるために世に仕える。
神への奉仕は神礼拝であり神讃美のわざである。私たちには各々世に活かされた者としての賜物がある。その賜物を用いて主を証しすることが、その場その場におけるところの奉仕であり、讃美であり、喜びである。老若性別・生まれながらの特性は問われない。奉仕は神を讃えるわざ。仕えること、僕となること。キリストに従う道がここに開かれている。
2016年7月17日日曜日
2016年7月17日「愛に根ざした真理は揺るがず」稲山聖修牧師
聖書箇所:エフェソの信徒への手紙 4章7~16節
バルメン宣言第三項は次のように語る。「キリスト教会は、イエス・キリストが、御言葉とサクラメントにおいて、聖霊によって、主として、今も働いておられる兄弟たちの共同体である。教会は、その服従によっても、その信仰によっても、その秩序によっても、またその使信によっても、罪のこの世にあって、恵みを受けた罪人の教会として、自分がただイエス・キリストの所有であり、ただその慰めと導きとによってだけ、その再臨を待ち望みつつ、生きていること、生きたいと願っていることを証ししなければならない」。
私たちが一歩この世に踏み出せば、排除の論理がまかり通る。その論理の背景には、人を人物ではなく人材としてのみ見なす理解がある。他方で聖書の世界では、排除の論理とは真逆の尺度を突きつける箇所にぶつかる。マタイによる福音書20章のぶどう園の労働者のたとえがそうだ。雇用時間に拘わらず手当は1デナリオン。ぶどう園の主人の力は絶対だが、主人は雇用した労働者を友と呼ぶ。このような就労環境は実際にはあるはずもなく、礼拝に集う私たちでさえおとぎ話のように聞こえる。それは私たちもまた排除を前提にしなければ物事を整理できない罪人だからだ。
このぶどう園の労働者のたとえを重んじた教会が執り行うサクラメントは決して能力や実績に応じて意味づけられはしない。究極のサクラメントである主イエス・キリストは、罪人の私たちをひとつの食卓に招く。そこには命令ではなく奉仕と喜びがある。いかなる世にあっても神の愛に根ざした真理は揺らぐことはない。
だからこそ、教会がそのメッセージやその秩序の形を、キリストと切り離されたところで、人の群れしか見えない眼差しで、その好むところに任せて良いとか、その時々に支配的な世の見方を巡る確信は誤った教えであるから退けられなければならない。教会が払うべき配慮は、傷みや悲しみを分かち合う祈りであり、時流に阿ねることではない。エフェソの信徒への手紙は記す。「キリストにより、身体全体は、あらゆる節々が補う合うことによってしっかり組み合わされ、結びあわされて、各々の部分は分に応じて働いて身体を成長させ、自ら愛によって造り上げられていくのです」。神の愛によって教会は育まれる。その確信に立てば、世の何者も恐れる必要はないのだ。
バルメン宣言第三項は次のように語る。「キリスト教会は、イエス・キリストが、御言葉とサクラメントにおいて、聖霊によって、主として、今も働いておられる兄弟たちの共同体である。教会は、その服従によっても、その信仰によっても、その秩序によっても、またその使信によっても、罪のこの世にあって、恵みを受けた罪人の教会として、自分がただイエス・キリストの所有であり、ただその慰めと導きとによってだけ、その再臨を待ち望みつつ、生きていること、生きたいと願っていることを証ししなければならない」。
私たちが一歩この世に踏み出せば、排除の論理がまかり通る。その論理の背景には、人を人物ではなく人材としてのみ見なす理解がある。他方で聖書の世界では、排除の論理とは真逆の尺度を突きつける箇所にぶつかる。マタイによる福音書20章のぶどう園の労働者のたとえがそうだ。雇用時間に拘わらず手当は1デナリオン。ぶどう園の主人の力は絶対だが、主人は雇用した労働者を友と呼ぶ。このような就労環境は実際にはあるはずもなく、礼拝に集う私たちでさえおとぎ話のように聞こえる。それは私たちもまた排除を前提にしなければ物事を整理できない罪人だからだ。
このぶどう園の労働者のたとえを重んじた教会が執り行うサクラメントは決して能力や実績に応じて意味づけられはしない。究極のサクラメントである主イエス・キリストは、罪人の私たちをひとつの食卓に招く。そこには命令ではなく奉仕と喜びがある。いかなる世にあっても神の愛に根ざした真理は揺らぐことはない。
だからこそ、教会がそのメッセージやその秩序の形を、キリストと切り離されたところで、人の群れしか見えない眼差しで、その好むところに任せて良いとか、その時々に支配的な世の見方を巡る確信は誤った教えであるから退けられなければならない。教会が払うべき配慮は、傷みや悲しみを分かち合う祈りであり、時流に阿ねることではない。エフェソの信徒への手紙は記す。「キリストにより、身体全体は、あらゆる節々が補う合うことによってしっかり組み合わされ、結びあわされて、各々の部分は分に応じて働いて身体を成長させ、自ら愛によって造り上げられていくのです」。神の愛によって教会は育まれる。その確信に立てば、世の何者も恐れる必要はないのだ。
2016年7月10日日曜日
2016年7月10日「神なき束縛からの解放」稲山聖修牧師
聖書箇所:コリントの信徒への手紙Ⅰ.1章30~31節
近代国家では、神の支配より人の支配。奉仕より義務と命令。弱さを受け入れず徹底的に排除する容赦のないあり方が主流となってしまった。折り重なった歪みに蝕まれるのは教会とて例外ではない。神を仰げなくなったとき、人は必ず無神論に陥る。「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです」。パウロの言葉が手紙に刻まれた背後には、この厳粛かつ重大な事柄が蔑ろにされた深い影が射す。
「イエス・キリストは、われわれのすべての罪の赦しについての神の慰めであり、同じ厳粛さをもって、われわれの暮しの全てに対する神の力溢れる要求でもある。イエス・キリストによってわれわれは、この世の神無き束縛から脱して、神の被造物に向けた自由であり感謝に満ちた奉仕にたどり着く喜ばしい解放を与えられている」。バルメン宣言第2条項。世の恐怖は深くとも、キリストの愛には勝らない。これは初代教会の時代から変わらない教会の一貫した告白でもあった。全てを失った人々を慰め、癒し、励ますという主イエスのわざが何度も確かめられ、神の言葉は暮しの全てに対する神の力による要求でもある。
近代国家の急激な経済発展は社会のひずみを伴う。そのひずみは、障碍者、心に病を抱えた人々、心と身体の性別が異なる人々、国に住まう外国人らを徹底的に排除する。
これは神ならぬ者によるいのちへの冒涜に留まらず、被造物への重大な挑戦としてバルメン宣言の起草者には映った。果たしてそれでよいのかと神の問いかけ。神の要請は、恐れることはないとの聖書の響きに身を委ねよと語る。その言葉は世の神なき束縛から私たちが脱して、被造物への自由かつ感謝に満ちた奉仕へと誘い、向きを変えさせる。それゆえ、イエス・キリストのものではなく、他の者に属する、私たちの暮らしがあるとか、イエス・キリストによる義認と聖化を必要としない領域があるというような誤った教えを私たちは退ける。日本のキリスト者は少数。数としては1パーセントに満たないからこそ、私たちは、人の孤独や悲しみが必ず神に愛されると確信する。時代に危機が迫るほど、教会は世の光としての役目をダイナミックに託される。主に従う道を各々整えていきたい。
近代国家では、神の支配より人の支配。奉仕より義務と命令。弱さを受け入れず徹底的に排除する容赦のないあり方が主流となってしまった。折り重なった歪みに蝕まれるのは教会とて例外ではない。神を仰げなくなったとき、人は必ず無神論に陥る。「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです」。パウロの言葉が手紙に刻まれた背後には、この厳粛かつ重大な事柄が蔑ろにされた深い影が射す。
「イエス・キリストは、われわれのすべての罪の赦しについての神の慰めであり、同じ厳粛さをもって、われわれの暮しの全てに対する神の力溢れる要求でもある。イエス・キリストによってわれわれは、この世の神無き束縛から脱して、神の被造物に向けた自由であり感謝に満ちた奉仕にたどり着く喜ばしい解放を与えられている」。バルメン宣言第2条項。世の恐怖は深くとも、キリストの愛には勝らない。これは初代教会の時代から変わらない教会の一貫した告白でもあった。全てを失った人々を慰め、癒し、励ますという主イエスのわざが何度も確かめられ、神の言葉は暮しの全てに対する神の力による要求でもある。
近代国家の急激な経済発展は社会のひずみを伴う。そのひずみは、障碍者、心に病を抱えた人々、心と身体の性別が異なる人々、国に住まう外国人らを徹底的に排除する。
これは神ならぬ者によるいのちへの冒涜に留まらず、被造物への重大な挑戦としてバルメン宣言の起草者には映った。果たしてそれでよいのかと神の問いかけ。神の要請は、恐れることはないとの聖書の響きに身を委ねよと語る。その言葉は世の神なき束縛から私たちが脱して、被造物への自由かつ感謝に満ちた奉仕へと誘い、向きを変えさせる。それゆえ、イエス・キリストのものではなく、他の者に属する、私たちの暮らしがあるとか、イエス・キリストによる義認と聖化を必要としない領域があるというような誤った教えを私たちは退ける。日本のキリスト者は少数。数としては1パーセントに満たないからこそ、私たちは、人の孤独や悲しみが必ず神に愛されると確信する。時代に危機が迫るほど、教会は世の光としての役目をダイナミックに託される。主に従う道を各々整えていきたい。
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