2016年7月10日日曜日

2016年7月10日「神なき束縛からの解放」稲山聖修牧師

聖書箇所:コリントの信徒への手紙Ⅰ.1章30~31節

 近代国家では、神の支配より人の支配。奉仕より義務と命令。弱さを受け入れず徹底的に排除する容赦のないあり方が主流となってしまった。折り重なった歪みに蝕まれるのは教会とて例外ではない。神を仰げなくなったとき、人は必ず無神論に陥る。「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです」。パウロの言葉が手紙に刻まれた背後には、この厳粛かつ重大な事柄が蔑ろにされた深い影が射す。
 「イエス・キリストは、われわれのすべての罪の赦しについての神の慰めであり、同じ厳粛さをもって、われわれの暮しの全てに対する神の力溢れる要求でもある。イエス・キリストによってわれわれは、この世の神無き束縛から脱して、神の被造物に向けた自由であり感謝に満ちた奉仕にたどり着く喜ばしい解放を与えられている」。バルメン宣言第2条項。世の恐怖は深くとも、キリストの愛には勝らない。これは初代教会の時代から変わらない教会の一貫した告白でもあった。全てを失った人々を慰め、癒し、励ますという主イエスのわざが何度も確かめられ、神の言葉は暮しの全てに対する神の力による要求でもある。
 近代国家の急激な経済発展は社会のひずみを伴う。そのひずみは、障碍者、心に病を抱えた人々、心と身体の性別が異なる人々、国に住まう外国人らを徹底的に排除する。
これは神ならぬ者によるいのちへの冒涜に留まらず、被造物への重大な挑戦としてバルメン宣言の起草者には映った。果たしてそれでよいのかと神の問いかけ。神の要請は、恐れることはないとの聖書の響きに身を委ねよと語る。その言葉は世の神なき束縛から私たちが脱して、被造物への自由かつ感謝に満ちた奉仕へと誘い、向きを変えさせる。それゆえ、イエス・キリストのものではなく、他の者に属する、私たちの暮らしがあるとか、イエス・キリストによる義認と聖化を必要としない領域があるというような誤った教えを私たちは退ける。日本のキリスト者は少数。数としては1パーセントに満たないからこそ、私たちは、人の孤独や悲しみが必ず神に愛されると確信する。時代に危機が迫るほど、教会は世の光としての役目をダイナミックに託される。主に従う道を各々整えていきたい。