2024年10月24日木曜日

2024年 10月27日(日) 礼拝 説教

―降誕前第9主日礼拝―

時間:10時30分~
説教=「すべてのいのちの源である神の愛」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』10 章 28~33 節
(新共同訳 新約 18頁)

讃美= 495,21-404(213),21-24(539)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
以前お話しした、釜ヶ崎で地域医療に励む中で不審死を遂げられた矢島祥子医師の再捜査を求めるチラシ配布を今月14日も与えられました。祥子医師の月命日は14日ということで、国道26号線を挟んだ鶴見橋商店街では行われています。日本基督教団高崎南教会に属していた祥子医師。実際に商店街に立ちますと、いろいろな事柄が見えてまいります。朝の時間帯による人の流れの変化だけでなく、自転車を走らせていく人、食堂の準備のためにスーパーで山ほど買い物をする人、通所で福祉サービスを受けるために伝道車椅子で行き交う人、脳梗塞の副作用からか杖をついて歩く人、専門の食材店に通うベトナム系の人やインドネシア系の人、車輪つきの大きなトランクを押しながら歩く観光客、チラシをうけとってくださる方、「そんなことやってもむだだ」と意見される人など様々です。日本人は高齢の方々が多く、反対に外国籍の方々に若者が多いという今の日本の状況もまたよく分かってまいります。しかし、どのような人であっても頭を深々と下げ「よろしくお願いします」と一枚の紙を差し出す者に暴力を振るう者はおりません。

今でこそ身の安全が保証されている中でチラシ配布ができる世ですが、福音書がカタコームという墓場を礼拝所として用い、読みあげられたその時代での宣教活動に対する対応はもっと暴力的で、正直に言えば「自分はキリスト者ですが」と名乗った時点でどうなるか分かったものではないという時代でもありました。その中で本日の週報に刻まれた箇所に先んじるところの『マタイによる福音書』10章26節からお読みいたしますと「人々を恐れてはならない。覆われているもので現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことができない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことの出来る方を恐れなさい」とあります。目を留めるべきはこの箇所で人の子イエスは精神主義に立つ軍隊のような命令を弟子に伝えているのではなく、福音宣教のわざに臨んでまことに恐れるべき者は誰なのか、というところです。この意味で、本日の箇所は誤読しやすいところではあります。

ですから文中には「領主ヘロデを恐れるな」や「ローマ皇帝を恐れるな」といった言葉が記されるのではなく、むしろわたしたちの目からすればほんの小さな、日常の中ではほぼほぼ重い価値を見出さないところにこそ、神は自らの愛をそそがれるとの言葉があります。これこそが恐れるべき事柄です。つまり「二羽の雀が1アサリオンで売られているではないか」との箇所。ここで記されている「二羽の雀」とは、恐らくは市場で販売されている日常の嘱託としての雀であったかと考えられます。エルサレムの神殿に献げられる生贄ではなく、人々がなにがしかの調理を加え、または調理済の仕方で販売されている雀です。1アサリオンとは現代でいう100円ほどの値打です。実に庶民的な食物となる鳥ですが、その一羽でさえも神の赦しがあればこそ大空を舞い続けると人の子イエスは語ります。それに加えて「あなたがたの髪の毛一本残らず数えられている」と教えは続きます。これは神がわたしたちを監視しているというのではなく、日々を生きる力を備えてくださっている、見守っているという文脈なのです。「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と本日の『聖書』の箇所は終ります。「体は殺しても魂を殺すことのできない者を恐れるな」というところから、「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と続く理由が、1羽の雀のいのちとて疎かにしない神の愛に根ざしているところが分かるというものです。

わたしたちが教会のわざに励もうとするとき、何かの証しをそれぞれの賜物のなかで示そうとするとき「大したことではないのです」と語るときがあります。それはまさにその通りなのです。時には萎縮もしますし、人間関係でつい考え込んでしまう事案もあることでしょう。鶴見橋商店街でフライヤーを撒くといえば格好はよいのですが、笑顔で受け取ってくださるアフロアフリカンの女性がいる一方で、配布終了の時間になれば、人々の靴跡だらけになっているフライヤーを見つけて拾い集めます。それでもご遺族は一縷の望みをかけて来月も行われることでしょう。わたしたちもまた、この礼拝に誰が来ようともその方を受け容れるに相応しい交わりを育みたく存じます。宗教改革記念の礼拝ですが、賛否はどうあれ、「たとえ明日世界が終わりを迎えても、わたしは今日、林檎の苗を植えるだろう」ルターの言葉が胸によぎる一週間でありたいと願います。


2024年10月13日日曜日

2024年 10月20日(日) 礼拝 説教 (特別伝道礼拝)

―聖霊降臨節 第23主日礼拝―

―特別伝道礼拝―

時間:10時30分~

 

説教=「たとえ雨風にさらされても」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』3 章 16 節
(新共同訳 新約 167頁)

讃美= 安田美穂子さん

会衆讃美=312(1 節のみ).Ⅱ 157(1 節のみ),
21 ‐ 24(539)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は、今回は「ライブ中継動画版」
のみとなります。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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2024年10月10日木曜日

2024年 10月13日(日) 礼拝 説教

   ―聖霊降臨節 第22主日礼拝―

時間:10時30分~

 

説教=「このひとりのために」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』11 章 45~54 節
(新共同訳 新約 190頁)

讃美= 
519,21-520(452),21-24(539)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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【説教要旨】
 秋分の日を過ぎた頃からようやく吹く風も秋めいてまいりました。教会で礼拝をお献げになる方々には、概して日本で行なわれる「運動会」がどのようなものか分かりかねる人もおられるかもしれません。近畿より東と、近畿より西ではプログラムも変わるでしょうし、時代によっても内容が変わります。まずは近畿より東ではどのような運動会となるか、想い出話としてではなく、昭和の記憶を頼りに辿ってみます。

 朝6時ごろに音だけの花火が響き、地域に運動会があるぞとの徴となります。グラウンドは競技のためのスペースと、保護者が新聞紙なりビニール製の風呂敷を敷いて食事ができるようなスペースが設けられます。前日の夜に作られた重箱入りのお弁当をもって生徒の家族は枡席のように場所を確保し、6時半に教室で点呼、7時から整列と行進、さらなる整列と国旗掲揚の後に国歌斉唱、ラジオ体操と続きます。競技の最中にありがたいのは、練習中には喉が渇いても水は飲めないのにも拘わらず、時には少しは大目に見てもらってプログラムの切り替わり毎に保護者席でお茶を飲めたことです。おおよそ八百名の生徒は紅組と白組に別れます。あくまでお互いに競争心を強め、運動会で勝つのが目的。集団プログラムは保護者に練習の成果を見せるのが勝負で、運動会の終わりには校長から講評の話をいただき教室に戻り、もらった紅白饅頭を自宅で家族と頬張るという流れです。

 このように一通りのお話しをいたしますと「在りし日の想い出」といった内容になりがちなのですが、注意してみますと、どこにも「個人」がいません。ベースとなるのは組織です。もちろん人はチームワークでもって社会性が養われる一面はありますが、個人を活かすためのチームワークはどこにも見いだせません。1950年代には肢体不自由の生徒が教師に、集団行動の邪魔になるとの指摘を受けて排除されたとの話も聞きました。つまり、誰も「このひとりのために」との動機をもって行なうプログラムが40年前の運動会にはなかったこととなります。あるのは競争への勝利と、力で相手を圧倒すること、そしてとにもかくにも勝利を目指すことです。

 そのような考えに則すると「このひとりのために」と力を尽くした人の子イエスに対して最高法院を召集し「この男は多くのしるしを行なっているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」との言葉の意味を概ね推し量れるようになります。問題は「我々の」との言葉に潜む「わたしの」という所有欲です。なぜ有力者はローマ帝国を恐れるのでしょうか。それは人の子イエスの態度によって民衆に騒ぎが起こり、ローマ帝国の軍隊が鎮圧に乗り出すという想定に原因があります。しかしこの最高法院がまっとうであれば、このような意見ばかりで会議が占められる筈がありません。正当な最高法院では全会一致は「罪人の結審」として審議差し戻しとなるからです。それにも拘わらず、大祭司はうそぶきます。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代りに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたには好都合だとは考えないのか」。大祭司の策略が露わになる瞬間です。「やむを得ない」でなく、積極的にイエス・キリストの殺害を肯定しています。カイアファにも「このひとりのために」とわが身を省みず神の愛を証しし続けたイエス・キリストの姿は隠されています。彼には分かりません。

 イエス・キリストの殺害のために知略を巡らせる大祭司カイアファ。それは神のご計画からは大きく外れているように思えます。しかしイエス・キリストは、これまでそうであったように、誰に対しても「このひとりのために」と決して特定の集団のためにではなく、むしろその集団から外れていく人々のため神の愛の力を発揮されました。すでにカイアファの知略は、神のご計画から大きく外れているどころか、期せずして神の御旨につつまれてさえいます。それはイエス・キリストの殺害が、いのちの滅びに留まらず、復活に定められているからです。

 人は混乱しパニックに陥ると同調圧力を作りながら少数者、また独特の自己表現をする者、集団行動の苦手な者を「異形の者」として扱い、その人を的にして暴力を伴うガス抜きを行なおうといたします。国内外を問わず、どの民にも同調圧力はあります。そしてそれは福音書の時代から何ら変わるところはありません。だからこそわたしたちは、混乱と混沌の中に置かれた時にこそ、澱の舞う水槽に投げ込まれた気持ちになればこそ、イエス・キリストが今「ほかならないこのひとりのために」何を示そうとされているのか、耳を澄まし、落ち着き、眼を開いてまいりましょう。すると不思議にも心の淀みが澄んでまいります。経験や学びもまずは主なる神に委ねて「イエス様ならば何をなさるのか、何を語りかけるのか」と祈りを日々重ねてまいりたく願います。

2024年10月3日木曜日

2024年 10月6日(日) 礼拝 説教

  ―聖霊降臨節 第21主日礼拝―

時間:10時30分~

 

説教=「まことの安らぎのなかで流れる涙」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』11 章 28~37 節
(新共同訳 新約 188 頁)

讃美= 
298,21-529(333),
    讃美ファイル 3, 21-24(539).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

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【説教要旨】
 本日は世界聖餐日・世界宣教日。思えば泉北ニュータウン教会の創立者・土山牧羔牧師は、国際連合の組織であるOMEP(「世界幼児教育・保育機構」)のメンバーとして東西冷戦の「鉄のカーテン」を乗り越えて世界を飛び回っておられました。その精神を継承した渡辺敏雄牧師がご健在のころ親睦を深めた方々にはタイ北部に暮らす少数民族との交わりがあったとのことです。代表的な民としてはアカ族・カレン族・モン族・ヤオ族・ラフ族・リス族・フモン族・チャオカオ族がおり、特にカレン族にはキリスト者が多いとのことです。そのような少数民族とタイの人々の交わる街がタイ北部のチェンライ。為替ではタイバーツが円の四倍を数える世となり、もはや日本のNGOが支援するまでもないと言われる時代、人々はすでに大衆消費社会を迎えているようです。

 しかし今年の九月、チェンライ、そして少し南にある古都チェンマイでは豪雨の結果、大小の川が溢れて大規模な洪水が起きました。能登半島のような急峻な河川ではないので流木が人々のいのちを奪うほどに流れてはこないとの話でしたが、タイの河川は概ね護岸工事がありません。だから雨期に雨が降れば洪水は想定内。そのあたりの方々の生活感覚としてはわたしたちとは異なるのかもしれません。いずれにしても、それもまた生活の一部として織り込みずみの人々は、飄々と後片づけに勤しんでいる模様です。

 しかし土地計画にしても開発事業に関しましても、この日本の方がはるかに急峻な土地を開拓して人々は暮らしてきたのだと、少しずつ集まる奥能登の水害の報に耳を傾けますと何とも言えなくなります。能登半島で片付けに励む人々は無表情で動きます。そして「涙も出ません」と取材班に呟くのが精一杯の作業が続きます。

 かつて日本に暮らす者は欧米人に較べて無表情だと言われてまいりました。少なくとも底抜けな明るさはそこにはなく、男性は涙を滅多に見せてはいけないし、女性も取り乱してはならないと躾けられました。動揺が伝わるのを防ぐ一面はあるのかもしれませんが、それでは心を病む人も少なからず生じます。

 そのような「無表情さ」を求めるあり方を人の子イエスに重ねますと様々な課題が鮮やかに見えてまいります。本日の箇所では本来は癒されるべき瀕死の兄弟ラザロが息をひきとりすでに葬られてしまったという冷徹な現実にあって、ラザロの姉妹マリアは人の子イエスの足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と呻くほかありません。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して言われます。「どこに葬ったのか」と。「ユダヤ人たちは、『主よ、来て、ご覧ください』と言った。イエスは涙を流された」、と福音書にははっきり記されます。

 ラザロのいのちを救うために、家族は東奔西走したに違いありません。このような描写は、ラザロの暮らすベタニアが、人の子イエスのいのちを狙う人々の大勢いるところだという弟子たちの先入観や偏狭さを浮き彫りにします。ベタニアの民に対する弟子の恐れは、恐怖に基づく萎縮と決めつけに満ちていたのでしょう。

 イエス・キリストはラザロを甦らせる前に、ベタニアの民と「涙の共同体」を形成します。それは神によって赦された涙であり、信頼と平安あればこその涙です。流される涙はその人の気持ちや心を守り支えます。

 今年もまた告別式の多い一年となりました。様々な打ち合わせを経ながら、わたしたちは涙を流すことすらできなくなる忙しさに置かれます。そのように敢えて忙しくして涙を流す暇もない状態にする支援もあるのだとの他宗教の考えもあります。しかしやはり人は涙を流して初めて次のステップに進めるようにも思えます。わたしたちの間では、時に隠し、そして時に街の片隅で人目を憚らなければならないと躾けられた涙。しかしイエス・キリストは超然として世に向きあうのではなく、ともに涙を流しながら、ベタニアの人々とラザロの死を悼んで交わりを一層深めたところで「死は終わりである」との人々の思い込みに亀裂を生ぜしめます。ラザロは必ず甦るのです。そしてその姿はイエス・キリストの復活をも意味しています。痛ましさに震えるかの地にあって、イエス・キリストは人々の傍らにそっとともにおられるのではないでしょうか。背中をさすりながら、涙を流してよいのだと語りかけておられるのはないでしょうか。イエス・キリストの平安はそのような道筋を幾度も重ねてもわたしたちを決して見放しはいたしません。ともに福音を味わい、キリストの平和をともにしましょう。

2024年9月26日木曜日

2024年 9月29日(日) 礼拝 説教

―聖霊降臨節 第20主日礼拝―

時間:10時30分~

 

説教=「懸命に生きればこそ 必死にあゆめばこそ」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』11 章 1~16 節
(新共同訳 新約 188 頁)

讃美= 21-155(301),512,21-27(541)
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【説教要旨】
 たまたまそこにいればこそ。たまたまその場に住めばこそ。何ということもない理由から自然災害に巻きこまれ、人生行路を変えられてしまった人々は後を絶ちません。家族を失い、住まいを失いというところから始まって10年、30年を経てもなお消せない記憶を抱えながら日々の暮らしに向きあう人々は、戦争体験者と入れ替わるように増えています。東日本大震災から14年目へと向かうなか、その時に報道カメラマンとして働いた方々の振り返りもまた世に出ようとしています。
 押し寄せる津波にレンズを向けるカメラマンもまた、自宅を同じ津波で失う。あるいは家族や親戚に犠牲者が生じる。スマートフォンでの動画撮影と並んで、そのような報道はマスメディアにあっても例を見なかったように思います。阪神・淡路の震災には、被災から距離のあるところから取材に来たマスメディア関係者に罵声を浴びせる人々の姿があり、そしてその人々にお詫びするという記録映像がありましたが、東日本大震災では「普段はここからわたしの家が見えるのですが、家は流されて全くありません」との音声がありました。撮影位置のベストポジションに入ると、挨拶しているご近所の人々の逃げ惑う姿が映り申し訳なく、撮れない。しかし自宅が流されるのであれば一当事者として状況を伝えられる、と当時を振り返るカメラマンもいました。なぜわたしはその場に立ち会ってしまったのかと、国際的な写真賞を受賞するほどに重圧に耐えきれなくなる当時の青年カメラマンもおり、「救助のヘリコプターでなくてごめんなさい」と深く葛藤する空撮班の班員もいました。津波に流される自宅を撮影したカメラマンは語ります。「復興って何なのでしょうね。もしかして100人いれば100通りの復興があって、もしかして復興できた人がいるかも知れないし、一生復興できない人もいるかもしれない。もしかしたら本当の復興とは施設や家の整備だけではなく、心の復興が終ってからの復興かと思いますが、それができないままの人もいるのかもしれない。ただ取材する側としてはそれも含めて復興にはこれだけ大変であり時間がかかることは伝えていかなくてはならないとの意識があり、思いがあります」とのお話でした。
 本日描かれる物語はラザロという青年とその家族を軸にして描かれる『ヨハネによる福音書』の名場面です。病に罹患し瀕死の兄弟ラザロのためにイエスを捜し求めるマリアとマルタ。協力する人々がようやく人の子イエスを見つけ出します。「もう一度、ユダヤに行こう」と弟子に促す人の子イエス。しかし弟子の群れは決して結束が堅くはありません。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」。ラザロが病床にいるベタニアは、弟子には身の破滅を招きかねない場所でした。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」。物分かりの悪い弟子は「主よ、眠っていれば助かるでしょう」となるべく関わりから遠ざかろうとしますが、この声に「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう」と「その場に居合わせなかった」とのあり方が「ラザロの甦り」の出来事により深くつながるかけがえのない機会となるのだと人の子イエスは意味づけます。この「ラザロの甦り」は後にイエス・キリストの十字架と復活の兆しとされてまいりますが、この混乱のなかでただひとり、自らの恐れを振り払うようにして「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と仲間を鼓舞する弟子がいます。それがディディモと呼ばれるトマスであり、怯える弟子の群れのなかでは意気盛んな者として際立ちます。しかし、イエス・キリスト復活の折には、その復活の出来事を頑なに拒みもする弟子でもあると、わたしたちは後から気づかされるのです。
 十字架にイエス・キリストが釘打たれ、いのちを失うという絶望。イエスと熱心に関わろうとした弟子であるほどに、その絶望は深かったと記すようです。何事かに懸命に取り組んでいればこそ、何もかも失った、あるいは期待を裏切られたとの失意の痛みもまた直ちには癒しがたい傷となります。そのような人々を神は引きあげます。先ほど「伝えなくてはならない」と語ったカメラマンは自宅兼仕事場再建のため80歳にいたるまでの多額の返済を抱えました。しかし。
死への勝利を全地に知らせるキリストの復活。神の愛なくしては不可能な可能性。この人は必ずやり遂げるとの信頼を、一見重苦しく見えるその負債は、実は想像もできないほど豊かな刈入れとしても示しているはずです。今なお迷いと苦しみに喘ぐ人々の涙を、イエス・キリストはともに分かちあい、つつんでくださります。

2024年9月19日木曜日

2024年 9月22日(日) 礼拝 説教

―聖霊降臨節 第19主日礼拝―

 時間:10時30分~
説教=「神の愛はすべての傷みをつつむ」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』10 章 31~39 節
(新共同訳 新約 187 頁)

讃美= 285,21-436(515),21-27(541)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

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【説教要旨】
 現在よりも遙かに自然の前に人の力が小さかった古代の東アジアには「天人相関説」という考えがありました。これは政治を司る者が悪政を行なえば、自然の調和が乱れて地震や津波といった天変地異が起き、多くの犠牲者が出るから、支配者は民を飢えさせず、飢饉や疫病を蔓延させないためにも善政を敷かねばならないという内容です。やがてこの考えは迷信として退けられるにいたりますが、大震災の後、自らは安全圏にいながら「これは現代人が自然への畏敬を忘れたから起きた」などと犠牲者やご遺族の悲しみを癒そうとせず軽口を叩くメディアに較べれば少しは考えるところもある、というものです。多くのフードロスの問題がある一方で白米が一斉に小売店から消える浅ましいその有様には、科学技術の発展と人の品位は比例してはいないとの溜息が聞こえます。

 本日の『聖書』の箇所である『ヨハネによる福音書』10章には一見すると戸惑うような言葉が用いられます。34節にある人の子イエスの言葉「あなたたちの律法に『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか」との箇所です。『旧約聖書』『詩編』82編には「神は神聖な会議の中に立ち、神々の間で裁きを行なわれる」との理解があり、この言葉が転じて「あなたたちは神々なのか。皆、いと高き方の子らなのか」との言葉が続きます。さらには『出エジプト記』4章16節ではモーセの兄アロンをして「彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代りとなる」との言葉が続きます。表面上文をきりとりますと誤解が生じますが、全体の文脈から判断しますと「神に委託された責任を授けられている人々」が示されているとも受けとめられます。

 正式な手続きを伴わずその場の高ぶりに任せて人の子イエスを殺害しようとする、エルサレムの祭司長や律法学者。「わたしはよい羊飼い」だと語った人の子イエスが「善いわざのことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ」と自らを正当化します。先ほど申しあげたような役目に伴う責任を棚上げする誤解に基づいて、イエスを殺害しようとする様子が分かります。しかし人の子イエスはそのような人々に向けて語りかけます。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはあり得ない」。そして「父のわざをおこなっているのであれば、わたしを信じなくても、そのわざを信じなさい」と自らを受け容れない人々に穏やかに接しているようにも聞こえるのです。

 この場でイエス・キリストは、敵愾心を露わにして襲いかかろうとする人々さえもその愛でつつみこもうとします。凶暴な態度の背後に、イエスに牙を剥く人々がこれまで受けた悲しみや痛みを見抜いて癒そうとするかのようです。本日の箇所で描かれる人の子イエスの姿は、自らを否定しようとする人々と論争しようとするのではなく、その言葉を否定せずに、自分が何者であるかを語る以外、沈黙を守りながらその場を去るという、英雄のような姿とはほど遠い救い主の姿が描かれます。

 人間には神から授かった責任がある、との言葉を上辺で捉えますとわたしたちはうろたえる場面もあります。正面から受けとめれば実に重たい響きがあります。しかしわたしたちが考える「責任」に先んじて、『詩編』82編に立ち返れば「いつまであなたたちは不正に裁き、神に逆らう者の味方をするのか。弱者や孤児のために裁きを行い、苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。弱い人、貧しい人を救い、神に逆らう者の手から助け出せ」との宣言があります。これは世の心ない統治者や有力者に向けた預言者の言葉としても響きます。『ヨハネによる福音書』の書き手はイエス・キリストの歴史的な人としての姿の描写に留まらず、「神の愛を体現した救い主」としての面を強調します。その愛とは他者の傷みに深く共鳴し、貧困や不正の中でなす術なくへたりこむ人々の手をとり、ともに歩もうとする姿にはっきりと示されています。人間性や人格を否定されて放置された人々の手を握って離さない愛こそ、神の愛の写し絵としてわたしたちに命じられており、わたしたちにも思わずそうせずにはおれない瞬間が訪れます。いつしかそのわざは、多くの交わりをもたらし、人々を巻きこんでまいります。

 イエス・キリストが示した神の愛はすべての傷みをつつみます。その愛はキリスト自らを手にかけようとする人々が抱えた傷みさえ癒してまいります。私怨が鎮まるのを待つのも祈りのひとつです。「迫害する者のために祈りなさい」とは筋書きのないわたしたちの身の回りから世界へと、人の悲しみを分かちあうわざに繋がります。

2024年9月11日水曜日

2024年 9月15日(日) 礼拝 説教

―聖霊降臨節 第18主日礼拝―

 時間:10時30分~


説教=「イエスに従ったひつじの群れ」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』10 章 22~30 節
(新共同訳 新約 187 頁)

讃美= 21-475(352),354.2,21-27(541)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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【説教要旨】
今でこそ建物の防寒対策・気密性が徹底され、北国の家では二重のサッシやセントラルヒーティング、床暖房、北海道の都市部にいたっては主要な道路の下に凍結防止剤が散布され、寒さのあまり手がかじかんで動かなくなるような外気温に触れていても家に戻れば温かな中で身体の緊張をほぐせます。しかしサッシがまだ一般的ではなく硝子窓、木製の雨戸、小学校にコークスのストーブがあったころの寒さと申しますのは格別であり、現在のような酷暑が実に稀であった代わりに、雪が降らなくても霜柱をザクザクと踏みながら歩くのが冬の日常であったころ、母親の手やかかとには必ずといってよいほど、ひび割れや「あかぎれ」を見つけたものでした。たとえ冬であろうと、なるべくなら湯沸し器を用いずに朝の備えをしたものでした。

四季の移ろい豊かなころの日本全国各地とは異なり、福音書に描かれるところの舞台は、確かに地域ごとの天候は様々であったでしょうが、乾燥した地域特有の気温の変化は否めなかったように思います。「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行なわれた。冬であった」。『ヨハネによる福音書』の書き手は、エルサレムの神殿奉献記念祭が冬に行なわれていたと明記します。しかし冬のエルサレムには雪も降り、外を歩くにはマントをはおり上等の毛織物を身にまとわなくてはなりません。それができない人々には文字通り生死の境となる季節となり得ます。ひつじ飼いは、ひつじの群れに潜って暖をとるか、懸命に火を起こし焚き火を囲むほかありません。そのような貧しい民を差し置いて、恐らくはこの神殿奉献記念祭は執り行われていたように思います。

そのように張り詰めた空気を変えてしまうように、人の子イエスは「ソロモンの回廊」を歩いてまいります。「ソロモンの回廊」は神殿の周りを囲む壁のすぐ内側にあり、「異邦人の庭」と呼ばれるところにあったと申します。そこは本来なら誰もが入れる場所であり、『使徒言行録』では使徒と民衆たちが集まった場としても描かれ、『ヨハネによる福音書』では人の子イエスがすでに先んじてその場にいたと描いています。しかしながらこの祭、かつてヘロデ一族と関係者が建築した神殿を神に献げるという、神と関わり執り行なわれる祭儀というよりは、エルサレムの神殿を建築した者、そのために財産を寄進した者、政治的な後ろ盾となった者たちの祝う祭りという色の濃厚なものと化していました。そのなかをイエス・キリストは歩いてまいります。あたかもガリラヤ湖の水面を進むがごとし、です。そのイエスの歩みを妨げるように神殿に仕えるところの古代ユダヤ教徒が立ちはだかります。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」。要はここで決着をつけようと迫ります。しかしこの場面で迫り来る人々の殺気に呑まれるイエスではありません。「あなたたちは信じない。わたしのひつじではないからである。わたしのひつじはわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」。この言葉が、後の世にどれほど多くのキリスト者に勇気を与えたことでしょうか。イエスを遮る人々の怒りは石礫(いしつぶて)を投げようとしますが、その礫でさえもイエス・キリストの招きに従う人々は決して恐ませんでした。その理由は、見つめるものが根本的に異なるからです。

本日は長寿感謝の日を覚えての礼拝です。八十路を迎えた方々への神の祝福をともに分かちあう礼拝です。この八十年の間、わたしたちの住まう国は絶えず他人と較べるというしくみの中での教育や産業、科学を組み立ててきました。いつの間にか「何のために」とのその人自らのテーマを忘れての過度な競争の結果として、比較できないいのちの重さが軽んじられてきた一面は否めません。だからこそ、そのような冷たい風の中で、なおもイエス・キリストに従い続け、時には板挟みや滑り落ちそうになりながら『聖書』の言葉と祈りの中で道を模索されてきた方々に心より神の祝福を祈ります。厳しい冬のエルサレムを思い出しながらも、頭に積もった雪に譬えられる齢のしるしには、年ごとに訪れる身体の変化によって、己を誇るどころかむしろ謙遜にされ、隣人からの支えに主なる神の支えを重ねられますように祈ります。今のわたしたちがそうであるように、見通しの利かない世にあってイエス・キリストを見つめてこられた重さにより、他の圧力に屈しない、頑固さとは異なる「イエス・キリストへのこだわり」が育まれます。それこそその人のこれからの新しい伸び代となるのです。わたしたちも春夏秋冬問わず変わらないイエス・キリストの愛に従いましょう。