2024年9月11日水曜日

2024年 9月15日(日) 礼拝 説教

―聖霊降臨節 第18主日礼拝―

 時間:10時30分~


説教=「イエスに従ったひつじの群れ」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』10 章 22~30 節
(新共同訳 新約 187 頁)

讃美= 21-475(352),354.2,21-27(541)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
今でこそ建物の防寒対策・気密性が徹底され、北国の家では二重のサッシやセントラルヒーティング、床暖房、北海道の都市部にいたっては主要な道路の下に凍結防止剤が散布され、寒さのあまり手がかじかんで動かなくなるような外気温に触れていても家に戻れば温かな中で身体の緊張をほぐせます。しかしサッシがまだ一般的ではなく硝子窓、木製の雨戸、小学校にコークスのストーブがあったころの寒さと申しますのは格別であり、現在のような酷暑が実に稀であった代わりに、雪が降らなくても霜柱をザクザクと踏みながら歩くのが冬の日常であったころ、母親の手やかかとには必ずといってよいほど、ひび割れや「あかぎれ」を見つけたものでした。たとえ冬であろうと、なるべくなら湯沸し器を用いずに朝の備えをしたものでした。

四季の移ろい豊かなころの日本全国各地とは異なり、福音書に描かれるところの舞台は、確かに地域ごとの天候は様々であったでしょうが、乾燥した地域特有の気温の変化は否めなかったように思います。「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行なわれた。冬であった」。『ヨハネによる福音書』の書き手は、エルサレムの神殿奉献記念祭が冬に行なわれていたと明記します。しかし冬のエルサレムには雪も降り、外を歩くにはマントをはおり上等の毛織物を身にまとわなくてはなりません。それができない人々には文字通り生死の境となる季節となり得ます。ひつじ飼いは、ひつじの群れに潜って暖をとるか、懸命に火を起こし焚き火を囲むほかありません。そのような貧しい民を差し置いて、恐らくはこの神殿奉献記念祭は執り行われていたように思います。

そのように張り詰めた空気を変えてしまうように、人の子イエスは「ソロモンの回廊」を歩いてまいります。「ソロモンの回廊」は神殿の周りを囲む壁のすぐ内側にあり、「異邦人の庭」と呼ばれるところにあったと申します。そこは本来なら誰もが入れる場所であり、『使徒言行録』では使徒と民衆たちが集まった場としても描かれ、『ヨハネによる福音書』では人の子イエスがすでに先んじてその場にいたと描いています。しかしながらこの祭、かつてヘロデ一族と関係者が建築した神殿を神に献げるという、神と関わり執り行なわれる祭儀というよりは、エルサレムの神殿を建築した者、そのために財産を寄進した者、政治的な後ろ盾となった者たちの祝う祭りという色の濃厚なものと化していました。そのなかをイエス・キリストは歩いてまいります。あたかもガリラヤ湖の水面を進むがごとし、です。そのイエスの歩みを妨げるように神殿に仕えるところの古代ユダヤ教徒が立ちはだかります。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」。要はここで決着をつけようと迫ります。しかしこの場面で迫り来る人々の殺気に呑まれるイエスではありません。「あなたたちは信じない。わたしのひつじではないからである。わたしのひつじはわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」。この言葉が、後の世にどれほど多くのキリスト者に勇気を与えたことでしょうか。イエスを遮る人々の怒りは石礫(いしつぶて)を投げようとしますが、その礫でさえもイエス・キリストの招きに従う人々は決して恐ませんでした。その理由は、見つめるものが根本的に異なるからです。

本日は長寿感謝の日を覚えての礼拝です。八十路を迎えた方々への神の祝福をともに分かちあう礼拝です。この八十年の間、わたしたちの住まう国は絶えず他人と較べるというしくみの中での教育や産業、科学を組み立ててきました。いつの間にか「何のために」とのその人自らのテーマを忘れての過度な競争の結果として、比較できないいのちの重さが軽んじられてきた一面は否めません。だからこそ、そのような冷たい風の中で、なおもイエス・キリストに従い続け、時には板挟みや滑り落ちそうになりながら『聖書』の言葉と祈りの中で道を模索されてきた方々に心より神の祝福を祈ります。厳しい冬のエルサレムを思い出しながらも、頭に積もった雪に譬えられる齢のしるしには、年ごとに訪れる身体の変化によって、己を誇るどころかむしろ謙遜にされ、隣人からの支えに主なる神の支えを重ねられますように祈ります。今のわたしたちがそうであるように、見通しの利かない世にあってイエス・キリストを見つめてこられた重さにより、他の圧力に屈しない、頑固さとは異なる「イエス・キリストへのこだわり」が育まれます。それこそその人のこれからの新しい伸び代となるのです。わたしたちも春夏秋冬問わず変わらないイエス・キリストの愛に従いましょう。