―待降節第4主日礼拝―
―クリスマス礼拝―
時間:10時30分~讃美ファイル3「主の食卓を囲み」,21-29.
56年前のアドベントにいのちを授かった者が、56年後のアドベントに突如肉親を天に見送る。そのような一週間を経て今朝の箇所を開きますと、そのようないのちの道筋が幾重にも重なるばかりか、その生と死のコントラストが今日よりもより太くより鮮やかであった時代に、娘マリアは天使ガブリエルより突然の祝福を授かります。「おめでとう、恵まれた方、主があなたとともにおられる」。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身籠もって男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい」。マリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と戸惑いながらも対話の終わりには「わたしは主のはしためです。お言葉通りになりますように」と受け入れます。この場面は今日では解明されたつもりになり、解明されるだろうとの憶測が溢れるにも拘わらず、主なる神からヘブライ語では「ネフェシュ」と呼ばれた「いのちの息」のもたらす処女降誕の物語が示す奇跡をはっきりと示しています。ただその一方で、この時代の妊娠と出産という出来事が、文字通り女性にはいのちを賭するわざでもあり、なおかつ生まれ出ずるところのいのちもまた、世に授けられたその時から生死の狭間を行かねばならなかったところを考えますと、この「お言葉通りになりますように」との応答が、いかに静かに語られようとも、常人には狂気じみており、マリアのただならぬ覚悟と決意を示しているようにも思えます。マリアはいずれこのいのちを、産婆の支えもなく世に押し出してまいります。その覚悟とともに献げられた歌が本日の箇所となります。
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目をとめてくださったからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者というでしょう。力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の高い者を高く上げ、飢えた人を善い物で観たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに」。
まさしくこの歌は、イエス・キリストの誕生の果実としてもたらされた世の大転換を物語っています。なぜならこの讃美とは真逆の世界こそ、マリアがみどり児イエスを授かった世のそのもののあり方であり、今もなお続く社会のしくみそのものでもあるからです。確かに人々がこの讃美に立ち返る毎に、世の人々は社会のしくみ、世のありようを見つめ直し、その大変革を主の祝福に応えるなかで繰り返し実現しようと目指す運動を想い起こします。しかし、その出来事が起きるにいたるまでキリストとならぶ塗炭の苦しみをマリアは幾度も味わい続けなくてはなりません。成長した息子イエスは方々でメシアと呼ばれ讃えられます。一方「気が変になった者」と呼ばれるのみならず様々な憎悪の標的にもなります。福音書の世界ではかつての村社会がそうであったように、個人と家族との関係が未分化であり、マリアはイエスの母というその理由だけで様々な嫌がらせを受けたことでしょう。本来ならばその大きな憎しみは世を新たにするためにこそ働くべき原動力となるべきでしたが、その実は少数者や弱者叩きへの情念と化し、その果てには、わが子との逆縁、しかもわが子があまりにも言われなき罪状で極刑に処せられるとの悶え苦しみが待ち受けていました。十字架刑に処せられる人の子イエスの苦しみは、母マリア自らの苦しみでもありました。それは産みの苦しみとは異質の、マリア自らもまた暗闇に投げ込まれるところの、死後の世界ではなく世にある地獄とも呼ぶべき、全く希望のない苦しみでした。
然るにマリアは、あまりにも無残に殺害されたわが息子が葬られた墓へと、その亡骸を清めるために墓地へと赴いてまいります。母親が味わう残酷さのその頂点でマリアが知らされたのは「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」との輝く衣を着た二人からの言葉でした。わたしたちがイエス・キリストの誕生を祝うとき、死に対するいのちの勝利を祝うとともに、復活のイエス・キリストの姿を飼葉桶のみどり児に重ねます。『ルカによる福音書』に記されたイエスの母マリアの讃美。それはわたしたちが一年に一度は必ず立ち戻る、教会の交わりの原点であり、世界の人々に向けられた喜びの報せの原点です。その出発点で、わたしたちは新しいいのちの喜び、新たにされたいのちのステージを喜び祝うのです。
