2025年12月12日金曜日

2025年 12月14日(日) 礼拝 説教

   ―待降節第3主日礼拝―

―アドベント第3主日礼拝― 

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「主イエス・キリストの福音を待ち望む」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』1章1~8節
(新約61頁)

讃美=95. 21‐268(97).21‐29.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
町の趣が次第にクリスマスに染まる中、わたしたちは今一度『新約聖書』が『旧約聖書』とは区別はされるが決して分離できない間柄にある事実を確認します。なるほどホテルでは単体で『新約聖書』が置かれているところもあります。しかしだからと言って『新約聖書』だけを読めばそれでよいとは申しません。あくまでも『旧約聖書』に記された神の愛のわざがイスラエルの民を超えて、習慣も習俗も言葉もすべて異なる民に向けてイエス・キリストに結晶したとの理解に立たなくては、ともすれば『新約聖書』だけを味わっておりますとただの通俗道徳と何ら変わらない理解、つまり世の中の常識を打ち破る神の愛を十全に受けとめるのは困難かと存じます。
 人の子イエスはユダヤ人でした。弟子も同じでした。そしてその教えを民の垣根を越えて広めた使徒パウロもまたもとはと言えばファリサイ派の律法学者でした。そのような具合ですので『新約聖書』が綺麗事に聞こえる人がおりましたら『旧約聖書』をお読みくださいとわたしたちは是非お勧めしたいところです。
 そのような事情を踏まえてわたしはさる人から不思議な言葉を聴きました。それは「わたしは神を信じないが『聖書』を一文字たりとも疑わず信じる」との言葉です。いったいどういうことなのだろうかと長年にわたって考えていたのですが、先日顔を洗っているときに「そうか」と思い至りました。それはわたしたちが通常「神」と口にしている言葉とは、これは日本語のもつ限界でしょうか、「カミガミ」「シモジモ」という人の手に十分に手の届く言葉で理解される言葉に過ぎないとよく分かります。『聖書』に記される神とは根本的に異なります。『聖書』なき神はアブラハムの神ではありません。だから「天皇はカミだ」との声を誤解したところにかつての悲劇がありました。
 洗礼者ヨハネが人々に呼びかけたのは、まさしく『イザヤ書』に記された神でした。それは『旧約聖書』に通底するところの、アブラハムの神・イサクの神・ヤコブの神でした。アブラハムの神は時に天地創造の神として描かれ、そして虐げられた人々の悩みを聴き、エジプトで苦しむ奴隷を解放する神であり、約束を破り続ける罪人を救うべく誰よりも率先され行動する神でした。洗礼者ヨハネは、その時代のローマ帝国の支配のもとで、歪められた神の名を、今一度人々のやり直しを通して伝えようとした人物でした。この役目を担う人々を『旧約聖書』で預言者と呼びます。
 本来は割礼という仕方で男性が神との約束を刻むはずのイスラエルの民に、水による洗礼という性別を超えた関わりの確認という道筋をつけました。後の教会の洗礼と違うところは、この洗礼がイスラエルの民の悔い改めに絞り込まれていたところですが、それでも洗礼者ヨハネのもとに群衆は集い、神の前での生き方のやり直し、すなわち悔い改めに希望を見出そうとしていました。洗礼者ヨハネが身にまとっていたもの、口にしていたものはすべて人の手が介在しない、人がお金でもって品物をやりとりするはるか前から養いとして授かっていたものばかりでした。こうしてイスラエルの男女問わず、等しく救いの約束が呼びかけられましたが、それでも洗礼者ヨハネは自らの至らなさを知っていました。洗礼者ヨハネの叫びはイスラエルの民のみに向けられ、また「悔い改めなければあなたがたは滅びる」との裁きを強調するほか無いのです。だからこそ洗礼者ヨハネは語ります。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けるが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」。つまり、水による洗礼とは一過性のものでしかありませんが、今働く神の愛の力である聖霊によって生き方を変えられた者には、必ずそのあゆみに喜びが伴うと、洗礼者ヨハネはその人物が朧気ながら確信していたのです。
 アドベントも三週目を数えます。わたしたちの身の回りには今なお様々なカミガミが満ちています。それは日本神話や物語として描かれる神々と言うより、人の可能性を阻んだり、人の不安を煽ったり、組織のなかで弱さを抱えた人々をはじき出そうとする情念です。神の愛とはそのような情念とは根本的に異なります。だからわたしはハッピーホリデイという挨拶よりは、メリークリスマスという挨拶に強く惹かれます。それは寒さに佇む人々の希望のともしびとなり、貧しさに喘ぐ人々への支援を上から目線のものではなく当たり前のものとし、すべての人々が弱さを恥とせず、他者を蹴落とす争いから解き放たれ、慈しみ続けるというイエス・キリストの福音を十全に証ししているからです。メリークリスマス。神を畏れぬ権力者にはその挨拶は不安をもたらしますが、家畜小屋で赤ん坊を産み落とすほか無かった貧しい夫婦にはまさしく喜びの報せとして響きました。イエス・キリストの喜びを待ち望む。それはすべての愛と平和をつつんで余りある、希望に満ちた『聖書』の核となる神の呼び声なのです。