ー聖霊降臨節第20主日礼拝ー
時間:10時30分~
一瞬の出会い、一行の『聖書』の言葉。さりげない支え、後から考えれば押しつけがましかったかと思わず赤面し、反省せずにはおれない振舞い。本人も相手も忘れてしまったような出会いが、あたかも1ミリにも満たないからし種のように根を下ろす事があり得ます。そして侮れないのは総じて植物の種の芽生えは石にひびを入らせ、コンクリートを砕き、アスファルトを突き破る力を授かっているところにあります。重要なのは、わたしたちがその時まで待てるのかという一点に尽きます。
わたしたちはか弱く見える芽吹いた姿を放っておけずについ手出しをしてしまいます。根は張れているか、葉の色はどうであるか、虫はついてはいないか。案じる気持ちが先んじるあまり芽生えの可能性を摘んでしまいさえするのです。それこそ神に委ねればよかったのに、と後から後悔するばかり。そこには心配の名に隠された不信があります。それこそが躓きとして理解されるのであり、悪意の装いはなく善意の衣をまとってその人ならではの神との関わりの成長を妨げてしまうのです。
そう考えてまいりますと本日の福音書の箇所には一見矛盾した事柄が記されています。ひとつには「躓きをもたらす者は不幸であり、そのような者は首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである」という面。他方には「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」という面。躓きをもたらす者もまた罪あるものであるならば、いったいふたつの面のどちらに目を留めるべきだというのでしょうか。
重要な点は「躓きをもたらす者は不幸である」と記されているのであり「災い」であるとは記されていないところだと考えます。この箇所では『旧約聖書』『創世記』のカインとアベルの物語を重ねてみれば分かりやすくなります。兄カインは弟アベルの献げものが神の目に留められ、自らの献げものが無視されたところに憤り、激情に駆られて弟を殺害してしまいます。弟殺しに対する宣告に「わたしの罪は重すぎて負いきれません」と怯えるカインに対して神はしるしをつけ、誰もそのいのちを奪えないようにしました。一見過酷に思える『創世記』の「失楽園」以降の物語にも「死んではならない」という神の宣言が、通奏低音のように響きます。ましてイエス・キリストが「首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれる」よりも苦しんでいる者を救わないはずがありましょうか。なぜそのような苦しみを覚えるのか。捨て鉢な生き方をするのか。それはその人自身が自分に絶望しているのであって神がその人には絶望してはいない証しです。もし神がその人に対して絶望し、根絶やしにするのであれば「からし種の譬え」は全く意味を失います。その人は世にある居場所を失って誰の記憶からも絶たれます。そのようなことは果たしてあり得るでしょうか。
泉北ニュータウン教会に招かれて九年目への途上にある現在、わたしは牧師就任式の折の挨拶で「一粒の麦のようにこの地で死になさい」と仰せになった恩師を思い出します。恩師は天に召されて二年間その弔いを世に伏せました。思い出しますのは就任式の席でわたしは生意気にも恩師に「実るほど頭を垂れる稲穂かな」と返した態度です。本日は神学校日礼拝。各地の教会で伝道者不足が叫ばれています。しかし考え方を少し変えれば実に豊かな田畑があちこちに秋風にそよいでいるのがビジョンとして映らないでしょうか。神学校で学んだ事柄を教会に献げるあり方が大切なのは言うまでもありません。研鑽そのものは怠ってはなりませんが、等しく大切なのは教会員の方々の無心な奉仕の姿から学び吸収するというわざです。聖日礼拝の説教のメッセージが牧師自らに返ります。そしていつの間にか「一粒の麦の死」と「豊かな実り」が一体となっているのに気づかされます。世代によって、また賜物によって奉仕のわざの多様さが神に受け容れられているのはなんと幸いでしょうか。神の赦しにつつまれて、新しい世代の踏み台となりたいと願い、その規模の些少を恐れず、神と人との信頼を深めながらキリストに従いたいと祈り願います。
説教=「神の赦しにつつまれた実りと平安」
稲山聖修牧師
聖書=『ルカによる福音書』17 章 1~10 節
(新約聖書 142頁).
讃美=367,503,542.
「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々がこないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに」。教会学校で学んだり、キリスト教主義学校のどこかに掲示されていたり、一度は耳にしたりする『コヘレトの言葉』12章1節の言葉です。確かに青年のうちには世の何たるかを知らず、自分の信念や関心事を探求するに余りある情熱もあります。しかし一度世の荒海に出るや、たとえどれほど情熱に燃えていたとしても、何度も水を被るうちに燻るばかりとなり、教会から足が遠のき、かつての友の電話に「世の中そんなきれい事では進まない」と自嘲気味に答えるほかなくなるとの話をわたしは伺ったことがあります。確かにそのようなことばを聴きますと打ちひしがれてしまうのもまた事実ですが「そんなきれい事では進まない」と語る者の心に針で刺されるような痛みがあるなら、誰が「からし種一粒の信仰」すらないと断言できるでしょうか。一瞬の出会い、一行の『聖書』の言葉。さりげない支え、後から考えれば押しつけがましかったかと思わず赤面し、反省せずにはおれない振舞い。本人も相手も忘れてしまったような出会いが、あたかも1ミリにも満たないからし種のように根を下ろす事があり得ます。そして侮れないのは総じて植物の種の芽生えは石にひびを入らせ、コンクリートを砕き、アスファルトを突き破る力を授かっているところにあります。重要なのは、わたしたちがその時まで待てるのかという一点に尽きます。
わたしたちはか弱く見える芽吹いた姿を放っておけずについ手出しをしてしまいます。根は張れているか、葉の色はどうであるか、虫はついてはいないか。案じる気持ちが先んじるあまり芽生えの可能性を摘んでしまいさえするのです。それこそ神に委ねればよかったのに、と後から後悔するばかり。そこには心配の名に隠された不信があります。それこそが躓きとして理解されるのであり、悪意の装いはなく善意の衣をまとってその人ならではの神との関わりの成長を妨げてしまうのです。
そう考えてまいりますと本日の福音書の箇所には一見矛盾した事柄が記されています。ひとつには「躓きをもたらす者は不幸であり、そのような者は首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである」という面。他方には「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」という面。躓きをもたらす者もまた罪あるものであるならば、いったいふたつの面のどちらに目を留めるべきだというのでしょうか。
重要な点は「躓きをもたらす者は不幸である」と記されているのであり「災い」であるとは記されていないところだと考えます。この箇所では『旧約聖書』『創世記』のカインとアベルの物語を重ねてみれば分かりやすくなります。兄カインは弟アベルの献げものが神の目に留められ、自らの献げものが無視されたところに憤り、激情に駆られて弟を殺害してしまいます。弟殺しに対する宣告に「わたしの罪は重すぎて負いきれません」と怯えるカインに対して神はしるしをつけ、誰もそのいのちを奪えないようにしました。一見過酷に思える『創世記』の「失楽園」以降の物語にも「死んではならない」という神の宣言が、通奏低音のように響きます。ましてイエス・キリストが「首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれる」よりも苦しんでいる者を救わないはずがありましょうか。なぜそのような苦しみを覚えるのか。捨て鉢な生き方をするのか。それはその人自身が自分に絶望しているのであって神がその人には絶望してはいない証しです。もし神がその人に対して絶望し、根絶やしにするのであれば「からし種の譬え」は全く意味を失います。その人は世にある居場所を失って誰の記憶からも絶たれます。そのようなことは果たしてあり得るでしょうか。
泉北ニュータウン教会に招かれて九年目への途上にある現在、わたしは牧師就任式の折の挨拶で「一粒の麦のようにこの地で死になさい」と仰せになった恩師を思い出します。恩師は天に召されて二年間その弔いを世に伏せました。思い出しますのは就任式の席でわたしは生意気にも恩師に「実るほど頭を垂れる稲穂かな」と返した態度です。本日は神学校日礼拝。各地の教会で伝道者不足が叫ばれています。しかし考え方を少し変えれば実に豊かな田畑があちこちに秋風にそよいでいるのがビジョンとして映らないでしょうか。神学校で学んだ事柄を教会に献げるあり方が大切なのは言うまでもありません。研鑽そのものは怠ってはなりませんが、等しく大切なのは教会員の方々の無心な奉仕の姿から学び吸収するというわざです。聖日礼拝の説教のメッセージが牧師自らに返ります。そしていつの間にか「一粒の麦の死」と「豊かな実り」が一体となっているのに気づかされます。世代によって、また賜物によって奉仕のわざの多様さが神に受け容れられているのはなんと幸いでしょうか。神の赦しにつつまれて、新しい世代の踏み台となりたいと願い、その規模の些少を恐れず、神と人との信頼を深めながらキリストに従いたいと祈り願います。