2023年10月27日金曜日

2023年 10月29日(日) 礼拝 説教

   ー降誕前第9主日礼拝 ー

――宗教改革記念日礼拝――

時間:10時30分~



説教=「わたしたちを大事にしてくださる方」 
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』1 章 1~14 節
(新約聖書  163頁).

讃美=519,Ⅱ 195,542.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 9月末から10月にかけて賑わったのは混迷極める国際情勢のみならず、2類から5類へと新型コロナ感染症が再分類された結果に訪れた行楽シーズンを知らせる報道でした。気温は炎暑と呼ばれる夏の暑さから一転して秋の風。一流のブランド品に身を固めた登山客は列をなすかのように富士山を始め、南アルプスや北アルプスへと集まっていきました。

 しかし。ネルシャツとニッカボッカに身を固め、長年の経験値を積んだ上で登山に臨むという登山者の姿はどこへやら。富士山の場合は弾丸登山という言葉すら用いられるありさまで、標高2400メートルの五合目までは自動車で入山できるのをよいことに、登山道がすし詰めのような具合で混雑するという具合。南アルプスや北アルプスの場合はすでに積雪があるのにも拘わらずすでにスケジュールに組んでいると言う理由で危険な稜線を渡り損ねて滑落するという事故も相次ぎました。本当のところ、登山とは山と対話しながらどこまで登れるかとのさじ加減をその都度判断しながらコツコツ進めていくもので、有給休暇は明日までだからと人間本位な都合を持ち込んでしまいますとたちまち大事故に繋がります。装備の質が登山者自身の実力を上回った結果起きた悲劇だとも言えましょう。

 大自然の秘境のもつ前人未踏の怖さを人間が身にしみて感じていた時代に『聖書』は記されました。したがって描かれる山河、または山紫水明とは、現代人が考えるような観光資源とはなり得ません。モーセがホレブの山に「十戒」を授かりに登った折に山は雲に覆われ人々の目から隠された、とありますが、まさしく人々の目から隠されたところで、わたしたちを大切にしてくださる神はそのわざを行なわれます。『出エジプト記』においてイスラエルの民にもっとも必要とされたのは何かと問えば、それは「十戒」に始まる『律法』でした。神に根ざす自由をあゆむために、人々はこの誡めを必要としたのです。神は宣言されます。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」。神は奴隷解放の神として自らを示すのです。

 それでは『ヨハネによる福音書』で虐げられた者とともに歩む神の愛をわたしたちに示したのは誰でしょうか。他の福音書に較べると本日の福音書は解説や説明が多くなっておりますが、1章の1~5節は『創世記』の「天地創造」を思わせる構成となっています。次いで「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである」との記事が始まります。「彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光であって、世に来てすべての人を照らすのである」。光の証人である洗礼者ヨハネが描かれます。そしてついには「言は、自分の民のところへ来たが、受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」。『ヨハネによる福音書』では「神の言葉には名前がある」と記します。名前を持つ以上、そこには関わる人々と「名を呼び合う交わり」が生じます。『律法の書』は「福音の養育係」に留まります。しかし「名前のある神の言」とは明らかに書き記された言葉とは異質です。まさしく本来は相容れない間柄である神と人との間を執りなす生きた神の言であり、それはイエス・キリストであると暗示されます。ではキリストはどのようにわたしたちの世に来られた、というのでしょうか。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。この箇所でいうところの「宿る」とは、遊牧民が荒れ地に天幕を張るような具合で宿られた様子を示しています。一箇所への定住ができず、絶えず移動を余儀なくされる、『聖書』の世界では最も弱い者とされた難民に近い人々が強い風や砂漠の暑さ寒さをしのぐために建てられる天幕。荒れ地に張られる天幕。その天幕が「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」というわずか一行に凝縮されています。そのような過酷な暮らしの中で遊牧民、『創世記』の中では族長たちの姿に重なる人々が是が非でも守らなくてはならない掟があります。それは「旅人をもてなす」という掟です。アブラハムを始めとした族長時代の人々の暮らしは、互いの身の安全を保障するために、初対面の人であったとしても必ず「旅人をもてなして」いたのです。相手をもてなすその振舞いは、確かに相手を大切にするためのわざでした。この「大切にする」という態度が、やがて神の愛の本質を示す表現へと膨らんでまいります。

 明治初期に日本人が手にした『聖書』の言葉のうち宣教師は「神の愛」を「神のご大切」と訳したと申します。道には行き倒れの人がおり、刑場では晒しものになった遺体がある、混乱した幕末・維新の世の中で「愛の福音書」と呼ばれた『ヨハネによる福音書』はどのように読まれたことでしょうか。どのように聴かれたことでしょうか。その時代の人々には考えもつかなかった、神はこのようなボロボロの世を愛してくださるとの確信が、人を消費するのではなく尊敬し、互いに支えあう交わりを育んでまいりました。確かにわたしたちは弱い者ですから、国際情勢を見たところで、混乱する家庭を見たところで、できるかぎりの事柄しかできません。わたしたちの愛には限界があります。だからこそわたしたちは謙遜と挑みを知り、キリストに従ってまいりましょう。