ー聖霊降臨節第21主日礼拝 ー
時間:10時30分~
説教=「いちばんたいせつなもの」
稲山聖修牧師
聖書=『ルカによる福音書』17 章 20~26 節
(新約聖書 143頁).
讃美=187,Ⅱ 182,542.
10月9日(月)に千葉県はじめ、太平洋沿岸の広い地域に津波注意報が出ました。震度1以上の地震の観測がないなか、なぜこの津波が起きたのか気象庁も関心を強く抱いています。伊豆諸島では漁船が転覆したり流されたり、房総半島の一部では避難指示が出たりとの報せがありました。アナウンサーが流れるように読むその原稿の奥に、人命の危機には至らないまでも日々の暮らしに欠かせない機材を破壊されたり、突然の避難指示に狼狽えたりするご高齢の方々、一定の設備が無ければ生存に困難な障碍を抱えた方々の動揺はいかほどであったかとの震えを感じずにはおれませんでした。 自然災害はいつもわたしたちの想定外で起き、わたしたちの日常をはぎとります。そして当事者が何をもっとも大切にしているのかを露わにします。東日本大震災で起きた津波では地域に伝わる「つなみてんでんこ」つまり津波がきたら家族がバラバラになっても逃げ延びなさいという伝承が強調されました。しかしだからといってすべての人がそのように対応はしませんでした。自分が津波に流されるのを覚悟の上で避難を呼びかけ続けた消防団の人がおりました。また寝たきりのお年寄りにお世話になったからと、逃げずにともに召された方もおられました。身体を動かせないお子さんがいる自宅へ戻ったまま帰らなかったご家族もおりました。災害での生存者が賢く、犠牲になった人々はそうではないという考えは余りに浅いように思います。その後復興とともに新しい日常が回復したとしても、戻ってこなかった方々の足跡は決して消されません。
その時代には破局的な自然災害のただなかで他国が滅亡され、イスラエルの民のみが復活し永劫の栄華に預かるといった誤解に満ちた終末理解は、確かにローマ帝国からの圧力が強まるほど過激になっていったことでしょう。支配者の力を奪う自然災害だけでなく、やがては神の国の実現のための武装闘争さえも正当化されていきます。しかしファリサイ派、すなわちその時代のユダヤ教の中心をなす人々が「神の国はいつ来るのか」と疑問を覚え始め人の子イエスに尋ねたその答えは「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなた方の間にあるのだ」。人の子イエスは時には自らに激しく論争を挑みさえするファリサイ派でさえも、イエス・キリスト自らが構想する神の国からは洩れないと宣言いたします。そして弟子には「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む日が来る。しかし、見ることはできないだろう。『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない」と語った後に、救い主の受難が予告されます。これほどまで「見ることはできない」と人の子イエス自らが繰り返すのはなぜでしょうか。
それは神の国の訪れに先立つ終末、つまり世の終わりには、多くの不法がはびこり、多くの人の愛が冷えながらも「最後まで耐え忍ぶ者は救われ」「御国の福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる」との時代が前触れとなっているからです。福音とは一般には「よきしらせ」として理解されます。しかしより具体的にはわたしたちの「関係性の回復」を示しています。たとえ自然災害でいのちを失おうとも、戦乱の中で財産を失おうとも神から授けられ、キリストを基とした関係性につつまれていれば、わたしたちはもはやすでに愛なる神の統治と関わっているのです。聖日礼拝との関わりもこの神の国との絆を、まことに弱いわたしたちが赦しの中で幾度も確かめ、感謝を献げるためにイエス・キリストが設けてくださるのです。
もちろん『ルカによる福音書』は本日の箇所の後にノアの物語で描かれる洪水や、都市国家ソドムを襲った災害を記し、人の子イエスは「家の中にある家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない」と訴えます。これは本日の福音書が富裕層も視野に入れている点を考えれば、日々を精一杯の思いで生きる人々に較べ衣食住に事欠かなかった人々が、神を中心とした関係性の大切さに鈍感だった態度を示しているのかもしれません。だからこそ書き手は厳しい態度と表現で決断を迫るほかなかったのではないかと考えられます。決してそれは因果応報論や自然災害が神罰であるとの「天譴論」とは結びつかないのです。
「いちばんたいせつなもの」とは何か。この問いをめぐってわたしたちは絶えず自らの判断基準に苦しみます。しかし本日の箇所では次のように記されます。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」。様々な情報の氾濫。これは福音書でいうところの「戦争の騒ぎや戦争のうわさ」だと言えるかもしれません。しかしイエス・キリストは続けて語ります。「そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」。神から授かるまことの関係性を知るわたしたちは次のように語ることができるでしょう。「真理はあなたたちを自由にする」。キリストに従う、という生き方はイエス・キリストのように生きるというあり方に繋がります。それは様々な破れや身体の不自由さを抱えながらも自由に生きる道です。困難な時に「いちばんたいせつなもの」を見あげましょう。「いちばんたいせつなもの」を分かちあうためイエス・キリストは訪れました。キリストを通してすべてを神に委ねましょう。