2021年8月5日木曜日

2021年8月8日(日) 説教(在宅礼拝用です。当日の礼拝配信についてもお知らせしています。)

「死線をこえる神の愛」 

説教:稲山聖修牧師

聖書:『マタイによる福音書』10章16~23節

(新約聖書18頁)

讃美歌 300.519.545.

可能な方は讃美歌をご用意ください。
ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


説教動画はこちら←です。

なお、当日午前10時半からの礼拝配信につきましては、

こちらのページ←に掲載しておりますので、

よろしくお願いいたします。


【説教要旨】

自分のことは誰よりも自分がよく分かっている。なんと幼い意識でしょうか。しかし、あらためて何と浅はかな意識に囚われていたものだとと痛感した、この半月あまりの出来事でした。救急搬送の後に、気づけば一般病棟で寝巻きになっていて、この間の記憶は曖昧もしくは跳んでしまっているとの体験は、みなさまの祈りとお支えがなければ、この場にいなかっただろうという事実の裏返しでもありました。そして不思議なことに、本日の聖書の中で際立つのは「蛇のようにさとく、鳩のように素直」に示される、一見矛盾するような人のあり方が、冒頭の「わたしはあなたがたを遣わす」という派遣の言葉と「人の子はくる」との結びの予告にあって、すべてにわたり肯定されるところに、本日のメッセージでは注目していきたいと思います。

「わたしはあなたがたを遣わす」との言葉は礼拝の祝祷で刻まれる祈りであり、わたしたちは各々の暮らしの現場にキリストが介入される前触れとして受けとめることができます。ただしその「介入」は、決して各々の暮らしのタイミングに合わせて、都合のよいところに起こるのではありません。予定通りの仕方で訪れるのではありません。むしろ、わたしたちが定めたと思い込んでいる仕事の見通しや、うまくいっていると調子にのる浅はかさを打ち砕くような仕方で、まことに想定の右斜め上から訪れます。その出来事はわたしたたちの暮らしや心の隙を突いて訪れます。なぜでしょうか。それは神はその人の「強さ」ではなく、隠しておきたいとさえ願う「弱さ」を用い、ご自身の似姿としての人間の姿へと立返らせていくのです。しかもこれは必ずしもわたしたちの日常では望ましいタイミングで起きるものではありません。「弱さ」を用いてくださることは、各々の仕事を中断するという仕方で、わたしたちを神の前に絶えず「引き渡す」「引き出す」ところにまで行きつきます。Παραδουναιパラドゥーナイ)という言葉は、自分の本意とは異なる仕方で引き渡されるという意味で、イスカリオテのユダが祭司長たちの下役に主イエス引き渡し、イエス・キリストを裏切る場面でも用いられ、または使徒パウロがファリサイ派の律法学者サウロであったころ、イエス・キリストに従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに「連行する」という言葉としても用いられます。もちろんその最中にサウロは自らキリストに捕らわれて使徒として神の前に引き渡されていきます。

青年期のわたしたちには 教会とは友と会える場であり 他の何かと比較し選んで出かけていける、選択可能な交わりでした。その折には、自由という言葉はわたしたちには自己実現とよく似た響きをもっていました。けれどもわたしたちは時を経るごとに、自分の意思で選べる自由が 結果として思いもよらない痛みや責任とともにあることを知り、 選んだり選ばなかったりする権限がこちら側にではなくて もっと大きなところにあると痛感するほかありませんでした。時を重ねる中で知恵もついたかもしれません。頑固さと引換に表向きには忍耐つよくなったかもしれません。素直さに憧れるようになったのかもしれません。けれどもわたしたちは個別にみれば「鼻で息をする者」でしかありません。ですから、わたしたちは神の前に鳩のように素直でなければ、神からいのちに関わる知恵を授かることはありません。この箇所で登場する蛇とは、当時のローマ帝国が崩れてなおも医療を司る知恵の象徴でもありました。そのような技術を享受し、長く生きるほど、わたしたちはあっという間に過ぎさった時を思い出します。そんなときに「人の子」はやってくるのです。そのような思い煩いをすべてわたしに献げなさい。すべてわたしに委ねなさい、わたしに任せなさい、との力強い声のうちにであります。

自分には不安にしか思えないところで、わたしたちは死という制約をも突破していくイエス・キリストに出会います。そしてイエス・キリストは、わたしたちの未来を思いもよらないところから「引き出し」てくださります。主イエスがきてくださったから、わたしたちの今があります。「人の子の訪れ」は、わたしたちが選ぶのはありません。神がわたしたちを選んでくださった証しです。あらゆる死線をこえて神の愛は迫ります。本日は8月の8日です。広島があり、長崎があり、引き揚げがあり、ポツダム宣言の受託があり。あと三十分早ければ、遅ければといった状況の中で、人命が損なわれ、人命が助けられたという異様な体験を経て死線を彷徨ったひと月でもありました。励ます声は御使いの声、ささえる手があればそれは主の御手。わたしたちの背中を押してくださるのは主なる神であり、神の力と働きかけが、神の愛の力である聖霊の力。病床にあっても主にある平安のうちに癒しが臨むよう祈ります。