緊急事態宣言が大阪府下に発令されています。
教会員のみなさまにおかれましては
在宅礼拝をお願いします。
(ページの下に、礼拝配信のリンクを掲載しています。)
稲山聖修牧師
聖書:『マタイによる福音書』12章46-50節
讃美歌: 239, 348, 545.
動画は2種類
【説教要旨】
毎年八月になりますと、敗戦を記念したドラマやドキュメンタリー番組がメディアで盛んに放映されます。今年はオリンピックの影響もあってか例年ほどではないにせよ、それでも何かしら特別企画として制作される番組があります。撮りだめ・書きだめであるにせよ、一年にひと月近く喪に服するという倣いは、戦前にはありませんでした。
けれどもその時代を生き抜かれた当事者におかれましては、放映されるドラマやドキュメンタリーの構成に違和感を覚える方々もおられるのではないでしょうか。ドラマでは太平洋戦争が始まり、刻々と戦況の悪化が第三者の視点で語られ、そして度重なる大規模な空襲と敗色濃厚な南方の戦況、連合艦隊の壊滅と特別攻撃、そして広島・長崎、敗戦という一定の筋書きがあります。しかし実際にその時代に生きていた方のお話を聞いておりますと、そのような筋書きは全く意識してはいなかった、というのが正直なところだった模様です。すでに太平洋戦争に突入する10年前から満州事変が始まり、日本は中国との戦争に突入しておりました。1937年、日本軍が南京を占領した際には提灯行列が組まれ「戦争が終わる」という気持ちに溢れていたとのことですが、1939年には二度にわたるソ連を相手にしたノモンハン事件、そして太平洋戦争ですから、戦争が日常化してしまっていると申しあげるほかはありません。当時のメディアでは戦勝報告しかいたしませんので「そのようなものだろう」と一般的な人々はそのように思うほかはありません。日常として戦争があり、それがまさか負けるとは思わなかったという仕方で、突然世の中のしくみから価値観まですべて変わってしまうというありさま。その中で親御さんを戦争で亡くし戦時中は「戦死したお父さんは立派だった」と言われて家族の死を受容してきたこどもたちが、今度は戦災孤児として何の支えもなく市井に放り出されるという筆舌に尽くしがたい苦しみを味わってきたのが高度経済成長期の影の部分でもあったと言えるでしょう。飢えや疫病、過酷な生活環境だけでなく、家族の死の意味まで奪い取られてしまうという、これほど残酷な話はありません。
今日の聖書の箇所では人の子イエスが群衆に話しておられる最中、肉親であるところの母親と兄弟が外で待っているという場面から始まります。しかし人の子イエスは群衆を見つめ弟子を指してこのように答えます。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」。そして「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」。生みの親と肉親を差し置いて、このように語るイエス・キリストに神の子らしからぬ違和感や冷たさを感じられる方々も多いのではないでしょうか。しかし問題は、人の子イエスが誰に向けて話をしている最中の「ご覧なさい」との声。この声はキリストに何を示そうとしていたのでしょうか。
イエス・キリストが語りかけていたのはまずは「群衆」です。つまり名もない、明日のいのちも定まらない、今日を生きるのが精一杯という人々ばかりです。家族という言葉すら「群衆」には当てはまらなかったもしれません。人の子イエスはそのような人々も含めて、弟子たちに「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」。キリストと出会う前、互いに一切関わりのなかった群衆や弟子たちに向けられたこの言葉を通して、必ずしも血のつながりにはよらない家族としてのつながりが育まれていくことになります。血のつながりだけが家族の絶対条件ではないという先進的な見方をイエス・キリストはこの箇所で語っているのであり、その言葉を実の母や兄弟たちは決して否定してはいません。
新しい生活様式という言葉に基づいて「ステイホーム」「リモートワーク」が官民挙げて推奨されてまいりました。しかしその陰で、深刻な家庭内暴力が起きたり、幼児・児童虐待が起きたり、育児放棄が生じるという闇もまたあるのだと知る必要があります。そのような家庭を孤立化させないという意味でも「こひつじこども園」や「放課後等デイサービスこひつじ」の働きは大きいところです。在宅礼拝を中心にして礼拝を献げている現在の教会ではありますが、時代の風を読みながら「天の父の御心を行う人」に届いた知らせをもとに相応しく祈り、心身のケアーを怠らず、神の家族としての支え合いを進めていきたいと願う者であります。今こそ聖書の言葉を前にし、各々の器に相応しい仕方で何ができるのかを祈り求めてまいりましょう。