2021年8月19日木曜日

2021年8月22日(日) 説教(在宅礼拝用です。当日の礼拝配信についてもお知らせしています。)

緊急事態宣言が大阪府下に発令されています。
教会員のみなさまにおかれましては、在宅礼拝をお願いします。
(ページの下に、礼拝配信のリンクを掲載しています。)

 


説教:「すべてを主なる神に委ねよ」
稲山聖修牧師

聖書:『マタイによる福音書』13章24〜43節

讃美歌:291, 392, 545.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】

 最近は「わだかまり」という言葉をあまり使わなくなったように思います。このわだかまりに代わって使われるのが「もやもや」。自然界の音や声、物事の状態や動きなどを音で象徴的に表した語ですが、ひょっとしたら今の時代に似合うのはこの「もやもや」ではないかと考えます。政府のコロナウイルス感染対策を聞いては「もやもや」し、豪雨に対する対策を耳にすればやはり「もやもや」する。何ともやるせない思いに駆られたときにこの「もやもや」にわたしたちは包まれます。今の時代、この「もやもや」には「憤懣やるかたなさ」も入りますから、琉球の言葉の「わじわじ」(いらいらする)に近いかも知れません。

 わたしたちは世にある限り、祈りつつこの「もやもや」の中にも何か神が備えられた道があるはずだと目を凝らそうとするのですが、わたしたちが関わる人、出会う人すべてが必ずしも同じ道をたどっているようには思えない場合があります。教会の交わりとは異なる社会で暮らす方々には、そのような苛立ちが多いかもしれません。地球規模の問題かも知れない、福祉のありかたをめぐる心無い発言かもしれない、在宅療養をめぐる発言かもしれない、子育てや教育をめぐる発言かもしれない、平和と戦争をめぐる発言かも知れない。手当や暮らしを巡るやりとりかもしれない。この「もやもや」に押し潰されそうになったとき、わたしたちはどうすればよい、というのでしょうか。

 本日の聖書の箇所で主イエスは次のような譬えをお話しになります。「ある人が良い種を畑にまいた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を撒いて行った」。ここで話に不自然さを感じたのであればそれはまっとうなご理解かと思います。これは戦、合戦の話としても読み取れます。兵糧を絶つのはこの時代の常套手段でした。当然ながら「芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた」。毒麦とは、苗の頃には小麦とよく似てはいるものの、麦の中に特種な菌類が入り込み、脳神経と疼痛、幻覚をもたらす毒物をもたらします。当時の医療では治療不可能です。ですから苗のころは見かけ上、小麦と毒麦とは分別が難しいところ。これを夜半に忍び込んできた者が撒き散らしていったという訳です。今でいうバイオテロです。とうとう毒麦が姿を表したとき、僕は慌てふためいて報せに走ります。「だんなさま、畑には良い種をお撒きになったのではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう」。この箇所で主人ははっきり申します。「敵の仕業だ」。教会の内部の問題として考えれば、まさしく教会の実りを駄目にしてしまうどころか、関わる者の生き方やいのちすら損なう可能性さえある混乱が生じていたとも言えます。僕たちは当然といえば当然の対応を考えます。「では、行ってかき集めておきましょうか」。しかし、主人は別の発想をいたします。「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と刈り取る者に言いつけよう」。つまりそのように命令しようと主人は言うのです。焦ってはいけない、時を待てと言うのです。

災いや混乱をもたらす者を力尽くで排除する。世のあり方や政治の世界では当たり前かも知れませんが、聖書はそのような発想には決して立ちません。世にある正しさと申しますものは人の数ほどあります。それぞれが相手の言葉に耳を傾けず、根こそぎにしようとしたとき、本来は人を養うに足る「良い麦」も「毒麦」と同じになるかもしれません。SNSであれ会議の言葉であれそれは変わりません。思えば『使徒言行録』5章で、使徒の殺害にはやる民衆を諫めるため、パウロの師匠でもあったとされるファリサイ派の学者ガマリエルは次のように語りかけます。「あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らうかもしれないのだ」。「もやもや」を不満として人にぶつける石のように扱うならば、話はそこで終わってしまいます。それは結局自滅を意味します。実にもったいない、刹那的なあり方です。それよりも各々が抱えた「もやもや」や「わじわじ」を、わたしたちは主なる神に委ねましょう。ガマリエルの教えは、イエス・キリストが自らの憤りや不安、悲しみや喜びをすべて神に委ねていく姿に重なります。そしてその態度は、使徒たちの働きを通して、わたしたちに開かれています。無理に不安に打ち克つ必要も、悲しみを鎮める必要もありません。そのような気持ちを、十字架で苦しまれたイエス・キリストを通して、神に委ねてみてはいかがでしょうか。悲しみや憤りが全く別の輝きを放ち始めます。祈りましょう。